- 作者: 赤木昭三,赤木富美子
- 出版社/メーカー: 名古屋大学出版会
- 発売日: 2003/10/01
- メディア: 単行本
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これらルネサンス哲学者の世界では、霊魂が宇宙に偏在して万物を形成し、宇宙全体が生きている。すべてのものが照応しあい、あるいは共感をもって引き合い、あるいは反感によって斥け合う。ある種の植物や鉱物が嵐を呼び、ある種の動物が予言をし、彫像が汗をかき、また亡霊が出現する。魔女狩りの狂熱が最高潮に達したのもこの時期であった。そこではすべてが可能であり、自然と超自然の境目も明らかでなく、自然そのものが魔術的であり、超自然的だったのである。とくにこれらのイタリア・ルネサンスの魅力的な思想に共通するのは、世界の動きのすべてをつかさどる「星辰」の絶大な影響力と、宇宙の万物を形成するという宇宙霊魂の思想であった。彼らによれば、高貴な「星辰」の運行は地上のすべての出来事を支配し、大宇宙に対応する「小宇宙」である個々人の運命をつかさどり、人間がこの「宿命」から逃れることはありえない。
デカルトの自然学は、せいぜい大まかな漠然とした数量による説明に終始しているのにたいし、ニュートンの場合は、はじめに不可思議な「万有引力」という遠隔作用の存在さえ容認すれば、あとは天体の運動から地上の物体の落下にいたるまで、宇宙の一切の運動が、同一の、しかも厳密に数式で表現し得る法則にもとづいて説明されているからだ。
ところが面白いことに厳密になったら逆に神の力が
だがまたニュートンの物理学は、自然界への神の介入をデカルトの自然学よりもはるかにつよく大きく感じさせるものであった。その好例が万有引力であって、それは、ニュートンによれば「まったく力学的でない原理」であり、「その原因は神の御胸のうちにある」のだという。
(略)
これらすべては、はかり知れない神の意志によるのであって、このように宇宙のすべては神の自由な意志をあらわし、神の存在を示すのだ・・・こうしてニュートンの哲学はヴォルテールその他の理神論者の、何よりも力強い味方となった。それだけではない。ニュートンの学説が普及するにつれて、デカルトの宇宙から排除された目的因、デカルトに厳しく否定された宇宙の目的論的解釈がふたたび息を吹き返し、大は自然の比類のない秩序から、小は小さい昆虫の不思議までも動員して「無限の英知」の意図を説明しようとするキリスト教護教論が、きびすを接して出現することになる。
タブラ・ラサ(空白の石板)論の流行。
18世紀中頃、ロックの影響を受けたコンディヤックはロックが手をつけなかった精神的諸機能まで後天的に獲得されるとした。ルソーの暗い留保は掻き消された。
このような考えを極端にまで押し進めたエルヴェシウスなどは、生まれ落ちたときの人間の精神は、まったくの白紙であって、教育の力と、人間を取り巻く社会という環境の作用によって、これを思いのままに捏ね上げることができるとまで考えたのである。
こうした風潮のなかで、人間というものが永遠に固定して変わらないものではなく、多少とも後天的に形づくられるものだと、少なからぬ人たちが考えはじめたとしても、それはけっして不思議なことではない。人間のもつ「完成可能性」という語はルソーの造語だといわれているが、この幸運な新語は、たちまちフィロゾフたちに利用され、まさに時代の象徴的空言葉となった。そして創案者ルソー自身は、外的な環境の変化に刺激されて、人間の知的、精神的能力を発達させるというこの潜在的な能力が、社会における人間の堕落に寄与した不吉な一面をけっして見逃さなかったけれども、やがては、まるで人知と社会の無限の進歩を保障するような、この語の楽天的な、明るい響きのみが強調されることになる。
引用長過ぎ。しかもこれでまだ一章だけ。先は長いぞ。