論力の時代

論力の時代―言葉の魅力の社会学 (シリーズ言葉と社会)

論力の時代―言葉の魅力の社会学 (シリーズ言葉と社会)

 

 あいつの論理は正しいが、どうにも物言いが気に食わない。論理より人柄じゃない?論理が一番の正義なのか?口で勝てなきゃ腕力じゃ駄目なのか?一生口だけ達者なインテリに馬鹿は勝てないのか?論理的に逆らいようのない正義(例:煙草の害)を振りかざす者にどう対応すべきなのか?大雑把に言うと、そんな問題提起をしている本で、それは面白いのだけど、どうもその答えが駄目です。気持ちが大事だ、自己表出の高い言葉で、という古典的回答になってしまって、いや本当にその気持ちは痛いほどよくわかるのですが、それじゃ勝てないと思う。吉本さんだってマスイメージ論書いてるわけだから。それに論理じゃない人柄だとなると、尊師だ空中浮遊だという話もでてくるわけで。
発言者の地位や権力やルックスや魅力じゃなくて、論理のみで判断されるというのは実にいいことではないのか。著者が下敷きとするアルヴィン・グールドナーの

理性的言論文化論とは。

議論の力だけにたよって相手から自発的同意を引き出そうとすることにある(自己依拠性)。暴力を使ったり脅しをかけたりするのは論外で、話の最中に自分の社会的地位や権威をもちだすことも禁じられる。性的あるいは人間的魅力をほのめかすのもまたルール違反である。どこまでも、議論の正しさで押していかなければならない。その代わり、相手も同じルールに従うべきだから、どんな権力者も金持ちも美男美女もその言っていることが正しくないとみなされれぼ、厳しい批判にさらされる。次に、不特定多数を対象にして、特定の状況や文脈に縛られない話し方・書き方をすること(脱文脈性)。目の前にいる相手が誰であれ、いつどこで話しているのであれ、つねに匿名の不特定多数の聞き手や読み手に通用する言葉の使い方をする。そのためには、一つ一つの言葉の意味が明確でなければならない。

オープンでガチで素晴らしい進歩のはずなのだが、そういう文化は理論偏重になって

感情表現や比喩の洗練、言葉の遊びや即興性など、自発的で個性的な言動を抑圧してしまうことである。理性的言論の力を効果的に発揮するためには、言葉の選択や論理の展開に細心の注息を払わなければならない。(略)
ところが、この慎重さや自己規制や「真面目さ」が「不健康な自意識、ぎこちなくまわりくどい発話、遊びや想像や情熱の禁止、そして自己表現の抑制」をもたらすのである。

すごく笑える。いい気になってわけのわかんない文章を長々書いてる方々が沢山いらっしゃいます。で、そういう方々が

真理や正義を語っているつもりでも、結局はその語り方の排他性によって閉じたインテリ・クラブを作り出し、言論や知識を資本とする新しい階級を形成してしまう。

実際ボクだってDQNを前にしたときに論理的にDQNぶりを証明していく言葉しかないわけで、それじゃDQNは浮かばれないわけで、お互い平行線なわけで、しかし寅さん的風情で「あんちゃん、いけないよ」とはいかないのでありまして、大変に難しいわけです。
この本の中に禁煙ファシズムに対する不満が書かれていたので、ついでに書くと、少し前に小谷野敦中島義道に「最近のおめえは、ただの小言親父じゃねか」と噛み付いて、ボクも同感だったのでわくわくしてたら、中島は人格攻撃と論点はぐらかしというズルい手段に出てきて、本来ならけしからんのですが、不思議とその文章がおかしみにあふれていまして、ズルいけど、なんとなく中島に勝負ありと言いたくなるもので、次の月でもカントも俺も性格悪いのよ文句あると開き直っていて、論理的には小谷野の勝ちのはずで、ボクも小谷野に味方してあげたいけど、騒音糾弾親父と化していた時にはなかった変なおかしさが滲み出ていて、中島が負けたようにはならなくて、ううむ、難しいものだと思いました。でも他人はそれでいいけど、小谷野本人は憤懣やるかたないのではなかろうか。おそろしやおそろしや。
デモ、小生、煙草スイマセンカラ。