「ほぼ日」のタイガー&ドラゴン

[https://kingfish.hatenablog.com/entry/20050430">4/30に「タイガー&ドラゴン」について書いた勢いで普段見ない「ほぼ日」の表現者と同じ行為だ。逆に優秀な表現者やマスカルチャーの表現者なら「自分がいいと思う」ところから入って、「人にいいと思ってもらえる」方に行くはずで、BOSSと表現者は同じ場所で出会うはずなのだが。まあ自分の創作欲が始点なのと、漠然とした他人の欲望が始点なのでは、テンションはちがうのかもしれないけど。
浅草の客は芸に対するそれなりの眼がある、原宿の客は付和雷同のとらえどころのない存在であると糸井さんは言いたがっているようなのだが、そうかなあ。ちょっと、馬鹿にしすぎてるんじゃないだろうか。まあ、確かに、奴等の目は節穴ですけど、やっぱり馬鹿でもないと思う。

  • BOSS片岡の描き方が甘い

というのはあのドラマの空気圧がそういうものなのだからしょうがないのじゃないだろうか。竜二の服がダサイのと一緒なのである。その下の方で4/30に書いたような、創造の葛藤があるはずなわけで。そんなこと言い出したら、竜二達が「BOSS片岡、だせえ。いくら儲かっても、あいつとコラボはありえねえ」と騒いでるところにBOSS登場、コラボ話が持ち上がりという展開の方が自然は自然になるが、やっぱりドラマの空気圧というかテンポとしてはBOSS片岡だよおお、と馬鹿っぽくテンションがあがって行って、終わりで「今の若い子も案外古風に悩むんだ」といくのが流れじゃなかろうか。

「こっちは必死なんだよ!」
って言ってる人のなかに、
ろくでもないやつだって
たくさん混じってるんですよ。

これはね、「負け組」の人間には思いも付かない視点だ...orz。
ただ正確に言えば「ろくでもないか」かは結局わからないはずで、この文脈での「ろくでもない」と言ってる時の糸井重里は、世間判断に従ってしぶしぶ「ろくでもない」と言ってるんじゃなく、糸井自身の基準で判断してるんじゃないだろうか。文学的基準からすれば、「セカ宙」作家は「ろくでもない」が、BOSS的基準でいうとどうなるのだ、売れるまでは「ろくでもなかった」が、売れる少し前から「キタ」のか。上の文章の基準なら未来永劫「ろくでもない」という烙印を押すような気がするが。
そもそも当人が自覚しているように、「ほぼ日テレビガイド」自体が「茶の湯」状態、しかもタチの悪い。アカデミックな「茶の湯」なら、もう誰もついてきてないのに難解用語を振り回して明確に滑稽だけれど、用語の習熟度によるランク分けが明確な分なある意味健全だ。「ほぼ日」の場合、わかりやすい言葉で「ウチは型はないから、あえて言えば、鋭い感性?みたいな」と一見ざっくばらんなとこが逆に不健全つうか。

  • 実は一番ドキっとした場面は

ジャンプ亭ジャンプが「勉強する気の無い奴には教えられない」と引導を渡されるとこ。「お世話になりました」と声を震わせるジャンプに、松尾スズキにキャイン言わされてるクドカンを見ましたよ(確か文春の阿川対談だかで、どう?といわれて、どっちでもとか答えて、結局一年後に入団みたいな話があった)。なんか内田センセイなら、情報でしか学んでいない落語オタクが他者に出会った瞬間とかなんとか熱く語りそう([https://kingfish.hatenablog.com/entry/20041213">12/13を読め)。
実は今日のテーマとかぶることを前々から書こうと思っていたので、明日書けたら書く。