思想史のなかの臨床心理学・続

昨日から続いてます。

思想史のなかの臨床心理学 (講談社選書メチエ)

思想史のなかの臨床心理学 (講談社選書メチエ)

これまた諸般の都合で引用がごちゃごちゃぐちゃぐちゃになってます。整理しようと思ったのだけど、頭が悪いので無理でした。明日やる気あったら直したい。

  • [ああそうか、今のオレがうまくいかないのはそーゆートラウマがあったせいか。それに気付いて悩みはスッキリ解消した。]

本当に解決するのだろうか。意識することはそんなに意味があるのか。
そもそも無意識はフロイトが見つけたものでもなく、元々西欧では信頼されていたのだ。
というより意識の方が軽く見られていた。なぜなら個別とは一般性がないことであり、普遍的真理には遠いからだ。

  • [お前ごときのチンケな考えがなんだというのだ。お前がひとりで煮詰まっちゃったりするとロクなことはない、悪魔とかにとりつかれちゃうね。さっさと意識なんて捨てて神の力に頼るがいい]

意識が生み出した罪を解消したり、正しい道を教えてくれる無意識の働きを、例えば夢や霊感を待ち望んだのだ。
中世では認識が高度化すると、意識が薄れていく。神の認識になれば、意識などは消し飛んでしまう。
理性が最高の働きを行うのは、無意識の状態だった。
悪魔祓いの「治療」において作用していたのは、神の理性の力なのであった。神のこの高級な理性は、言うまでもなく無意識であった。高い無意識がもうひとつの無意識、つまり低い無意識状態である、悪魔によって支配され、理性を奪われたあわれな肉体に働きかけ、人間らしい理性と意識を取り戻す。

  • [昔の感覚でいうと機械といっても、現在のような無機質なものではなかった]

物質のなかに含まれている「種」が感覚を通して伝わり、理性に出会って認識となるのであった。物質が心を備えていることは、正統派でも錬金術でも、前提なのである。理性とは、無意識のなかから浮かび出てくる霊妙な力なのであった。この考え方がユングに受け継がれ、彼の心理学における無意識の治癒力や自律性の思想となってゆくのである。
ド・ラ・メトリは「人間機械論」で、人間の体は機械仕掛けだと力説。つまり動物と同じなのである。ここで否定されたのは非物質的な霊魂やそれに属する理性なのであった。
ラマルクは生き物全体をひとつのまとまりと考えていた。種は存在しない。生物種はおろか個体さえ存在しない。生き物は全体がひとつであり、そのなかに完全なる姿へと向かう力があり、環境によっていろいろな形が生み出される。
生き物全体が一体となり、ひとつの無意識を共有している。しかも「自己実現」をめざしているのである。無意識の集団性と目的性を説くユングの説を思わせる。
この物質的な無意識の働きが集団的であって、個々人の内面に閉じ込められていない点である。これも、啓蒙主義からロマン主義にかけてだけの特徴ではなく、古代や中世から一貫した流れである。
神の計らいに委ねるならば意識は必要ない。だが人間が主となるなら自分で決めなければならない。主体的判断を行う必要ができた。こころの主役の無意識から意識への交代はこのような事情から始まった。
19世紀半ばまでは意識は公共のものだった。意識は個々人の内側に閉じ込められてはおらず、みなが共有できるものだった。
「心の囲い込み」は現代ではひとつの常識である。心が個人の内面に閉じ込められていて他人には知られず、無意識は「自分のことなのに」よくわからない、そう捉えている。

  • [で、ここから前回の著者の意図に戻るのだが]

人生の薀蓄で相談にのっているだけではない、専門家であるという証を立てるには業界内のいずれかの「学派」に所属し、特徴ある理論的立場を示すしかない。
「治療者の中立」という建前があるが、実際は治療者の読みで引きずるしかないと、認めるべきではないのか。