中世びとの万華鏡

1/24でも少し引用した

中世びとの万華鏡―ヨーロッパ中世の心象世界

中世びとの万華鏡―ヨーロッパ中世の心象世界

13世紀後半に書かれた「天と地が接する場所を求めて旅に出た三人の修道士」の話から始まる。それは歴史的名所巡り(時間旅行)と霊的名所巡り(幻視)と現実の旅が融合されたドラゴンやユニコーンが存在する世界。

この修道士たちの旅の背景を構成しているさまざまな姿をもつ現実は、あたかも現実の境界がたゆまなく変化する「魔法にかけられた世界」にたとえることができる。あるときには、時間と空間の現実の範囲がはっきり認識される場合もある。また、ある場合には、無視されたり、ある意味では超越してしまうこともある。しかし、このように目に映った現実の範囲が拡大したり縮小したりすることは、中世においてはあまりに日常的かつ機械的に認識されていたことであるために、とくに中世の作家たちの目にとまることもなく注意を喚起することもなかった。むしろ、このような現象はすべての中世文化に当てはまる暗黙の行動様式であり、世界を認識する行為そのもの以上に基本的なことであったため、はっきりと意識されることがほとんどなかったのである。もちろん、中世に生きた男も女もこのように柔軟な心像をもっていたからといって空想と現実を区別できなかったということにはならない。ましてや、目に見えるものと見えないものとの違いに当惑したり、惑わされたりしていたということでもない。むしろ、この点に関して、われわれ現代人の理解を妨げているのは、われわれの精神がもつ感性、すなわち実体をもって目に見えるものは実在のものであると思い込んでしまう感性なのである。

ここに1/24に引用した実体のないものほど神に近いという部分が来る (id:kingfish:20050124)。
霊的なものへの対処

たとえ中世びとが霊的な存在を信じていたといっても、それらが人間にとって有益な存在であるとは考えていなかったからである。しかし、そこにはオカルト的、宗教的な対抗手段があったので絶望を感ずることもなく、目に見える世界と見えない世界との間の調和がそれなりにできていたというわけなのである。教会も、ある特定のオカルト的知識は糾弾したものの、事実上、この調和を保つことに積極的に協力していた。

占星術

イタリアでは、占星術が急速に重要な知的職業となった。ボローニャ、ミラノ、パドゥアの大学すべてに占星術の講座が開設され、その研究者たちによって大量の研究書が書かれた。しかし、イタリアでもっとも著名な占星術師だったチェッコ・ダスコリが異端審問によって一三二七年に火刑に処せられたことが発端となって狂乱が発生し、占星術の知識を身につけることに対する偏見が生まれた。

夢(ヴィジョン)を現実と信じる幻視的想像力で中世人は現代人以上のものを見ていた。超自然的光景を恐れはしたが、それをなにかの示唆として受け止める感性があった。現代ではヴィジョンを見るものは現実と乖離しているが、中世ではヴィジョンが現実を規定した。

中世という過去の時代を理解しようとすれば、ある知見と折り合いをつけざるを得なくなる。ところが、その知見とは現代の教育がほとんど信用できないとして切り捨ててきたものなのである。中世時代におけるヴィジョンに対する想像力は、合理的精神に拠って立つ歴史家にとっては、長らく厄介で困惑の種でしかなかった。しかしそれは、中世時代には異常などではなく、ごくありふれたことだった。

超常現象を求めていたのではなく、ただ時刻を知ろうとして星をみていた修道士たちが空に巨大な船を見る。幻ではないリアルな船を。やがてそれは消えたので、雲であったのだろうという結論にいたるが、それでも「すばらしく驚くべき」雲であったと受け止める。つまり何かを見るといきなりオカルトの彼方に行ってしまう現代人よりある意味ずっと冷静であったわけだ。

聖職者の明蜥さや権威を越えたところには、常にヴィジョンの神秘が横たわっていた。聖職者は平信徒と同様、啓示の前には黙して立ちつくすばかりだった。聖職者は地上の現実を支配することはできたが、ヴィジョンはこの現実は永遠の真理の単なる反映でしかないということを思い出させるものだった。何かの弾みに、人間には永遠の真理の輸郭が示される。そのとき、突然の恩寵によって知覚するものと知覚されるものとが一つになり、この世界のヴィジョンはもう一つの世界のヴィジョンに結ばれる。

引用が長いね。明日もまだまだ続く。