『仁義なき戦い』をつくった男たち

 

カメラマンの吉田貞次は

満州映画協会にいた。八月十六日に甘粕正彦は別れの演説をし、二十日に服毒自殺する。

全員を集めて演説をしました。全員といっても日本人だけですけどね。「わたしは、今度のことで自殺します。わたしは武土の子だから本来なら腹を切って死ぬべきなんだが、こういう事態を招いてそれもできないから別の方法で死にます。ここで皆さんにこういうのは、わたしも人間で死ぬのは怖い。死ねないといかんから、みんなの前でこうやって宣言して死ぬしかないところに自分を追い詰めるんです」
そんな意味の演説ですよ。あのときの状況でいうと、もうそれはしかたがないという気持ちで聞きました。僕らもいずれはそうなるかもわからん。だから、みんな黙って聞いていました。

ソ連軍と市街戦をするつもりが、既に関東軍は姿なく、満映は中国人主導で再始動。南からの国民軍の侵攻で北部に疎開することになる。先の列車に乗った内田吐夢らは53年まで中国に残ることになり、鉄橋破壊により行き損ねた吉田らはそのまま日本へ帰国。
内田帰国第一作「血槍富士」に参加した吉田。片岡千恵蔵の中間が主人のお骨を抱えて歩き出す長いラストショット。

その間をナレーションもなくてどうするのかなと思っていたんですけどね、できあがってみるとそのシーンでは「海ゆかば」が流れて。すぐにピンときました、「これは甘粕さんだな」って。(略)
[寂しがり屋の甘粕がしばしば人を集め語らい、最後には『海ゆかば』を歌ってお開きにしていたエピソード]
内田さんもそれを経験されたんでしょう。日本に帰ってきた第一作の『血槍富士』で、それが頭にあったんですね。いわゆる反戦、反封建主義、それをどこかで出したかった。だから、封建制のバカバカしさをあの中間に託して表現した。それでナレーションをなくして、「海ゆかば」の音楽で終わってしまう。その当時の客に果たしてそれが伝わったかどうかわかりませんけれどね、内田さんの思いとしてはそういうことだったんです。
[中間の忠義を謳ったわけではないのか]
まったく逆です。いわゆる封建主義の矛盾ていうんですか、そのバカバカしさを「海ゆかば」で出したかったということです。

満映引揚者失業対策で東急の五島慶太に頼み込んでつくったのが東横映画(東映の前身)。やくざな空気の残る現場から赤狩り東宝を追われた俳優ら右左の混成軍、マキノ光雄曰く「うちは日本映画党だ」。
岡田茂・元東映社長によれば、四畳半の世界だった松竹はテレビが出て凋落した。

東映は不良路線でいったから生き残った。

橋蔵君(大川橋蔵)にね、やくざもんやらしたってお客がくるわけないでしょ。本質が、根っから善良性のスターに。だから、あなたはテレビに移ってくれんか、と。これが要するに『銭形平次』ですよ。これに移ってくれんかと。善良性の時代劇はテレビでやったら受ける、お茶の間でね。これから善良性のものはテレビでやるから、全部移すからということでね、みんなを説得して。あんたテレビにいきたくないなら辞めてくれということまでいったな。なかにはどうしても嫌だというのもおってね。ずいぷん、人を入れ替えざるをえなかったね、スターも監督もね。でも、案の定テレビの時代劇は当たりましたよ。『水戸黄門』なんかいまだにやってるでしょ。だからね、うちがね、先鞭切ったんだ。やらざるをえなかったからやったんですよ。

最後にトリビア
『広島死闘篇』北大路が追い詰められるラストはノーライト撮影。十倍増感ができる現像所が日本にないので、16ミリフィルムを使った。十倍増感で粒子が荒れカラーバランスがバラバラになってあの映像ができた。
満映でニュース映画をつくっていた吉田は深作の手持ちカメラに全く抵抗はなかった。
ヤクザ言葉&トリビア

  • 喧嘩上手のメリメリ骨の鳴るような男
  • 叩けば火の出るような女

刺青賞める時は、「いい傷ですね!」
「いいイレズミですね」ではいけない。イレズミは昔の刑罰。ホリモノは遊び。

仁義なき戦い 広島死闘篇 [DVD]

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