明治の音

エメ・アンベールの記録

スイスの特命全権公使として、1863年に来日。修好通商条約締結のため約十ヵ月滞在したエメ・アンベールの記録。正確には幕末の音ですね。

深川一帯のさまざまな職人の仕事場の音、そこに突然、見世物の音が遠くから侵入してくる。獅子舞の曲芸師たちの鳴らす太鼓や叫び声のつくるきわめて騒々しい空間が出現する。(略)
「鼻にかかった声」で「つい先日、執行された獄門の顛末を節をつけて機械的に繰り返す」瓦版売りの老人。浅草の賑わいはいうまでもなし。三味線や金切り声によって囃し立てられる狐の罠遊び。身振りだけでは不充分であるかのように、興を高めるために女たちの手に三味線が渡される。「そして、別な三味線が床に裏返しに置かれ、撥で反響のいい箱(胴)の上を滅多打ちされ、陶磁器の器や茶碗が鐘のように鳴らされる。歌い手が金切声を張り上げると、動物の叫び声に似たものがそれに加わ」る。

凧揚げの音の愉しみ

江戸城とその周辺に比べて、江戸の町々はなんという対照的なものであろう!遠くから、賑やかなどよめきが知れるし、その騒音に答えるかのように、アイオロス琴(ギリシアの楽器)に似た音がかすかに聞こえてくるが、この不思議な音楽は、紙でつくった凧による演奏会なのである。庶民の町の空には、まるで星を鏤めたように、いっぱいに凧が揚がる。(略)心もち中高になった絵の枠に、竹の薄片が張ってあり、それが、凧が中空に揚がったとき、音楽的な唸りをたてる。しばしば、この空の操り人形の間で、闘いが起り、ガラスの破片を付けた凧糸が追いつ追われつ、勝負のつくまで闘い、両方の凧が落ちてしまうこともあり、また、敵に切られた凧糸が地面に落ち、糸の先に付いていた枠だけが空に残って、ふわふわ浮いていることもある。この凧揚げには、大人も、喜んで一枚加わっている。町々の人々は、誰も彼も、これを見物するのに非常な興味をもち、女の子の凧が勝ったりすると、やんやの大喝采で大騒ぎする。

音はすれども姿は見えぬ

アメリカの文化人類学エドワード・ホールは『かくれた次元』(1966年)で、音はすれども姿は見えぬ、がニッポンクオリティだと

視覚が遮断されているにもかかわらず、聴覚が遮断されていない、音が聞こえるままであるという感覚である。狭い屋内空間で、日本人は必要以上に視覚的遮断を好むようにも思われる。襖や障子はいうまでもなく、廊下は絶えず曲がり、直線で見通すことよりも、壁などで絶えず視線が停止されることのほうを好む。にもかかわらず、ホールが言うように、「音響的には紙製の壁つまりふすま一枚で完全に満足する」のである。(略)
音の持つ浸透性と視覚の遮断性、こうした特性を考えるとき、日本の空間というものは、それに慣れてしまっている我々とは異なって、そこを訪れる外国人にとっては極度の挑発性を持った空間であることが想像できる。声はしても、姿は見えないことの不思議さが増幅されることになる。モースは、やってきた人力車夫が縁側に上がり、閉ざされた鎧戸の向こうから声をかけたとき、「姿の見えぬ彼の声を聞くことは、実に奇妙だった」とわざわざ記している

モースが感じたある種の音の過剰

ある点で日本人は、恰も我国の子供が子供染みているように、子供らしい。(略)何にせよ力の要る仕事をする時、彼等はウンウンいい、そして如何にも「どうだい、大したことをしているだろう!」というような調子の、大きな音をさせる。先日松村氏が艪を押したが、その時同氏はとても素敵なことでもしているかのように、まるで子供みたいに歯を喰いしばってシッシッといい、そしてフンフン息をはずませた。

歩調にリズムがないことが気になるモース

人々は道路の真中へまで群れて出る。男も女も子供も、歩調をそろえて歩くということを、決してしない。(略)我国では学校児童までが、歩調をそろえるのに、日本人は歩くのに全然律動がないのは、特に目につく。我々は直ちに日本人が、我国のように一緒に踊ることが無いのに気がつく。

「東洋の土を踏んだ日」

ラフカディオ・ハーン「東洋の土を踏んだ日」
横浜のホテルでの夜、通りから聞こえてきた女按摩の声と笛の音

「あんまーかみしもーごーひゃくもん」
夜の中から女の声が響いてくる。一種特別なうるわしい節をつけて唱されるその文句は、一語一語、開け放った部屋の窓から、笛のさざ波立つ音のように流れ込んでくる。(略)
「あんまーかみしもーごーひゃくもん」
この長いうるわしい呼び声の合間合間に、決ってうら悲しい笛の音が入る。長く一節吹いた後、調子を変えた短い二節が続く。

小泉節子「思ひ出の記」

に描かれる芳一化したハーン

この「耳なし芳一」を書いてゐます時の事でした。日が暮れてもランプをつけてゐません。私はふすまを開けないで次の間から、小さい声で、芳一芳一と呼んで見ました。「はい、私は盲目です、あなたはどなたでございますか」と内から云って、それで黙って居るのでございます。

節子の言葉は「耳なし芳一」のテキストの空間をほとんどそのまま現出しているといってもいい。視力の弱いハーンが夕暮れでも灯をともさない部屋の闇の中にいる。閉ざした襖の向こうから呼びかける節子は、まさしく視覚的な姿を奪われた声だけの存在である