カントの人間学

カントの人間学 (講談社現代新書)

カントの人間学 (講談社現代新書)

とりあえずkingfish.hatenablog.comのもやもや解決から。
僕は友人を助けたいから助けるんだけど、カントに言わせるとそれは有徳じゃないんだってさと、揶揄したシラー

例えば「約束を守る」という行為は、それだけで道徳的であるわけではない。われわれは、例えば、信用を維持しようとして、あるいは賞賛を得たいがために約束を守るかもしれない。カントによれば、こうした「感情の傾き」の混入した適法的行為は、究極的には「自愛」に基づき、決して道徳的ではないのである。では、道徳的行為とはいかなるものか、それはネガティヴに規定される。すなわち、そのうちにこうした感情の傾きが混入しておらず、ただ「約束を守る」という義務に基づいてのみ成立しているような行為である。(略)
もし私が「友情に基づいて」約束を守るのだとすれば、友情に基づかない場合は約束を守らないかも知れない。とすると「友情に基づいて」約束を守るかぎり、私は約束を守ることを普遍的必然的には履行しないことになろう。とすれば---カントによれば道徳法則は普遍的必然的に成立しなければならないから---「友情に基づいて」約束を守ることは道徳的ではないことになるのである。

生涯恋愛しなくても不思議じゃない、てな小谷野敦と熱く語り合えてしまいそうな話も書かれたこの本、前半にはこんな論争相手はヤダという例が書かれている。どんなに反論しても全く自説を曲げようとしない人もイヤだが、一番イヤなのは『自分が彼から何ものも本当に何ものも期待されていない』パターンだそうです。

だが、先の究極の論理的エゴイストは違う。むしろ語の普通の意味で、彼は他人が嫌いではなく自分も嫌いではない。彼の異常なほどの強靱さの秘密は、他人が気にかからないことである。他人によって傷つきえないことである。(略)そこには、人間嫌いとは正反対に、肌のように身についた自己肯定の姿勢がある。そして、その姿勢に嫌悪を感ずる(過敏な)他人の思惑をいっさい意に介さないほど都合よく鈍感である。

うーん、小谷野に喧嘩を売られた時の中島義道の態度はまさにこれではないか。自分がやられてイヤなことをやり返していたのか。
独断論はよくないという俺の批判は完璧だから、オレの批判論に対する反論は絶対認めないと独断するというパラドックスに陥ったカント。
カントに丁寧に「疑問」を呈したマイモンのあしらい方

私にとって可能なかぎり、貴方のご要求をお聞きしようと努力いたしましたが、貴方の論文全体を判定したうえで、貴方の意にかなうことはできませんでした。この不履行の理由をへルツ氏宛の私の文面からお知りになりましょう。実際これは軽蔑ではありません。私は人間性に関心を抱いた理性的探究における真面目な努力に対しては、軽蔑を抱くことはこざいません。とくに深遠な学問への並々ならぬ才能を実際にひらめかせていらっしゃる貴方のご努力のごときに対しては、軽蔑を抱くことなど決してこざいません。

おおまさに、中島先生の態度そのまま。マイモンはカントにスルーされているのにそれでも四年半で七度、お忙しいんでしょうね、先生の僕に対する不満がようやくわかりました、それでも先生に直していただけるくらいの価値はあると思うんですけど、と手紙を書いたマイモン。
教師の仕打ちに傷ついた貧乏少年に対し中島はこう書いている。

そうであってはならない、と私は思う。彼がそれほど傷ついたのであるとすれば、彼は先生に言葉を駆使して自分の目撃したこと、母が羊糞を床にたたきつけたこと、自分の感じたことを語るべきである。そして、先生に正面から弁解を求めるべきである。
これは、非現実的な理想論ではない。立場を反対にしてみればよくわかるのである。読者がこの先生であったなら鹿島少年に問答無用と切り捨てられるより、「そう言ってほしい」と願わないであろうか。われわれは多くの場含、人から言われてはじめて自分が他人にいかに過酷な仕打ちをしたかを悟るのであり、それに基づいて---場合によって---自分を変えていくこともできるのである。少年からも母親からも何も聞かされないまま、先生は永久に自分が他人に与えた痛みに気づかないであろう。これは双方にとってきわめて不幸。