世紀の売却―第二のロシア革命の内幕

 

何故国の資産が「赤い支配人」という旧体制の人びとに横滑りせず、オリガルヒという怪しい新興企業家の手に渡ったか。エリツィンは再選したかった、またエリツィンが起用した若手改革派は資本自由化を頓挫させる共産党の復活を恐れた。そのためオリガルヒに資産を与えるかわりに、エリツィン再選に協力させた。いったん正真正銘の所有者になれば腐敗にも歯止めがかかるだろうと考えていた改革派だったが、力を持ったオリガルヒは制御不能となる。
毛沢東化したエリツィンに踊らされた若手学者による文化大革命でしょうか。

オリガルヒ

実のところ、株式担保ローンとは、露骨な政治的支持を目当てに資産を引き渡す取引にすぎない。ロシアにおいてもっとも金銭的価値の高い会社数社の所有権と引き換えに、実業家集団、つまりオリガルヒはクレムリンを越えて政治的影響力を振るうことになったのである。(略)
政府はそれらの会社を、その潜在的市場価値に比べればほんの端金にすぎない価格で売却したのである。それは、世紀の安売りであった。株式担保ローンはまた、政治的にも急進的なものであった。すでに何千人という「赤い支配人」が、私有化によって途轍もない金持ちになっていた。(略)
だがこれは、本来、富の再分配というよりはむしろ再確定に近いものであり、クレムリンは、赤い支配人たちがソ連時代からすでに実質上支配していた資産についてその所有権を正式に追認したにすぎない。株式担保ローンが革命的だったのは、そのまったく逆を行ったからである。つまり、この方式は、赤い支配人から会社を取り上げ、台頭しつつあった一握りの企業家連中に手渡したのである。そして、この連中がオリガルヒとなった。(略)
私有化プロセスを依然として統制していた若手改革派が考え抜いたうえで賭けに出たことによる。彼らは、株式担保ローンこそがロシアの資本主義革命の救世主となる「途方もない考え」であると判断した。株式担保ローン取引を採用することによって、エリツィンは次の大統領選挙においてオリガルヒ予備軍から政治・財政・戦略的支持を購うことができた。これは国の宝を質に入れるようなものだったが、もしそれによってクレムリン共産主義に支配されるのを防ぐことができるなら、若手改革派はその代価を喜んで支払うつもりだった。

西側アナリストはこの出来事に懐疑的だった

「これは、まったく常軌を逸している。この計画が暗に言っているのは、『俺たちは国費でますます金持ちになるべきだ』ということだ」

株式担保ローンのごまかし方

だが、錯乱しているように見えながらその仕組みは筋が通っていた。つまり、所有権がいとも簡単に譲渡されるのを、複雑きわまるローン計画と段階的な競売の装いによって覆い隠すことを主眼としていたということである。
この計画の複雑さには一つの利点があった。それは、この複雑さゆえに大方の批判勢力の目を欺き、計画を守ることができたということである。共産党は、「国の宝は実は売却されたのではなく、単に束の間の窮地に陥った国庫を救うために質入れされたにすぎないのだ」と言いくるめられ、態度を軟化させた。また、常々ロシア政府に対して競争の利点とコネ偏重の危険性を説いてきかせてきた西側の専門家たちも安心した。というのも、ロシア政府から、株式担保ローンの第一段階と第二段階のいずれにおいても自由競争に基づくオープンな競売をすすめていくと言質を取ったからである。1995年9月、自由市場をかたくなに擁護する〈エコノミスト〉誌でさえ、不承不承ではあったが計画の最終案に賛成した。同誌は「プロセス全体は公明正大なものとなる」と自信に満ちた口調で宣言し、ロシアの企業が「自分の会社の株式を自分に対して内密に売却することは不可能である」と述べた。

