言語と文学

言語と文学

言語と文学

頭の悪いボクは、一番最後の訳者・山邑久仁子さんの解説を読んで、ふーん、と頷いております。
ジャン・ポーラン『タルブの花』について書かれたブランショの『文学はいかにして可能か』

紋切り型は、ひとの注意を引かないことを目的としており、それを用いた文章を言葉過剰に見せるどころか、むしろその陳腐さによって、文章を透明に、不可視にする効果をもっているのである。

絶えず言葉から逃れ、自らが再発明する言葉にだけ臨もうとする者は、絶えず言葉に心を占められることになり、結果として、あらゆる作家たちのなかで最も切実に言葉至上主義の批判を避けようとした人々が、当の批判を最も浴びることになってしまうのである。言語から逃れよ、そうすれば言語に追いかけられる。言語を追い求めよ、そうすれば言語は逃れ去る、とポーラン氏は語る。(略)
結局問題になっているのは、文学を可能にしている本質的な錯覚に終止符を打つことだからである。作家は、芸術との虚しい手探りの戦いを通じてでなければ、芸術を生み出すことはできないのであり、彼が公共の通俗的な語法から引き離したと信じている作品は、彼が思い描いた無垢な語法に不純さと堕落さの重荷を背負わせ、通俗化させることで存在しているのだということを、作家に示すことが問題なのだ。この発見には、ランボーの沈黙を万人の上にのしかからせるほどのものがある。(略)
紋切り型の表現や慣用に対して敵意を抱く作家は、自らを沈黙に追いやるか、または錯覚を抱き続けることによって沈黙から逃れるしかないということであった。

『文学はいかにして可能か』はドイツ占領軍の検閲の下での暗号で書かれた政治的テクストであるという内田樹の1988年の論文が載ってます。
ホントはもう少し色々引用するところをチェックしたのだけど、いいか、ってカンジで。元気ねえし。ま、言い訳だけど。