ハイブラウ/ロウブラウ・その2

前日からの続き。

ハイブラウ/ロウブラウ―アメリカにおける文化ヒエラルキーの出現

ハイブラウ/ロウブラウ―アメリカにおける文化ヒエラルキーの出現

 

はじまりは熱海秘宝館

アメリカの博物館は総花的で折衷的なものから排他的で特化されたものへという、お馴染みの発展パターンを辿った。二ール・ハリスは十九世紀前半の博物館の状況を「絵画と彫刻がミイラとマストドン象の骨や動物の剥製と並んでいる。南北戦争以前、アメリカの博物館は美術の隔離された神殿ではなく、情報の貯蔵庫、奇妙な、あるいは疑わしい資料のコレクションだった」とまとめる。

ボストン美術館も最初は

大衆を対象にし、オリジナルと複製がまざっていた。

最初の二十年間、美術館は比較的少量の絵画しか所有せず、ヨーロッパの名作の写真と古い彫像や建築物の模型で展示室を埋めていた。(略)
寄付金とオリジナルの美術品が増えるにつれて、写真や模型、雑多な「珍奇なるもの」を倉庫へと追放し、一九一二年に埋事が呼んだところによると「より高尚な事物」のために展示室を充てるようになっていった。

コレクションのレヴェルが

上るほど一般公開できる作品数は減少する

模型は単に不完全なものよりもなお悪く、転覆的でさえある。なぜならば、模型は「機械的に作られた情報」なので「芸術の自動ピアノ」に過ぎず、機械仕掛けの音楽がシンフォニーホールに属さないのと同様に模型も美術館に属さないのである。模型は「教育の手段であり、霊感の賜物の近くに展示されるべきではない。」模型反対者たちはまた、美術館の初代館長ウォルター・ブリマーによる「屑のごとき絵画の侵入に注意せよ」との警告に従って、価値のないオリジナル作品を売却し、名作を一般観覧者ではなく目利きを対象にした研究用コレクションに隔離しようとした。「保持したいと望む完成度の堪準が高くなれぱなるほど、おのずと研究用コレクションの規模は大きくなり、一般公開できる作品数は減っていく」

大切な本を読んで汚してしまう大衆を図書館から締め出せ

図書館は知識を普及させるためにあるのか、それとも知識を保存するためにあるのかという問いは、当時盛んに議論された。(略)
[最初は大衆への提供を使命としていた]シカゴ公共図書館は開館時間を短縮し、各地の支部を閉鎖し、参考図書の蔵書に力を入れるようになり、少数民族の要求にはもはや熱心に応じなくなった。

写真を芸術とは認めない

ど素人が簡単につくれてしまう写真を芸術とは認めない

リトグラフィー(石版印刷)の文化的格下げと同様に、写真の文化的排斥も起きた。写真が最初の頃果たした役割の一つは美術作品を複製することだったので、多くの人がカメラは芸術を創造するのではなく、それを模倣する道具だと捉えたとしても不思議はない。しかし、写真に対する反感はこれよりもはるかに根深かった。表現形式を比較的簡素化して訓練を受けていない大勢のアマチュアにも使い易くし、ほぽ無限に複製可能にするプロセスは、芸術と文化を神聖で、類まれなる個人的心霊の無比の産物と捉える気風から著しくかけ離れたものだった。芸術を神聖化する者にとって、写真はクロモリトグラフィーよりもずっと深刻な脅威だった。と言うのも、クロモリトグラフの絵もカメラも大衆に芸術を広められたが、加えて、カメラは広範囲の人に芸術を創造する手段そのものを与えられたからだ。それは中産階級が急成長しつつある社会にはぴったりの道具だった。今や人びとは、かつてエリートに限られていた操作とイメージを使って満足を得ることができた。

いつのまにか罵詈雑言を浴びる羽目になったブラスバンド。笑える。ブカブカうるさいブラスバンドさ。

「ブラス・バンド音楽はいつも、ネコを生きたまま挽く脱穀機を思わせる」と、若き日のヘンリー・フィンクは記した。(略)
ブラス・バンドは「若くて無思慮な」者の嗜好を汚染し、彼らの金管楽器を演奏したいという欲求は何千もの家庭と近隣を「みじめな」状態に追いやっている。ブラス・バンドは「忙しく稼働中の機械工場と同様の音楽的性質」を持ち、野外ステージを海辺のホテルの真ん中に作り、「バンドのおぞましい生物たちが狂騒に駆られ出したら」ステージを海に向けて、「怪物の忌まわしい声を無限の大洋に注ぎ込める」ようにしない限り、その喧噪は耐えられるものではない。

ヘンリー・ジェイムズ

1907年に祖国を訪れたヘンリー・ジェイムズ

「巨大な民主主義のほうき」が古いものを掃き出して、「新しいもの、安価なもの、平凡なもの、商業的なもの、安直なもの、そしてあまりにもしばしば醜悪なもの」の時代を招いたと不満を漏らす。この「広大で未熟な商業民主主義」のあらゆる所で、ジェイムズは「圧倒的に優勢」な商人に見舞われた。この「死体山なす産業社会の戦場」にあって、彼は「地位を奪われたという意識」に「絶えず苦しめられた」。

1839年のジョージ・テンプルトン・ストロングの日記

騒乱や市民暴動、政治的狂信状態、社会の腐敗、恐ろしい災害、さらに、一八三九年に彼が記したところによると「雲のように地を覆い日ごと闇で増殖する、無秩序を招く薄汚れた精神」を有する「野卑で無教養な大衆」の度を越した振る舞いについて、日記に書き残した。一八四〇年年頭には「暴動、無秩序、暴力が町で増えている。毎晩、若いごろつき連中が暴行を起こす。彼らは女性を侮辱しながら通りをうろつき、無抵抗のパブの主人を襲い、夜はひどく酔って叫び声をあげる。当局は取締まらないので、罰を受けることなくありとあらゆる狙罪行為を行っている」といった状況を観察している。

「逃げ道は過去にしかない」

と嘆いたヘンリー・ジェイムズだが、「文化」への逃げ道があったのだと。

これらのよそ者が自身の領域に止まって自身の特異なやり方を保持する限りは我慢できる存在であり、うまく扱い得た。つまり、アフリカ系アメリカ人が自分たちの教会で異国趣味のリズムに合わせて奇妙な儀式のダンスを踊り、アイルランド人女性が通夜でおかしなメロディに合わせて死者を「アイルランド流に哀号し」、ドイツ人がビアガーデンで家族と友人たちをもてなしている限りは。しかしながら、このようなよそ者の世界は隔離されたままではなかった。彼らは劇場やミュージックホール、オペラハウス、美術館、公園、縁日、そしてアメリカの町々の街頭で日ごと繰り広げられた豊かな公共文化生活といった、十九世紀アメリカの特徴であった公共空間へと溢れ出した。ここにこそ脅威が潜んでいたのであり、それに対するエリートの反応は三通りあった。一つは可能な時はいつでも私的な空間へと引き籠もる、もう一つは好みの規則や審美的価値のシステム、行動の規範によって公共空間を変える方法である。三つ目は、よそ者にエリートの行動様式と文化的嗜好を真似るように彼らを改心させる方法

さらに明日へと続く。長いねどうも。