監視ゲーム

監視ゲーム―プライヴァシーの終焉

監視ゲーム―プライヴァシーの終焉

目立ちたくない、目立ちたい、どっちつかずの軍事力

抑止が効果をあげるためには戦力の公示が前提なのに、ステルス兵器は冷笑的な「秘密と不確実性」のなかでのみ機能するからだ。つまり、軍事面での強さや優越性を誇示することによっては、抑止は成立しない。とりわけ、核兵器の使用をちらつかせるやりかたは、もう何年も信用できないものとして退けられている。(略)
「信用できる」抑止は、真実原則(たとえば軍事力の証明可能性)に裏打ちされた軍事力のスペクタクルに頼っている。敵の戦カの測定、対抗-監視や対抗-測定の手段、戦力を誇示するショーなどの、さまざまな露出手段が、それを補強していた(武力による威嚇)。だがこの種の軍事スペクタクルは今日、急速にシミュレーションのなかに吸収されつつある。(略)
ステルス・テクノロジーの利用によって、相手方に「非決定性」がうまれ、それが「時間」をつくる。敵が対処に使える時間は短くなり、味方が標的を合わせ攻撃するための時間は長くなる(息つく暇がうまれる)。他の軍事シミュレーション・テクノロジーと同じように、ステルスも戦争の速度をゆるめること、脅威の状況を支配し管理することをねらっている。

シミュレートされた戦争こそが現実の戦争であり、戦闘は一瞬の死の噴出にすぎない。

これはもちろん、旧来の抑止形式にもあったことだ。また、戦争を消そう、戦争を「凍結」しよう、戦争を止めてしまおうとする軍事的な夢想の一部でもある。だがこれは神話だ。軍隊が、シミュレート戦争が実際の戦争の終焉だと信じているのは、単にイメージを反復しているにすぎない。シミュレートされた戦争こそが現実の戦争であることを、軍隊は理解できていないように思われる。すくなくともシミュレーション・テクノロジーは(まだ萌芽段階だが)その方向に、私たちを導いている。私たちが、そして軍隊が、戦争というものを局限された戦闘時間すなわち、惨劇が起こり、兵士や市民が死に、都市が破壊される時間だけに限定して考えていることも、問題の一部になっている。だが実際には、戦闘は、それに先立ちかつそれをすりぬける「死のゲーム」のなかの、一瞬の死の噴出にすぎないのだ。「死のゲーム」がおこなわれる場所は、「時間の外側」だ。つまり、シミュレーションという時間のない空間、終わることのないテクノロジー的な戦争準備のなかでおこなわれるのだ。

監視は都市生活の孤独を補完するものであると、ノック師匠

現代の監視社会では個人のプライヴァシーはかつてないほど失われている、というのがよくある議論だ。しかし、スティーヴン・ノックは、まったく別の議論をしている。彼によれぱ、若い人たちが伝統的な家族構造から解放されることで、実際には私的領域は拡大し、信頼の根本的な危機をうみだしている。プライヴァシーが拡大しすぎ、社会関係のなかで信頼をきずけるほど親密になれない。現代や都市生活に関するジンメルの論考を思い起こさせる方法で、ノックはプライヴァシーを異人性と結びつけ、監視は風評を維持、特定することで、匿名性の社会状況のなかで信頼を回復させている、と論じる。つまり監視は、脱産業社会におけるプライヴァシーの爆発(家族の分断、それに伴う孤立、疎遠化)によるすきまを埋めるために発生したのであり、監視がただプライヴァシーを脅かしているという通念はまちがいだというわけだ。
ここでは監視は、信頼の代用品であり、社会的な孤立を補う複合的な役割をはたしている。(略)
ノックは、ある程度までは正しい。プライヴァシーが信頼の危機をつくりだす場所では、情報ネットワークが、親密な知識や互恵性にもとづく社会を、社会秩序のデジタル・シミュラークルで代替する。

そもそも「ひとりの時間」「自分だけの時間」なんてあるのかと

だが、逃避それ自体もシミュレート化している。ファミコンで遊んでも、休暇をとっても、電脳空間で遊んでも、何からも誰からも逃避はできない。逃避は外部へのがれることであるどころか、ここでは別の内部であり、むしろ、内部から内部への動きなのだ。メディアの外側に出ることはできない。このことは、はじめは逆説的に聞こえるかもしれないが、まったくそうなのだ。たとえあなたが、システムヘの接続を切っても。シミュレーションをこえた「外部」の「現実」世界は、もはや逃避という概念と結びつくことはできず、むしろ捕獲とか包含とかいう概念に固定されている。外部は、ある意味で監獄であり、不自由な空間だ。逃避、プライヴァシー、「神聖な」孤立は、今日ではみなネット上にある。あなたも逃げることはできる(しかし、「あなた」は誰で、どこにいるのか?)。

完全な情報公開は過激な匿名性を可能に

このシステムは、「個人的」情報を、まったくの異人たちのあいだに、完壁に流通させることを可能にする。そして、完全な情報公開という文脈のなかで、過激な匿名性を可能にする。「誰かに関して知られうること」が、電子文書のかたちになり、単純なOと1、オンとオフに還元可能になったとき、信頼とは(そしてプライヴァシーも)、正しいインデックスをもっているかどうかという単純な問題になってしまう。

気にせず食えよ狂牛肉

今日、すべてが不確実であり、確実に知られるものはない。試験を蓄積しても何も証明されず、それを利用すればするほど信用は失われてゆく。これは悪循環だ。試験というメディアを狂ったように利用して、より不確実性を増し、大きな孤独をうみ、社会の浸食を進めている。これが、私たちの信頼が置かれた可能性なのだ。
ネット上の個人のどんな細かな情報までも公開することは、ネット自体の完全なプライヴァシーと孤立の基礎になり、逆に、システムの集合的なプライヴァシーが螺旋的に進んで自分自身に寄食する。ここで、ネットは二〇世紀末の孤立と匿名性のパラダイムになる。文字どおり情報の泥沼で、その極限では人は何も意味を見いだすことができない。私たちは、個人の異人性から、システムの異質性へ、そしてシステムの理解不能性に進んできた。システムは自足し、外部とつながらない。近代は逆説的にも、監視機械に対抗するために、監視の作動を全体化して、プライヴァシーの維持に成功したのだ。