18世紀フランスのジェンダーと科学

才能あっても女というだけで、という毎度お馴染みのゴクローサンな展開。まあ死ぬまでやっててもらってええのんですけど、例えばラヴワジエはフランス革命時に徴税請負人だったせいで死刑になる。その際の世間の証言が「冷静な夫と感情的な妻」となっていることに著者はケチをつける。才能のあるラヴワジエ夫人がそんな筈はないと。おい、待ってくれよ、ですよ。そんなこと言ってる時かよ。ラヴワジエ夫人が死刑にならずに済んだのは何故ですか、革命政府も夫もラヴワジエ夫人を半人前扱いした差別主義者だったからでしょう。ラヴワジエはなんで僕だけ死刑になるのなんて考えなかったでしょう、女性を差別していたから。そうして半人前扱いされて死刑にすらしてもらえなかったラヴワジエ夫人は今度はラムフォード夫人となって生きながらえます。

そこには年老いたトルコ人のような人物が背をかがめて腰掛けている。この年寄りのトルコ人が、ダヴィドによって描かれた若く美しい女性の成れの果てなのだった。これが、男のような老年の姿態と、まったく奇妙な髪型と身なりをしているラムフォード夫人なのである。(略)
彼女はしばしば小型ソファーから突然に身を起こし、まるで男がするように暖炉の前に立ちはだかるのだった。靴下どめのところまでスカートをたくし上げると、平然とその巨大なふくらはぎを暖めた。しばらくすると彼女は慇懃にわれわれをひきとらせ、われらふたりはふたつ返事で了承するのが常だった。

このような描写に著者は怒ります。

なかなかグロテスクな場面であり、知性や美貌をかさにきた女の末路として、男性社会がこの手の女性を嘲笑するのに使った典型的な記述でもある。

愚弄されようがなんだろうが断頭台の露と消えるよりマシな気がしますが、多分、命より名誉なのでしょう。結構なことでございます。
半人前扱いだからこその権力。それが御不満ですか。

実際、ほとんどの公的な地位から締めだされていた女たちが主催するサロンの力というものは、それゆえに制度では絶対にコントロールできない。よく考えてみれば、これほど恐ろしいものはない.現実の地位や権力を餌に、あるいは公の論理をふりかざしても、彼女たちの好みを押さえつけることなどできないのだ。エレガンスやエスプリ、センスといったとらえどころのないもの、科学的なものからもっとも遠いところにあるように見えるものについていまや男学者たちは真剣に考えなければならない。これは同業者の男たちの視線とも、男のパトロンの視線ともまったく違う価値観に基づいている、ここではいわゆる男社会の基準はいっさい通用しない。

侯爵夫人は気楽な稼業ときたもんだ

「侯爵夫人」は若く美しく裕福かつ自由である。彼女には恋人のほかにたくさんの崇拝者がいる。ふたりが天について語らうのは「彼女の」館である。夫人は自分をなまけものと形容していることから、貴族の女性としての義務はきわめて軽いと見ていい。つまり彼女は貴婦人としての特権はすべて維持した状態で、社交人としての体面も傷つけることなく、制度としての結婚から完全に切り離された純粋な恋愛を楽しむ「女」としてのみ存在し、しかもそのような彼女の態度は完全に肯定されている。「侯爵夫人」は「義務なき特権をもつ魅力的な女」という、多くの貴婦人たちにとってきわめて都合のよいロールモデルなのである。

サロンの話はkingfish.hatenablog.comにも。