近代読者の成立

インテリの皆さんには今更なんでしょうが、図書館でペラッとめくっていたら面白そうだったので。とりあえず江戸・明治のメディアの変遷。

近代読者の成立 (岩波現代文庫―文芸)

近代読者の成立 (岩波現代文庫―文芸)

商業主義化していた江戸後期戯作出版機構は天保の改革により大きく変質した。
検閲によって既成組織が破壊され新規参入

検閲の網の目をくぐりぬけて市中に流れた出版物は、その稀少価値ゆえに途方もない高値を呼んだ。(略)
皮肉なことに、検閲令の苛酷な施行がボロもうけの機会をつくったのであって、絶版の危険を冒してまでも際物出版をもくろむ二三流の版元は少なくなかった。そして間もなく、新規開業の版元を含めてこれらの版元は、本格的な出版に乗り出し始める。鶴喜や泉市等の一流版元の不振と仲間行事の解散とが、進出の余地を与えたわけである。

生き残った新規版元の条件。
1.新進作家発掘 2.既成版元との共同出版 3.板木の購入再版(いわゆるコピー商品)
コピー商品の氾濫。いつの時代もパクリがのさばる。

「偽刻重板」の横行は作者、書肆の双方に責任があった。すなわち書肆の側では地本行事の解散によって株板(版権)が消減したのに乗じて、ほしいままに類作、偽版を出版したのであり、当り作の焼き直しは読者をつかむには容易かつ確実な企画でもあった。作者の側でも、書肆の企画に盲従して、先輩の当り作を踏み台に自作の当りを図ることを恥とはしなかったし、また翻案に新機軸を出すだけの才分に欠けていたことも事実であった。

漠然と保守化していく

戯作者たちは国芳の調刺画に喝采を送った民衆の動きとは無縁であった。ここでかれらは民衆の動向を敏感に察知して作品にもり込むサービス精神すら失って、民衆の背後から徒に教訓と勧懲を眩くという惨めな地点に自らを追い込んだわけである。もちろん天保の改革が取締りに峻厳の度を加え、出版の条令が業者の予想をつねに一歩先回っていたことを考慮しなければならないが、寛政改革の際に、春町や喜三二が黄表紙の世界にひそめたうがちの精神は見るべくもない。

[明治15年頃]ニューメディアと戯作者、消費の加速化

活版印刷術の普及と新聞雑誌ジャーナリズムの登場とは、木版印刷技術の上にたつ書物問屋、地本問屋の組織を解体させ、絵草紙屋貸本屋の配給回路を断ち切った。(略)
戯作者たちに復活の舞台を提供したのが小新聞の雑報であったように、合巻の版元に「草紙の再興」の機運をもたらしたのも、新聞ジャーナリズムの力にほかならなかった。自主的な出版企画を失った合巻の版元が新聞ジャーナリズムの下請化することによって贖った一時の繁栄はあまりにも短く、結果的にはその出版機構の最終的な解体をはやめることになる。(略)
『鳥追阿松』の成功から絵入りの事件パンフレットに変質した明治の合巻は、ニュースヘの好奇心に魅かれ、新聞広告によってかきあつめられた一回的、浮動的な読者をその対象とする。ニュースの鮮度を追いかけて矢継早に続編が刊行され、その出版期間も数ヶ月に短縮されるのである。

[絵より文字]出版期間短縮により装本ことに挿絵の質が低下したため。

木版式合巻が見る本としての魅力を失ったことは、読むことを主にした活版式合巻の登場を容易にした。毎朝配達される新聞から一定量の活字を消化する習慣を身につけた読者は、挿絵を娯しむより活字の読み易さに魅きつけられる。読者の読解力がたかまるにしたがって、分冊の形式は読みごたえのある分量を一冊にまとめた単行本の形式にとってかわられる。

コストの違いが活版を木版より優位にする。
活版印刷は現在のDTPのように新規参入を可能にした。

明治十二、三年頃から十五、六年頃にかけて、小規模な「街の活版所」の開業広告が新聞の広告面にひんぱんに現われていることに注意したい。活版式合巻や後述する戯作小説の翻刻本は、この「街の活版所」の貧弱な手引印刷機をくぐって市場におくり出されたのである。その仕事の出来映えは良心的とはいいにくいにせよ、とにかく活版印刷の普及は出版と印刷の分業を可能にした。このことは新たに出版をもくろむ業者にとって有利な条件の一つにちがいなかった(地本双紙問屋は、筆耕、字彫師、絵彫師、摺師からなるイキの合った職人の一チームをつねに抱えていなければならなかった)。

古いメディアの解体が埋もれていたソフトを解放する。

江戸式合巻が壊滅に瀕していた明治十五年から十六年にかけて、皮肉にも出版界は江戸戯作復活の機運を迎えようとしていた。それは活版による翻刻、予約出版の流行である。木版式合巻の退場を促した活版印刷の進出が、一方では馬琴の読本や春水の人情本貸本屋のストックから解放し、大量生産による廉価版の普及を可能にしたのである。

供給過剰の危機にダンピングで成功した兎屋は明治の角川商法か。本をたんなる商品にして近世的な販売機構を解体させた。

兎屋の特売広告は一月か二月に一度の間隔で諸新聞の広告面を数段、ときには全面にわたって占領した。その広告は数百冊の書名をつらねて、定価と割引価とを併記し、反物、書籍、劇場の切符などの景品を添え、特売の期間を限って顧客の購買欲をそそる仕掛になっていた。しかもその特売広告をぬけめなく支店の開店祝、新著の出版、新企画の発表などと結びつけて宣伝効果をたかめたのである。

新聞の急速な発展・本を持って外にでよう

明治七年創刊の読売新聞をはじめとして、続々発刊された小新聞は、貸本屋にかわる新しい民衆的文学回路を開いた。読売の創刊号はわずか百二、三十枚の発行にすぎなかったが、明治九年にははやくも一万五千の発行部数に達した。浮世画の点景人物としてお馴染みの貸本屋の姿に加えて、開化の風景画には鈴を鳴らして記事を呼ぴあるく新聞売子の姿が欠かせないものになった。上野・浅草の盛り場には茶店を兼ねた新聞縦覧所が開業して人気をあつめ、人力車は傍訓新聞を備えつけて車上の客に読ませた。新聞は戸外でものを読む習慣を普及させたのである。維新以来戯作の新版が激減したために、一時は民衆に「読みもの」を供給する回路を独占していた貸本屋は、程なく小新聞の「つづき物」にその読者を奪われることになる。

えー、まだまだ続くのですが、とりあえず。