中世哲学への招待―「ヨーロッパ的思考」のはじまりを知るために (平凡社新書)
- 作者: 八木雄二
- 出版社/メーカー: 平凡社
- 発売日: 2000/12/01
- メディア: 新書
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[「自由な意志」を意味するラテン語から派生した]ボランティアは、自由意志で活動する人のことを言うし、このことばには他人から求められて動く意味はない。「自分を生かす」ことを意味の中心にもっている。
ところが、日本人はこれを、「自我を捨てて」社会に奉仕する意味で受け取りやすい。しかし、これでは誤解になる。ボランティアは、「自分がそれをしたい」という思いと、社会の利益が一致しているものを言うからである。言い換えれば、社会への自由な参加意欲がボランティアなのである。「ボランティア」がこういう意味を含むことには、実は西欧の市民社会の長い歴史が背景にあって、そのため、単なる単語の置き換えではとうてい意味が伝わらなくなっているのである。(略)
というのも、アメリカはボランティアが盛んだといっても、そのほとんどはキリスト教会がらみであって、そこを離れたポランティアはやはり少ないのである。アメリカと日本の違いは主に、社会の評価、受け入れ体制の違いにあって、アメリカでは、少数のボランティアでも、同じ数のプロとあまり変わらない存在感がもてるのである。したがって、少数のボランティアの活動でも、その社会的影響力は大きなものがある。それは小さな企業でも大きな経済的影響を与えることと同じである。[これに対して、日本では金に結びつかない趣味程度なものとしてとらえられているため甘えが生じているという文章が続く]
[日本のボランティアの和気藹々ぶりにアメリカ人が驚いたため]
わたしはその意味を知りたくなって、個人的にサンフランシスコを訪ねた。そこで知ったことは簡単に言えば、つぎのことである。アメリカ人にとって、ボランティアとは純粋に個人的な意志に基づくものであって、仲間意識とは別だ、ということである。もちろん、ボランティアが自分たちのやりたいことを実施するために組織をつくって取り組むことは、NPOがアメリカで盛んなように、少なくない。ところがこのように共同体をつくる活動は、ヨーロッパの民主主義を支えてきた市民意識(政治への参画意識)から生まれていることであり、仲間意識とは違うのである。そしてヨーロッパの市民意識は、むしろ共同で自分たちの「権利を守る意識」と言うべきなのである。しかも守ろうとしている権利は個人の権利であって、仲間としての権利ではない。それがボランティア意識なのである。だから、企画された事業に参加するボランティアは、個人個人であって、仲間意識があってのことではないのである。
「もう死んでるだろうな」とかシラッと書いたりする奴等をニンマリさせるために引用してるわけではない、と念のために書いておく。