モードの方程式

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汚れるなら汚してしまえカーキ色

ハリー・ラムデン卿、インド駐屯の英国歩兵連隊の司令官である。
当時の英国の軍服は純白だった。規律を重んじる軍人だったラムデンは、パンジャブ地方の砂埃で部下たちの白い軍服がたちまち汚れてしまうのが許せなかったようだ。対策を思案し、初めから埃そのものの色だったらどうだろうと考えたラムデンは、軍需品係の将校に、白い軍服をコーヒーやカレー粉や桑の実の汁に浸して黄褐色に染めさせてみた。1848年のこと。
この新しい色の軍服を、インド人たちは「カーキ(khaki)」と呼んだ。ヒンディ語で「埃の色」という意味である。

たぶん慎太郎は小躍りしてチノパンを支那パンと呼ぶだろう。
ポニーテイルの小池栄子の「膨張と収縮」の彼方にアヤパンこと高島彩が浮かぶようなものだなあ。

陸軍全軍の軍服用に、マンチェスターの織物工場はカーキ色のコットンツイル(木綿の丈夫な綾織り)を大量に生産する。この生地をインドに送り込むが、まだ余ったので中国へ輸出する。第一次世界大戦直前のことだ。それを今度は中国の軍隊が、フィリピンに駐屯していたアメリカ軍に売り渡す。中国から来た生地なのでアメリカ軍はチノ(chino)と呼び、陸軍の制服に採用する。第二次大戦後、チノで作ったパンツは勝利の象徴ともなり、「チノズ(chinos)」(狭義にチノパンをさす)として一般に普及することになる。

サンドイッチ伯爵に負けじと、カーディガン。

くつろいだ場面にこそよく似合いそうなカーディガンなのであるが、誕生したのはなんと戦場だった。
イギリス、フランス、トルコ、サルディニアがロシアと戦ったクリミア戦争である。
この戦争でイギリスの軽騎兵隊を率いてめざましい活躍をし、ヒーローに祭り上げられたのが、カーディガン伯爵七世である。
肖像画に残る当時のカーディガン伯爵の装いはといえば、ぴったりとしたチェリーピンクのズボンに、金モールをあしらったロイヤル・ブルーのジャケット。負傷していたのでその上から金モールをあしらったウールのケープをまとっている。
血なまぐさい戦場ではためいたこの派手なウールのケープこそ、今日のニットのカーディガンの祖先になった服である。(略)
さて、今のような形のカーディガンが世に出るのは1868年。袖の有無にかかわらず前でボタン留めするウールのウエストコートをこう呼んだ。

グッドイヤーの特許著作権に対する男前な言葉

チャールズ・グッドイヤー(1800-60年)。
彼は苦労の末、1839年にゴムに硫黄を混ぜて高熱処理することで、気候を問わず弾力を保ち、素材を問わず付着する硬化ゴムを作ることに成功する。その後登場するあらゆるゴム産業がこの発明のおかげなのだが、なんとグッドイヤー本人はこの発明からほとんど利益を得ていない。それどころか何度も負債をかかえて投獄され、没した時にも多額の借金があった。
キャンバス地にゴム底を組み合わせて作った最初期のスニーカーは、どうやら息子のチャールズ・グッドイヤー・ジュニアの考案によるものらしいが、これを「発明」したことになっているのは、1892年にグッドイヤーを買収したコングロマリット、U・S・ラバー。
「わたしが植えた樹に実った果物を他人がとっても文句は言わない。種をまいたのにだれも収穫を得なかったらそのほうが悔やまれる」とはパパ・チャールズの言葉であるが、現代、私たちが履き心地の良さを享受しているスニーカーも、その収穫の一つというわけである。偉大な発明家の不遇の生涯を思うと、恐縮のあまり忍び足になりそうでもある。
ちなみに1898年に創業したグッドイヤー・タイヤ&ラバー社は一族とは無関係だが、偉大な発明家に敬意を表してこの社名を掲げている。