新聞記者 夏目漱石

 

新聞記者 夏目漱石 (平凡社新書)

新聞記者 夏目漱石 (平凡社新書)

漱石が入社した頃の東京朝日の雰囲気

当時の東朝はいまでいうベンチャー企業のような若々しさで、漱石のこの「壮大な実験」に恰好の舞台だった。(略)毎日が締め切り、即物的で可変なスタイルをもつ新聞の生理も、漱石には新鮮だった。当時の東朝は東京進出まだ二十年、長男の大朝に対し、やんちゃな次男坊という位置で、池辺三山という大プロデューサーがエネルギッシュに改革を推し進めていた。その東朝に入社し、小説を書き、随筆を載せ、講演をこなし、文芸欄を主宰し、新進作家にチャンスを与えた。

大学を辞めて気分爽快言いたい放題

「大学を辞して朝日新聞に這入ったら、逢う人が皆驚いた顔をして居る」と始まるこの挨拶文は、なかなか痛快である。(略)
漱石はさらに大学を批判する。講義をするとき、犬が吠えて不愉快だった(近くの医科大字の実験用の犬だったらしい)、図書館で雑誌を読むのが楽しみだったが、館員が大声でしゃべったり、ふざけたりして大いに迷惑した、学長に苦情の手紙を出したが、取り合ってもらえなかった、などといささか八つ当たり気味だ。講師として年に八百円もらっていた、と具体的な給料も明かす。(略)
一方で、こうした遠慮のない物言いは、「恩知らず」「不徳義漢」という批判もあった。とくに大学関係者からは不興をかった。弟子の森田草平すら「意気のあがっているのは構わないとして、去った大学を糞味贈にやっつけていられるのはどんなものだろうか」と後に書く。

人類館

初めての新聞小説ということで時事性に気を配った漱石は東京勧業博覧会に着目。イルミネーションと日清戦争で獲得した台湾館を描いた。余談ですが、それ以上に強烈だったのが抗議殺到の人類館。

人類館は、政府公認の台湾館と違い、民間のパビリオンだった。そこには生身の人間を数人ずつ、それぞれの民族の住居に似せた区画に住まわせていた。「アイヌ五名、台湾生蕃四名、琉球二名、朝鮮二名、支那三名、印度三名、爪睦*1一名、バルガリー一名」と大阪朝日は記す。
この情報を知った清国留学生が抗議の声を上げ、清国公使が正式に外務省に抗議した。その結果、開催直前に「支那人」の展示をはずした。開催直後に、こんどは韓国公使からも抗議がきて、朝鮮人展示もはずした。さらには沖縄でも地元紙「琉球新報」が抗議の声を掲載、大阪朝日が転載して世論に訴え、琉球人の展示も中止になった。館側はその間、名称を「人類館」から「学術人類館」に変更、あわてて学問的な衣装を着せている。
(略)
四年後の東京勧業博でも人類館は設置されたが、主に旧石器や縄文時代の遺物を展示する考古学的な展示だったようだ。

吾輩の死亡記事が載ったのだ

やはり「三四郎」掲載中のことだが、東朝の片隅のコラム「萬年筆」にこんな記事が載っている。
△夏目氏の猫死す 夏目漱石氏の愛猫は今春以来慢性腸加答児*2を煩い居たる処薬石其効なく四五日前六歳を一期として遂に冥途に旅立ちしたる由右に付氏は厚く之を其庭前に葬りて自筆の「猫の墓」と標を建て更に黒枠付の葉書にて猫が生前特に知遇を忝*3うした二三氏に報道したりと云う。松根東洋城氏の弔句に曰く「先生の猫が死にたる夜寒かな」高浜虚子氏も亦「吾輩の戒名もなき芒*4かな」
この文は玄耳が書いたらしい。後に朝日を退社し、一家離散した玄耳から、漱石は新たにミイ公という虎毛の猫を贈られている。玄耳が社内の印刷の職長から貰った猫だ。

明治42年桂内閣小松原文相が官邸に文学者を招く。

森鴎外上田万年幸田露伴島村抱月ら一流の文学者が顔を揃えた。(略)
漱石の隣に座った小松原は、「最近は学校を出てすぐに小説家になる者もいるようだが」と話しかけた。漱石はいま朝日に掲載中の「煤煙」の草平のことだな、と察し、「学校を卒業した後はもちろん、まだ学生の時分から書く人もだいぶいるようです」と話をそらした。文相はさらに「文学は青年の感化に影響しますね」とも言った。同席して耳を澄ませている[桂の懐刀で内務官僚のボス]平田[東助内相]は前年、「戊辰詔書」を提言した人物だ。明治も四十年余が過ぎ、往時の緊張感が消えて社会が奢侈に流れたと、風俗の引き締め、国民精神の強化を狙った政治的文書だった。危ない危ない。漱石も慎重にならざるをえなかった。明治社会の空気を一挙に暗転させる大逆事件は、この山県−桂−平田ラインから生まれる。

教科書問題

明治44年幸徳秋水が処刑され漱石が博士号辞退した時にこんな教科書問題がっ

ちょうどそのとき、南北朝正閏問題という事件が起きた。
天皇家の歴史で中世の南朝北朝のいずれが正統か、という学問上の論争は長年続いており、国定教科書では両朝併立説がとられていた。ところが南朝を信じる藤沢元造という衆議院議員が、突然、大逆事件とからめ、教科書の記載はおかしい、文部省の歴史教育の方針が正しくないからこういう事件が起きる、と政府(桂太郎内閣)に質問書を提出した。これが政局を揺るがしかねない事態になった。政府はあわてて教科書の改訂を約束、小松原文相は教科書の使用禁止を命令し、執筆者の喜田貞吉・文部省教科書編修官を休職させた。

朝日主催の講演会

にひっぱりだされた際の語り口

「どこかの新聞に僕の事を風上に置けぬ奴だと書いてあったが、僕を糞桶だと思っているんだろうか。我輩はこの通り立派な男でハイカラにできている」「可愛い子には旅をさせろという事は、足の裏へ豆をこしらえろ、というのではない。つまり世の中の状態を知らせるために、可愛い子を突き放すのであるから、自然派の親爺といってよろしい」。聴衆がどっと笑ったというが、自然主義者への皮肉だろうか。

虞美人草浴衣、虞美人草指輪もバカ売れの「虞美人草」の高橋源一郎

漱石新聞小説第一作で失敗作とされる「虞美人草」に、いま最もひかれるという。過剰な美文、勧善懲悪、キャラがたっている、といわれる作品だが、「漱石はノイズも含めた全体小説を書こうとしたのではないか」と言う。「虞美人草」は話題にはなったが、小説としては評価されず、漱石はこの路線を放棄して「三四郎」以下、現代日本語のもとになる「透明な散文」の文体を鍛えていく。「虞美人草の方向をのばしていったら、別の漱石、違う近代文学があったかもしれない」と高橋さんは言うのだ。

文芸欄エディターとしての苦労。ダメを出した原稿を森田草平が勝手に印刷に回した際には、急遽差し止めさせ、病床にて差替え原稿として「文芸とヒロイック」を書いたり。

「こころ」の後に載る小説がなかなか決まらないときは、「こころ」をできるだけ延ばしましょう、あるいは「先生の遺書」のほかに何か付け加えようか、などと返事をしている。後者が実現すれば、いまの形とずいぶん違った「こころ」が誕生したことになる。
次の連載の交渉をしながら自分の小説に結末をつける、とは大変な苦労、綱渡りのような日々だ。若手作家の原稿料の心配までしている。

*1:ジャワ

*2:カタル

*3:かたじけの

*4:すすき