前日から続いてます。
- 作者: ロベールミュッシャンブレ,Robert Muchembled,平野隆文
- 出版社/メーカー: 大修館書店
- 発売日: 2003/05
- メディア: 単行本
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さすがに、一週間はまずいだろうということで、2&3章。
単なる秘密集会にすぎなかった1420年のサバト。ヘビメタ集会と変わらねえ。
自分たちは父と子と聖霊が一体であるなど信じない、今まで執り行ってきた秘蹟の儀式なんぞ無に等しい、聖母マリアには複数の子供がいた、聖人が天国にいて力を貸してくれるなんざ嘘八百だ、修道院なんぞは売春宿にすぎない、神父に告解しても全く意味がない、聖水なんぞは悪い冗談でしかない(略)
十字架なんぞは死刑台そのものだ、そんなものには一切敬意を払うべきではない、レクイエムでミサをあげても、死者には何の御利益もありゃしない
裸体解禁の流れがトリエント公会議で禁止されたことにより
狭苦しい禁忌を比較的合法な手段で侵犯する可能性が残っていたこと、等々の要因が重なって、女性の身体を新たな視線で見つめる傾向が生じてくる。(略)聖書を題材にしたクラナッハの描与に於けるように、罪の意識は極めて希薄になっていくのである。これに伴って、裸と連動した罪悪感は横滑りを起こし、全く新しい対象へと注がれるようになる。こうして、魔女の裸体が誕生するのである。
それまで、芸術作品の中では、上品なタッチではあったものの、罪人は裸の状態に描かれていた。逆に魔女は男女を問わず服を着ているのが普通で、ティンクトールの写本画に描かれたサバトに於いてさえ、裸の魔女は登場しない。つまり、性は隠楡的な方法でのみ喚起されていたにすぎない。例えば、肛門や腹部に顔が付いているといった表現法がそれで、(略)
十四世紀には、「罪としての女」、換言すれば身体の各部位が、ある罪と対応しているような女の存在がクローズアップされるに至る。例えば腹部に張り付いた頭部ないし口は、女性の貪婪な性的欲求を暗示していた。
一方宗教改革派は、デンマークに於けるように、堅固な政治的基盤を一旦築き上げるや、さっそく領域内の人々に対する倫理的な締め付けを率先して強めるようになる。その際彼らは、デーモンと結んだセクトを壊減せしめるために、元々カトリック起源の魔女現象という概念を、何の躊躇いもなく利用している。こうして一五六二年、ドイツの南西部で、最初の大規模な魔女狩りが行われることになる。(略)
十九世紀ドイツのプロテスタント系の歴史学者たちは、宗教改革が、人々を魔女迫害から解放する上で大いに貢献したと声高に主張していたが、これは事実とは全く異なる。否、正反対と言うべきで、一五六〇年から一六〇〇年までの期間をとると、魔女狩りに関しては、プロテスタント、カトリックのいずれの陣営も、同じくらい熱心だったのである。
魔女裁判というわかりやすい舞台を通して、民衆に新しい規範を習得させる。
厳密に言えば、魔女裁判とは悪魔学を肉付けする場であった。魔女裁判が、悪魔学の真実性を証明していたのである。魔女裁判は、複雑な神学的理論を、観察可能な現実へと加工していったのだ。魔女裁判を通して、神と同じく根元的に不可知なるデーモンは、男女のいずれであれ、被告という肉体に具象化していったのである。その過程で、天空に於ける「善」と「悪」の闘いが、人間の心の内へと呼び込まれ、各人が個人的に罪悪感を引き受けねばならないという、新たな恐るべき一幕が開くのである。
はにゃー。
男性の方は、その流体や暴力が常にほとばしり出るがゆえに、世界を汚染して止まない存在と見なされていたのに対し、女性の方は、いつも開かれた状態の子宮に汚染を呼び込むことを通して、共同体内そのものに汚染を招き入れてしまう存在と見なされていたのである。