ポピュラー音楽とアカデミズム

ポピュラー音楽とアカデミズム

ポピュラー音楽とアカデミズム

  • 作者:三井 徹
  • 発売日: 2005/05/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

「パクリ」再考

この本の中の
『Ⅸ「パクリ」再考--美学的分析の試み
/増田聡』について。
ザックリ解釈するとこんなとこになる。
「パクリ」は明確な根拠もなく、ただ「似て聴こえる」という漠然とした判断によっており、裁判で争える「剽窃」というレベルに達していない。
音楽産業構造にどっぷりつかってアーティストを神格化し自分を重ねるから、それに類似したモノを聴くと、自分を侵害された気分になって、曖昧な感受レベルで声高に「パクリ」だと言い立てることになる。
未だに「オリジナリティ信仰」を抱いている遅れた一般人はまったく困ったものです。
なんだかヤナ感じ。一応抜粋しておく。

音楽言説における「パクリ」とは、ほとんど常に聴取の側から発見され、指摘される事態であるという事実である。パクリ言説においては「AとBは(聞こえが)似ている」という前提から、「Bはそれより以前に発表されたAをパクッた」という結論が導かれる。そこでは、実際に制作の側で剽窃行為があったか否かの検証は必ずしも満足に行われることはない。しかしそのような検証抜きに「パクリ」という判定は容易に下される。その意味で、「パクリ」と「剽窃」とは区別されなければならない。

好意的にとって、制作側は「パクリ」という低レベルな批判はしないという意味だろう。普通に読むなら、実際宇多田サイドは倉木を聴けば舌打ちしてるだろう、となる。言わないだけだよ。宇多田なら金持ち喧嘩せずだし、無名アーティストがパクられたと主張すれば電波扱いだ。

そして、この批判は「音楽家は他に類のない独自性をもった(中立レベルの)音楽テクストを生み出すべきであり、その独自性の如何によって評価される」とする原則に依拠したものである。これを「オリジナリティ原則」と呼ぶことにしよう。オリジナリティ原則は美学的な水準にとどまらず、著作権システムを媒介にしつつ商業的利潤を配分する根拠としても機能することになる。

すなわち、自分の愛着の対象となる「アーティスト」の「個性」の唯一性が、「パクリ」によって侵犯されることを、自身の「個性」が犯されることと等価な現象と見なす構図こそが、ポピュラー音楽をめぐる支配的な言説編制の論理であり、ゆえに「パクリ」非難は終わりなく続くことになる。

原章二『《類似》の哲学』から引用して

しかし、単に似ていることは許されないのである。それは個性や独自性を傷つけるのだ。(略)
かくて先立つものがオリジナルで、繰り返されるものはそれに内的に従属し、それを確証するところのコピーであるという体制がとられることになる。ところが、類似、似ていることは、こうした体制をまさに内から覆すものとしてあらわれる。

類似とは本来「別のオリジナルなもの相互の関連」である。しかしパクリ言説はこの両者を区別するよりも、類似を複製に回収させてしまい両者を同じ契機として取り扱おうとする。すなわち、類似を「不完全な複製」として眺め、その「オリジナリティの欠如」を批判するという構図に収めてしまう。
原の述べるように、近代的知性は類似を、同一性と差異とに分解して捉えることになる。すなわち、類似を類似として捉えることを忌避する傾向がそこにはある。
(略)
「パクリ」言説の過剰な攻撃性は、オリジナリティ観念への疑念と「類似」への寛容が浮上してきた今日の思潮への、近代的知性の側からの反発である、と解釈することもできるかもしれない。

さして音楽的知識のないヤングが批評まがいのことをしようとすると、自分の知っている狭い範囲の知識(つまり自分の好きな音楽家)を基準にして、なんでもその音楽家の「パクリ」だと言い立てることになる。これなら確かにあるだろう。
少し前のex猛ムス「なつち」盗作騒動なんて、元ネタ自体が常套句の塊であって、その常套句を素晴らしいと思ってパクってさらにそれを認めてるとこがなかなかスガスガ菅井きんですが、そのレベルを「パクリ」と言っているのだろうか。でもそれと宇多田VS倉木の「パクリ」は大分レベルが違うと思うが。
ともかくこの文章が気に食わないのは、なんだか他人事なとこ。下々の者は低レベルだなあと見下していますが、そんなノンキ態度をとっていられるのも、まさにアカデミズムのどまんなかで生活の心配なく研究にいそしめるからではないのかね。
例えば増田聡がコツコツ集めた資料で論文を書いた。しばらくして有名ライターが金にものをいわせて同じ資料をかき集め、似たようなテーマで本を書いてベストセラーになったらどうするのか。
「人生いろいろ」と大きな気持ちで許すのか。明らかにこの参考資料は増田聡の視点によって集められたものであって、「剽窃」であると主張するのか。それで裁判に勝てるのか。それでも宇多田は倉木に怒るなと言えるのか。「剽窃」がなくても、あきらかな「盗み」は存在しているじゃないか。
自分の使うレコードのレーベルを全部剥がしているDJ。同業者にネタをパクられるの嫌だからだ。所詮人様の作った曲をかけているだけじゃないか、ケチケチするなよと批判することは可能だ。OK、皆俺の見つけてきた曲が気に入ったらどんどん使ってくれたまえ、俺はまた新しい曲を探してくるからさ。実にナイスガイな態度だ。素晴らしい。だけど生活がかかっていたらそんな甘いことは言ってられないのだ。他の同業者に差をつけるには自分のネタを秘匿していくしかない。何故雇い主は彼を使う。客に受ける曲を見つけてくるからだ。そのDJのどこにも「オリジナリティ」はないかもしれないが、確かに雇い主は他のDJとは違う何かを見ている。そしてその何か(優位性)はネタさえばれてしまえば失われてしまう(確かにまた新しいネタを見つけることは可能だが、それにはそれなりの苦労というものが生じるのである)。雇い主は奴にはオリジナリティがあるだのなんだのとは言わない、言わないけど、奴は他のDJとは違うと思っているだろう。それはいったいなんだ。その視点は盗みようがないが、その視点を元に苦労して集めたデータは実に簡単に盗まれるものなのである。
付け足すと、「音楽産業に奴隷根性丸出しのくせして、CCCD反対とか言ってたプロ市民まがいの奴等は死ね。ホステスが寂しさを紛らわすために飼ってる犬に噛まれろ」という気分なので、音楽産業構造批判についてはそれなりに結構だとは重いマッスル。