脇坂綾『青い玉』

脇坂綾『青い玉』(群像7月号)が気になっている。
小説を読む能力がない人間でも「読める」というか「読む気になる」小説というのはそれだけで気になるのである。そんなに素晴らしいデキかと言えばそれは微妙であって、次回作に期待大という段階なのだけど、何故だか引き込まれるのである。これはひょっとして単にこちらが小説に甘くなっているだけかなあと他の文芸誌もチェックしてみたけれど、どうも脇坂だけである。
出かける前の服選びで悪戦苦闘する普通のイントロで、ふーんと思いながら先に行くと、女友達と彷徨ったホテル街での東電OL殺人事件から「青い玉」のイメージが描かれて、そこからさらに逸脱して海のイメージから独白のような思考が展開されていくのだが、なんとなく昂揚感がある。それでもこちらは小説に対して冷たいので、まだ半信半疑なのだけど、何故か引っ掛ってくる。
描写が素晴らしいわけでも、その思考が斬新なわけでもなくて、それなのについつい作者の語りに引き込まれるのである。海のイメージでも、きっと作者の頭の中ではもっと凄いことになってて、実際に書かれた文章を前にジリジリしてるのがわかって、こちらも勝手に足りないところを補足して昂揚しているのである。小説に対して薄情な読み手にそうさせてるということは勝ったも同然なのではなかろうか。
調べたところ、これまで発表した作品は以下の二作のよう。
「鼠と肋骨」《群像 2003年6月号》(第26回群像新人文学賞・小説優秀作)
子供なし出戻り女が静かに「女性」の行く方を思う普通の小説。子供を産んでいる姉も出てくるが対立はない。ラストの辺りに最新作の気配あり。
捕まえた鼠と近所の黄色ドレスのキチガイおばさん。

花の形をしたらくがんは口のなかで甘い泥となり舌の上や頬の裏や喉を固め、苦しくなって美穂は吐いた。美穂の吐いた甘い泥は母のひざや胸のあたりを汚した。汚れた服のまま母は美穂の口に指を入れあちこちと強くこすり泥を拭うと指についたそれをなめた。何度も何度も。母と美穂の唾液はお互いのロを行き来して混ざりひとつのものとなった。ひとつのものとなった唾液は今も美穂の口の中に残る。皮膚粘膜の奥深くまで浸透し薄い膜と化して美穂のロからときどき言うべき言葉を吸い取る。自分もいつか黄色いドレスを着て歌うだろうかと美穂は思う。言葉のない口で歌うだろうかと考える。歌は口から垂直に伸び家々に反響する。腹の中に無限をもつ鼠が家を齧り穴を開ける。穴の奥には闇がある。ぶち切られてしまった肋骨が作る空白がある。

「昼間の動物」《群像 2003年12月号》
前作評で笙野頼子に「文の下手まねが消えて地声が出ると良い」と言われたせいなのか、ひきこもり姉と妥協結婚出産妹の闘いに。進歩しているのだが、笙野エキスのせいか、ますます読みたくない度が増。

でも四コマ漫画と散歩だけで、人が生きてゆけるわけはなかった。だからきっと、姉はいつか、淘汰される。父が死に、母も死ねば、姉は一人ぼっちだ。ムカデやトカゲやヤモリとともに、丘の上の迷路の先の、買い手のつかないマンションで、ひもじい思いをしながら、死んでゆくだけだ。おなかがすいたら、ムカデを焼いて、食べればいい。トカゲの尻尾を、踊り食いみたいに、ほおばればいい。あみこのおにぎりなんて、母以外に、もう誰も作ってはくれない。(略)淘汰だ、と、姉たちに言ってやりさえすればいい。赤ん坊を、姉の手の届かない場所に置いて、そう言おうとゆかり思った。私は子供を産んで、淘汰は避けられた、と。私はもう一人私を作ったのだから。母にも言おう。あなたが作った二人のうち一人はきっと淘汰されるでしょう。消えるでしょう。もういいでしょう?諦めな。

最新作では未婚の友人と妥協して出産・離婚の主人公が描かれるが対立はない(齟齬はあるけど)。産んでも産まなくても淡々と女地獄極楽。かといって笙野のように男が悪い男が憎いと言うのでもなく。で、肝心の最新作からの引用はなし(あっ、8月号出たから、もう借りれるか)。でも、なんか難しいんだよなあ。ここがっ、というのじゃないし。ともかく、次だよなあ。
受賞時の経歴。
わきさか・あや。73年東京都生まれ。聖心女子大卒業。千葉県在住。現在主婦。