世論をつくる

脳味噌の容量が少ないので猛然と音楽制作している時は、不思議と本を読む気にならないのである。いや、読んではいるのだけど、気もそぞろというか。結局これも途中放棄。

世論をつくる―象徴闘争と民主主義

世論をつくる―象徴闘争と民主主義

民衆の意見、群集の意見はなお、「予想のできない気まぐれな感情」の同義語であり、狭義の政治の周縁にずっと置かれていた。といって完全に無視されうるわけでもなかった。ただ「啓蒙エリート」の意見のみが、無謬でないまでも、少なくとも理性に基礎づけられているから普遍的で非人格的であるとされ、表明されたのである。だから、およそ十八世紀前半を通じ「世論」とは、(今日のような広い意味での)公衆の世論であるよりは、アカデミーや文学サロンに足を運ぶ社会エリートたちの「公表された」意見であった。(略)
したがって、「世論」なるものは、十八世紀を通じて、知的エリートと法服ブルジョアジー[革命前、官職を金で購った平民層の者たち〕が政治の分野でのかれら固有の要求を正当化し、国王の絶対主義を弱めるためにしつらえた「にわかづくりの」イデオロギー戦争マシーンの一種だった。(略)
これらの知的エリートにとっての実際の問題はもっぱら、かれらがまだ大幅に排除されているゲームに加わることを正当化し、可能なあらゆる手段を使って現存政治体制の正統性を弱めることにあった。(略)
いいかえると、「世論」とは、職業イデオロギーにほかならない。意見の生産を業とし、その文識エリート的意見を修正し、政治的価値をもつ普遍的な、時間を超えた匿名の意見に変貌させることで政治ゲームに加わろうとする限られた社会集団の戦略がねらいを定めるのが、オピニオンなのだ。
文化資本に富んだ層にとっては、「世論」と呼ばれることのメリットは、政治に関するかれらの固有の意見が、数的にはごく少数であっても普遍的な学者たちのコミュニティの意見として紹介され、いわば「脱個別化」されることにある。