他者と死者

他者と死者―ラカンによるレヴィナス

他者と死者―ラカンによるレヴィナス

 

なんといいますか哲学とか知らない素朴な人間の素朴な疑問を書いてみる。正直「他者」の辺りしか読んでなくて、「死者」の辺りは難しくて飛ばし読み。
なぜレヴィナスとかがわかりにくい文章を書くかというと、師に就いて学ぶことと同じかたちを読者に求めるから。そこで張良の話。黄石公がわざと落とした靴を、黙って拾って履かせたことで秘伝の兵法を授かったというもの。
ここで授かっているのは巻物に書かれた秘伝てな「情報」ではなく、オレってそこそこ武芸できるぜというプライドを捨てて、師匠の謎掛けに巻き込まれることによって体験できる、「学ぶ」ということである。自分のわかる情報ばかりで壁を築いているオタクは、師について「学ぶ」ことで、自分の知らない世界(未知の情報などではない)があることを知るべきである。まあ、大雑把に言うとそんな内容。
さてここで不思議になるのが、師匠は師匠である必要があるのか。今までの自分では理解できないゲームに巻き込まれるということが学ぶことならば、師匠でなくてもよいのではないか。リンゴが落ちるのを見て、ひらめくのも、学んだことにはならないのか。回転して落下する猫を見て、「弟子にしてください、ニャンコ先生えええ」と叫ぶのでもいいのではないか。そもそも師匠とする基準は何なのか。この人の謎掛けになら巻き込まれてもいいと思うことなら、その師匠がニセモノだったらどうなるのか。麻原が謎をかける。その謎にまきこまれて、ポアすりゃ、そりゃ確かに学ぶことはできるかもしれないが。
異性の行為を「思わせぶりな態度」と取った時点で既に相手のゲームに参加したことになる。相手の方も誘いを掛けているならそれはそれでめでたいことであるが、相手にその気がなく、こっちの思い込みだったらどうなるのか。相手が何をしようとエンドレスな謎掛けなのである。どこで謎をかけていないと判断するのか。「あれっ、これって謎じゃないの」と思った途端「愚か者、修行が足りん」と怒られたらどうなるのだろう。それは他者ではなくて他我*1であって、そんなものに己の妄想を延々投影し続けることと学ぶことは全然違うと言われるかもしれない。でも一方で、

エロス的他者

エロス的他者は「師としての他者」と同じく「私を起点にしてしか接近できない」ものである。恋をしている人間が、そこでどのような「他者」に出会っているのかは、当人以外の誰も言い当てることができない。

こうも言われているわけで、本人が他者なんだもんと言ったらどうにも止めようがないように思えるのだが。あの師匠イカサマだよ、あの人お前のことなんとも思ってないよ、どれも正しい指摘だとしても当人には意味をなさないことになる。
「学ぶ」という形が成立しているなら、「優秀な師匠と愚かな弟子」と「愚かな師匠と優秀な弟子」の組合せでは、後者の方がよい結果が出るのか。

最初からざっと読み直したので適当に引用。

自身の問いに答えを出すのは弟子自身の仕事です

61 自身の問いに答えを出すのは弟子自身の仕事です。
師は、弟子が答えを見出す正にその時に答えを与えます。
64 欲望とは、誰のものであれ、本質的に「第三者」なのである。
67 同じ一つのことを言うためには二人の人間が必要なのだ。それは同じ一つのことを言う人間はつねに他者だからだ。
95 それは独学者が「他者」を知らないからだ。彼の目に前にいるのは、彼と同類等格の「他我」、彼自身の「鏡像」にすぎない。
97 そのつどすでに既知であるものを既知に繰り込むこと、それが西欧の思想における「知」の機能である。独学者とは西欧的な知の別名なのである。
122 主体は他者に遅れて出来する。
129 記号が代理表象にすぎないという当の事実が、記号によって代理表象される以外にこの世界に足場を持たないものが存在することを明らかにする。
139 師は執拗に、おのれの師に引き比べたときのおのれの無知無能を言い立てなければならない。
151 死者たちは<私>を自明なものとして措定することを<私>に許さない
210 私の孤独とは、未知のものを持たないという仕方での孤独である。
222 何にも到達しない志向、決して成就しない運動、決して満たされない欲望、エロス的志向はその「範例」を私たちに示してくれる。
223 そのような「修行」を通じて私たちは無限の無限性を毀損することなく無限に触れる方法を習得していく。

