ペルソナ・ノングラータ

ジョージ・ケナン二十世紀を生きて―ある個人と政治の哲学

ジョージ・ケナン二十世紀を生きて―ある個人と政治の哲学

米国に目を向けると、ここにも平等主義が深い影響を及ぼしてきたのがわかる。この傾向の第一の最大の担い手は米国の政治制度そのもので、それは臆面も無く、誇らかに平等主義を掲げている。すべての民主主義政府はこの性格が強いが、米国の政府においては、それは独特の重要性を持っている。というのは、欧州の民主主義政府のほとんどは、行政機構を通じて法律を解釈し、個々の市民への適用にあたりその硬直性を変えることができるのに、米国では法律の解釈は裁判所しかできない。しかもその解釈的判断は、法律自体と同様、集団的な適用しかできず、該当する者全員を左右し、個々の市民について柔軟性を許さない。このシステムは行政の裁量と柔軟性をほとんど排除しているから、法律に無二の、排外的に重要な地位を与えて政治の中心に据えるものである

住民投票による民主主義ということ自体が言葉の矛盾だ。いまその方向に動いているのは、まさに民主的に選挙された個人への信頼を放棄し、顔のない集団に諮問した方がよい知恵が出るだろうという虚しい希望を表したものに過ぎない。そこに込められた意味は、米国の政治制度がよって立つところの、選挙された代表個人の責任という原則自体を捨て、無責任で架空の権力に替えようということだ。それは裏の策謀家と恥知らずのデマゴーグを野放しにすることだ。連中は必ず付け込んでくるだろう。

国が大きいほど、またそこで大きな社会問題を中央から包括的な立法、司法上の規範で解決しようとするほど、個別的な乱雑さと不公正がひどくなり、支配者と被支配者との親密さがなくなることが避けられない。「中絶に対する君の立場はどうか?」と問われれば、私は「だれの中絶か?」と答えるしかない。同じ原則を米国中に散在する何千万人もの女性に当てはめる理由はなかろう。