ポピュラー音楽は誰が作るのか

ポピュラー音楽は誰が作るのか―音楽産業の政治学

ポピュラー音楽は誰が作るのか―音楽産業の政治学

 

なんだか読みにくいなあと思ったら元ビクター社員定年退職大学院60手習い卒論が元になっているのであった。面白いのは著者の経歴が生かされた、レコード会社の独占体制がいかにして崩れたかという部分。そしてレコード会社の人間であった著者は、音楽産業の衰退で音楽制作における仲介者の機能が低下することはよろしくないと考えている。

専属制度

昭和初期にその体制が確立された日本のレコード会社が、音楽生産の機能を独占して行く過程で成立し、それを確固たるものにしたのが、彼らが採用したアーティストの専属制度である。日本のレコード会社の専属制度は、歌手やバンドだけでなく作曲家・作詞家までも含むアーティストに、ある期間そのレコード会社以外では録音を行わないという契約を結ぶものである。これによって歌手だけでなく、専属作家が作った楽曲までが、当該レコード会社の管理のもとに置かれ、他社は許可なく自社の専属歌手に録音させることはできない仕組みができた。
(市場の変化に対応しようとして)
今度はその専属制度が邪魔なものになりだした。それをレコード会社は一気に排することが出来ず、原盤制という洋楽に使われていた方策を便宜的に取り入れてしまったことが、その後の原盤制の拡大を呼ぶことにつながり、日本のレコード産業に特有ともいえる、レコード会社が原盤を保有していないケースが徐々に増加することになった。

体制確立後にレコード会社外で原盤が制作された最初のケース

  • アーティスト・プロダクション系

1961 東芝 渡辺プロ 「スーダラ節」
東芝は英国EMIと提携して新規参入したばかりで邦楽強化が命題だった。若い会社でもあり洋楽では原盤契約が当たり前だったことが、邦楽にも原盤契約制を導入することを可能にした。渡辺プロは「ザ・ヒットパレード」「シャボン玉ホリデー」制作により、音楽制作のノウハウを培っていた。

1966 ポリドール 新興楽譜出版社 「涙くんさよなら」
ジョニー・ティロットソンが来日した際に坂本九の曲を日本語で吹き込むことになったが、ポリドール洋楽部にはそのノウハウがなく、邦楽部とは組織の壁があったため、海外音楽ビジネスに通じていた新興楽譜出版社に話がいった。
1966 ビクター 新興楽譜出版社 「バラが咲いた」
ビクター内のフィリップス・レコード部が邦楽を始めることになり、専属作家制度に頼らずに音源を調達するために、洋楽ビジネス方式で新興楽譜出版に原盤制作を依頼した。

  • 放送局系

1967 パシフィック音楽出版 「帰ってきたヨッパライ」
フォークという形態はラジオで発掘される場合が多く、またアーティスト自身による録音が可能なため、洋楽同様に契約業務だけで原盤を保有できた。
 
90年以降タイアップ曲が増えたことで社外と接触する制作部門の発言力は宣伝部門より強くなった。

これによって従来のようにレコード企画会議が、発売作品選定の「関所」となるような性格もほとんど失われた。作品はすでにレコード会社の外の「関所」を通過してきているからである。このような事情のもとではレコード会社における商品発売の決定は形式的なものとなり、制作本部長に委ねられることになる。それは制作本部長の権限の拡大とみることもできるが、一方ではレコード会社が周辺業種による原盤制作や、代理店主導のタイアップの渦に巻き込まれ、音楽の制作についてもその宣伝についても、自己裁量の余地を失ったということの表われということができる。レコード会社の制作力の低下ともいうべきこのような事態に至りながら、レコード会社内では制作本部長の権限が強くなるということは、皮肉な現象といわざるを得ない。

「演歌」というもののはじまり

そもそも演歌は明治二〇年頃に、薩摩・長州出身の政治家・官僚・軍人による明治新政府専制に反対する自由民権運動の壮士たちによってはじめられた。政府は自由民権運動の演説会を厳しく取り締まり、しばしばそれを中止に追い込んだ。演説会を弾圧された壮士たちは、演芸や歌に民権思想を盛り込んで、活路を求める方向に進みはじめた。演劇に走ったのが書生芝居や壮士芝居と呼ばれるものであり、川上音次郎一座や新派の演劇につながっていった。歌で民権運動を展開しようとするものは、演説の代わりに歌で思想を広めていった。その意味で彼らの歌は演歌と呼ばれたが、書生節、壮士節などとも呼ばれた。(略)ところが明治二二年憲法が制定され、国会が設置されて有産者に選挙権が与えられ、その時点で民権運動はその方向を失った。それ以降は歌う壮士の多くは政治的な目的ではなく、生活を支えるために歌を歌い、歌本を売るようになった。つまり彼らの行為は政治運動から、職業へと変ったのである。そこに彼らを演歌師と呼ぶ所以が生じたといえる。その結果彼らの歌の形は変化し、歌詞も抒情的になり、メロディも美しいものが増えていった。(略)大正時代に入るあたりからは、演歌の内容はますます政治色が薄れ、恋愛や事件を取り上げるようなものが多くなり、今日でいう流行歌的要素が強くなる。

スター誕生で

各レコード会社のディレクターたちが、交渉権のほしい歌手に対して、自社の名前が書かれた札を挙げるというシーンは、そこでのレコード会社の受動的な立場を象徴していた。そこでレコード会社が競っていたのは、実質的には原盤契約交渉権だった。

  • フィリップスと同様にビクター内洋楽部門RCAが1968年に邦楽に乗り出した際の第一号アーティストは和田アキ子だった。
  • アルファレコードは村井邦彦ヤナセから資金援助を受けて作った。