師のあり方(誤魔化し方)。

つまり弟子にいつまでも学びたいと思わせるにはどうするか。師の師、つまり無限の存在を弟子に見せる。師の師(無限)>>>>師>弟子。師に追いついたと弟子が思ったときに、私(師)は師(師の師)と比べたらまだまだと言うわけだ。そうすることで弟子は師もまた師の師を目指して日々進歩していると知る。無限の存在へ向かう同じ道の一歩手前を師が歩いていると弟子に思わせる。無限に触れさせることが出来るのが師であるとして、やはり前回の疑問、師がパチモンでも構わないのかという疑問は解けないのだが。
言ってることは高尚なんだけど、やってることは客と寝ちゃだめと説教してる水商売のママと一緒なわけなのだが。
[「覆いの絵」の話]二人の画家がどちらの絵がリアルか競った。本物そっくりのブドウを描いたゼウキシスがパラシオスに、さあ今度は君の番だ、絵の覆いを取り給えと言った。そこで勝負は終わった。それは壁に描かれた「覆いの絵」だったからだ。

「メッセージを聴く」

230 私たちは「まず」信頼し、「ついで」聴くのである。まず「コミュニケーションを解錠し」、それから「メッセージを聴く」のである。
235 主体は身代わりであり、身代わりであることが、身代わりを身代わりたらしめている当の根拠なのである。
身代わりである「私」は、決して「無限」を十全的に代理表象することができないし、その真意を代弁することもできないし、その遺志を実現することもできない。なぜなら「私」は「無限」の身代わり、「無限」を覆っているみすぼらしい「覆い」にしかすぎないからである。
236 決して現実の世界には存在しないものだけがもっともたしかな仕方で「私」を現実的なものとして基礎づけてくれるのである。
「決して現実の世界に存在してはならないもの」を決して現実の世界に存在せしめないこと、それが「死者を弔う」ということの本義である。
248 死の切迫によって、存在の彼方を望見した人間がなす行為を総じて「善」と呼ぶ
249 レヴィナスにおいて「善」は既存の道徳秩序から演繹されるものではなく、端的に「存在の彼方」という仮想的な視座を想定し、なおおのれを有責なる被造物として回顧し、「私はここにおります」と発語しうるような、純粋なる超出の運動性として観念されている。
265 命令はたしかに到来した。ただし、誰がいつ発した命令であるかを命令であるかを命令を受け取った私は決して知ることができないような仕方で。
だから私はこう問うことができない「この権威は私にとって何なのか?」、「その命令権は何に由来するのか?」
私がほんとうにみずから「主」を追い払い、その罰を「主」から受けることを恐れているとしたら、その有責感は単なる懲罰への恐怖にすぎない。私は善であるのではなく、単に恐怖しているだけである。
266 これはいわば自分自身の髪の毛をつかんで自分を中空に引き上げるような仕事である。中空に浮くためには、自分の髪の毛を上に引き上げているのは「天空からの手」であると信じなければならない。(略)だから、私が中空に引き上げられ、かつ私が進んで倫理的であるためには、「天空からの手」は、かき消えるために提示される「抹消記号付き」のシニフィアンでなければならないのである。
それゆえにこそ、有責性の覚知が生じるためには、私の「二つの審級」が必要になる。「罪を犯した私」と「自責する私」がともに今ここにいなければならなのである。

なぬー、さんざん読んで結局レヴィナスは「劇団ひとり」ってオチかっ。
あのボク変態なんです。ひとりでボクを罰してくれる神様とか想像しちゃって、罪でしばられちゃって感じちゃって、いっちゃうー、って瞬間に、我にかえって今ボクをエクスタシーにしたのはボクなわけで、この自分で自分を縛ったってとこがポイントっていうか、神様に逝かされたとかじゃ善じゃないわけで、無限につながるボクに縛られて凄いエクスタシーっていうボクがボクなわけで、ひとりでキリストと精霊をやっちゃうようなもんかしら。システムは結局三位一体なんです。特別新しくはないんです。変態なだけなんです。
総括「他者と死者」の前半は明日から弟子を騙して一儲けしたい師匠志願の方々には役立ちそうな話だった。欽ちゃんの「聞いちゃだめ」って回答は正しいのだな。後半の「善」の話は弱いような気がします。そんなしんみりした話では今時のヤングはついてきてくれないと思います。難しい本読むより、吉本さんの親鸞本でも読んだ方がよくなくない。

*1:非-私であっても、自我の自己同一性を担保するものであるかぎり「他者」ではない