市場経済化したロシアはかつてソ連が描いた「腐敗する西側」そのままの「暗黒郷」になった。著者のシニカルなロシアの友人はこう言った。

マルクスから共産主義について教えられたことはすべて嘘だった。しかし、資本主義について教えられたことは何から何まで本当だった」

1999年までに中央政府の権力は収縮した

「それはバチカン市国のようなものです。クレムリンという小さな砦がロシアにおけるエリツィンの唯一の支配地域となってしまい、エリツィンが今できることは、首相を解任し、自分の参謀役を取り替えることだけです」

正教会エリツィンのテニスコーチ、慈善団体が隠れ蓑

ロシアにおいて市民の尊敬の対象となっている組織や、特上のコネをもった政治家の一部がザル経済に参加していた。共産主義体制が崩壊したあと、国教会としての伝統的な役割を再び担うようになったロシア正教会は、アルコールとタバコを免税で輸入する権利を与えられた。正教会はまた、ロシアの石油を海外へ売るという貴重な権利をもつ特権的「特別輸出業者」にも出資していた。ロシア・アイスホッケー連盟や、エリツィンのテニスのコーチによって運営されている「国家スポーツ基金」は、にわかには信じがたいことだが、タバコと酒の輸入業を営んでいた。表向き人様のお役に立つことを目的とするそのほかの多数の団体も同様だった。例を挙げると、アフガニスタン帰還兵連盟、聾唖者協会、チェルノブイリ原発被災者の慈善団体などである。

キプロス島がロシア企業のタックスヘイブンになっているのを見て、国内に非課税特区をつくることに。合法的税金逃れをクレムリンに認めさせるために不安定なチェチェン情勢を利用し、その隣のイングーシに設置した。

チェチェン独立運動のせいで、辺鄙なイングーシ共和国はクレムリンにとって戦略的重要性を帯びた地域となっていた。クレムリンは、不安定な北カフカスチェチェンの独立闘争に飲み込まれるのを防ごうと懸命になっていた。そこで、グツェリエフはロシア政府を説得して、「裕福になればイングーシはロシアに対して忠実になるし、またイングーシを裕福にするためには非課税特区が必要である」ということを信じ込ませた。そして、「イングーシ人はもう機関銃を抱えて走り回るのをやめ、その代わりに現金を握って奔走を始めるときに来ている」とクレムリンに語りかけ、クレムリンはそれに同意した。

反体制文学所持で刑務所送りになる体制だが

少なくとも知識人にとって二〇世紀末のソ連体制下の生活は、それでもそのマイナス面を補うだけの利点を伴っていた。金をうんと持っている者などいなかったが、あくせく働かなければ生きていけない者もいなかったのである。その結果として生じたのは、社会全体に蔓延した大学生気分の延長のような雰囲気であった。そこでは、濃密で厚い友情を保つのに多くの時間が費やされ、人々は紅茶やウォッカを飲みながら人生の意味を延々と論じ、精神世界や芸術上の関心を熱心に追求した。ロシアの中産階級がときどき時代錯誤的な態度でソ連時代への懐旧の念を見せるのは、一つには、共産主義の崩壊によって急激に否応なく大人にさせられたからである。

優秀な人材が生産部門から流出

まもなく、オリガルヒを含めたロシアの実業家は皆、あることを悟るようになる。確実に財産を築きたいなら、工場の経営方法の改革などという骨の折れる仕事に無駄な時間とエネルギーは使わないにかぎると。金なんてものは、ロシアの巨大で豊かな鉱物資源のほんの一部を手中に入れさえすれば簡単に人ってくる。ロシアの実業家たちが直感的に経済の本質をこのような形で把握したことが引き金となって、こののちこの国において巨額の個人資産がどのように蓄積されていくかが決まることになる。だが、国の立場に立って考えるなら、この現実は非常に嘆かわしいものであった。ロシアの天然資源を取得すれば比較的簡単に巨額の富が手に入るという現実があったせいで、国内の実業界で活躍するはずの進取の気性に富んだ最上の人材が、国内経済の生産部門を実際に機能させるという重要な仕事から他所へ流れていってしまったのである。

うわあ、明日に続ける。