「放送」以前のラジオをめぐる多様な欲望

 

 この中の、山口誠『「放送」以前のラジオをめぐる多様な欲望』だけ読みました。

ラジオ放送開始

大正14年、毎月一円の料金を取られるラジオは、放送開始たった一年で、東京・大阪・名古屋放送局の聴取契約合計が25万件となった(当時大阪朝日が百万部)。人気雑誌の『キング』は50銭で実売数30万部。
大衆には人気のラジオを「騒音」とする文学者。井伏鱒二の『ラヂオしぐれ』では

このごろ物々しい抑揚をつけて報道されるニュースをきいてゐると、世情騒然とした感じが強調され不安な気持ちにされてしまふ。ところが同じニュースを新聞で読みなほしてみると、ときによつては落ちついたゆとりのあるニュースであつたことに気がつくこともある。

このような反発・違和感は

活字文化に主体化してきた知識人が、新しく出現した音声メディアの軽薄さや感情へ訴えかける手法を批判し、活字時代の音景を懐かしむことで、自ら習得した思考の権威を担保してくれた旧来の公共性を守ろうとする言説としても読み取れるのだ。

放送開始前に若い皇族がラジオ無線に熱中する様子を新聞が伝えている。ハムだよ。一般国民と皇族が直接会話していた可能性がある。

「電波の平等性」

皇族も下々も同じものを聴いていると「電波の平等性」を強調する記事もある。

「一般民衆」が修養し立身出世して「皇室」の極みに近づくような社会的上昇を前提とした平等イデオロギーではなく、むしろ「皇室」の側が「一般民衆」の声をとらえ、喜びや憂いを「同じうする」ことで達成されるような平等性を想定している。つまりここでいう平等牲の軸足は、「皇室」の側ではなく「民衆」の側に置かれているのだ。

こうしてラジオを聴かない人(文学者etc)も聴く人が「日々実践していくコミュニケーションの様式と集合的なリアリティ」に巻き込まれていく。
さて初期の鉱石ラジオはスピーカーがないわけで当然個的視聴形態だった。これがスピーカーをつけることで家族や集会所での聴取に変化していく。
[ここらへん、言われてみればなるほどであるが、ちょっと驚き。時代が下がって勉強部屋での深夜放送・DJブームという形態に戻るわけだから]
呼び鈴が必要な「集団電話のようなラジオ像」という、既にラジオを枯れたメディアとしか見れない現在からすると、理解不能なラジオ像もあった。
[ここ面白いと思うのだが、うまく言えません。]
堀江社長のような勢いで色々な空想が語られた。ベルリンのアインシュタインの講義を全世界何処でも聴ける、てなものから、テレビ電話、遠隔治療、電力を無線で送受信、交通機関の遠隔操作etc。
逓信省は「一都市一局」という送信側の規制だけでなく、受像機の方も「型式証明」を受けていないものは違法としていた。

許可申請の書類は機能の説明、受信電波の波長、構造図、配線図、それに無線受信機を電気試験所無線局に持参しなければならない。性能はもちろんだが外観がよくないと、「作りなおしてこい」と却下された。

実にアホらしいことをやっているが、じゃあ今の車検制度はどうだと言われりゃ御同様である。素人が自作してもよいのだが、

使用部品や回路はもちろん、配線の方法やべースの寸法に至るまで厳しく規制されていたため、「部品以外でアマチュアが工夫できるのは、部品の配置と木の板くらいだった」という。こうして逓信省は、放送局の開設以前から、受信機の標準化を図っていたのである。

ラジオの方の目論見はあっさり崩れたのだが、なんと恐ろしいことに「有線電話」の方はおっさんには馴染み深い「黒電話」として1980年代まで命脈を保ったのだ。上のアホらしい顛末を笑うなら、あの「黒電話」は、ナニっ!ってカンジ。
弱小メーカー連合によるラジオが売れる一方で、売れない放送協会認定ラジオは電力余りに悩む電力会社の強力な組織力を利用して販売促進を図ろうとし、当然弱小連合は文句を言い、なんだかんだで計器測定が廃止され、「音がちゃんと聴こえればいい」と認定制度は形骸化され、今に至る。

逓信省や放送協会が提示したラジオ像でさえも、それらは放送局外部の主体によって常に挑戦され、そして時にボイコットされたり、大きく「改正」させられたり、骨抜きにされたりするのだ。そしてラジオメーカーが自社製品という形で市場に供給する〈耳の輪郭〉も、それが売れるか売れないかという形で判定され、常に同時代の人々の欲望を体現する必要に迫られる。