スピノザの世界 上野修

何でも人間で考えるな。

「ちょっと待ちたまえ」というスピノザの声がする。「ペテロに言ったイエスのせりふじゃないけれど、すっこんでいろサタン、と言いたいな。君は人間のことばかり考えていて、神のことをまるで考えていない」。 
そうだった。神のごときスピノザよ、ゆるしたまえ。われわれは自分が「人間」であると疑わないので、何でも人間で考えてしまう悪い癖がある。人間と自然、人間と歴史、みたいに。そして哲学や思想も人間が生み出すものだと思ってしまう。スピノザはそういう「人間的な語り方」を嫌っていた。

全知の存在に虚構はない。

「四角い円」を虚構できるだろうか。虚構できるのはそれが不可能だということを知らないか、あるいは知らないふりをしているあいだだけである。「2たす3は5」について虚構できるだろうか。できるのはそれが必然だと知らないか、あるいは知らないふりをしているあいだだけである。こんなふうに、虚構ができるのはわれわれが事柄の不可能性あるいは必然性を知らないあいだだけなのである。 
だから、もし虚構が成立するとしたら、それはたかだか「可能的なもの」についてでしかない、とスピノザは言う。私はAさんが今日訪問に来るとか、今日は在宅であるとか、勝手に虚構できる。Aさんがどういう存在か、どういう能力を持っているかという「Aさんの本質」だけを思い浮かべているあいだは、彼がああすることもこうすることも「ありうる」と想像できるからである。しかしそれもスピノザによれば、Aさんの行いが外的原因に依存する必然性・あるいはその不可能性を私が知らないあいだだけである。橋が壊れていたなら彼は来られない。さもなくば、借金取りたての欲望に駆られて必ず彼は来る。もし私が全知の存在でそのことを知っていたなら、Aさんの訪問という事態は必然的か不可能かいずれかであることがわかっていただろう。もうそのときには虚構はありえない。だから「もし何らかの神あるいは全知の存在があれば、そういう者はまったく何も虚構ができないということになる」。「可能的」というのは要するに、われわれがその必然性あるいは不可能性を知らないということの別の言い方にすぎないのである。

懐疑論者の手口

懐疑論者の秘密は「本当の疑い」をダシにして「すべては疑わしい」へと拡張する手管にある。何も知らない素朴な人は太陽が見かけよりもはるかに巨大で地球よりもずっと大きいなどと聞かされると、ショックを受け、ものの外見について、そして感覚的認識一般について本気で疑い始めるかもしれない。けれども視覚の本性をちゃんと理解すれば、太陽は今まで見えていたとおりに見えていて何も問題がないことが彼にもわかる。(略)
よく理解されていない別な観念の横やりが入って、本当なら何の問題も生じなかったところに心の動揺が生じ、疑いが生じるのである。

デカルトの潔いモラル

AとB、二つの道があって、安全だと予測されるAを通ったら強盗が出た。

このとき、なんて自分は不運なのだ、やっぱりBにしとけばよかったのにと嘆くことはない、とデカルトは言う。自分はあの時点で最善の判断をしたのであって、その判断と強盗の出現とのあいだには迷信が語りたがるような何の因果関係もない。私の選択と強盗の出現とのマッチングは私の左右できる事柄ではなく、あずかり知らぬ神の摂理に属する。私がどう願い、どう選択しようが、起こることは起こるのである。したがって、こうあってほしいと願う欲望は自分が左右できる事柄の範囲に眼定すべきであり……云々。いかにもデカルトらしい、潔いモラルである。
スピノザもほぼ同様の結論と言ってよい。ただ、スピノザはもっとすばやく、最短距離でその結論に達する。デカルト自身は神の思し召しに踏み込むような真似はしなかったが、「摂理」はやはり、ライプニッツのような哲学者に「決定にはそれなりに理由があるはずだ」という思弁をゆるしてしまう恐れがある。ライプニッツなら、強盗に遭遇するような選択を私がするように世界の全体は計画されていて、結局それは巨視的には一番よい世界計画なのだ、というだろう。こういう話には、それ自体としてよくも悪くもない事柄を「よいことだ」と言いくるめて神の意志を弁護しようという企み臭う。
しかしスピノザの「神あるいは自然」にはそういう思し召しも意志も何もないのだった。(略)神、自然は、強盗のためにも私のためにも働いているのではない。世界が存在するのはだれのためでもないのである。もちろん遭遇は私にとっては端的に悪い。そして強盗にとっては端的に都合がよい。先の「よい・悪い」の定義から言えるのはそれだけで、遭遇という出来事そのものにはよさも悪さもない。だからわれわれは神にうるさくつきまとうのをやめ、神と世界をゆるしてやらねばならない。

国家とは

国家は本性上、服従を生産する巧妙な「術策」でしかありえないし、それでよい。清廉の士や無辜の民のユートピアを描いても無駄である。むしろ、治める者も治められる者も自分が自由決定の主体であるかのように感じられるような、そういうありったけの術策が---見方によってはほとんど民主的とすら思えるまでの高度な術策が---必要なのだ。したがって、政治をまるで倫理的な堕落のように嘲笑・呪詛する憂鬱な思想からは手を切るがよい、とスピノザは言う。