村木道彦
俵マラチンコに先駆けること四半世紀
1964年に村木道彦はこんな短歌をつくっていた。
失恋の<われ>をしばらく刑に処す
アイスクリーム断ちという刑
するだろう
ぼくをすてたるものがたりマシュマロくちにほおばりながら
マフラーは風になび交うくび長き少女の縊死を誘うほどの赤
ましろにはあらぬ繃帯
ひのくれを小指のかたちのままにころがる
以降徐々に下降し一時は作歌をやめた村木は
俵の登場に刺激を受けて復帰。
永井陽子
血縁といふはひとりもなし
街は樹海のやうにしづかに暮れて
父を見送り母を見送り
この世にはだあれもゐないながき夏至の日
石原吉郎
「戦争の責任」の一端を引き受けた想いでシベリア抑留から引き揚げてくれば、ただ「運のわるい男」と見られているだけであり、故郷に帰れば赤化洗脳を問い詰められる。
石原吉郎らの異常な体験は斟酌されず、感謝されもしなかった。強制収容所では、ふたりでひとつの食器をあてがわれた。仲間と、「確固たる目的」である「食うこと」を「媒介」として対立し、しかし離れられない。
媒介とことしもなげに言ひはなつ
間を奔る*1火のあるを知れ
しかしそれは、「中華民国の唯一の指導者と世界が認めている蒋介石を、対手にしないなどと、陸軍にかつがれて自ら交渉の道を閉ざすような声明なんか出して、近衛はほんとうに馬鹿だよ」と上海・東亜同文書院の院長大内暢三が慨嘆したごとく、日華事変を泥沼に導く自殺的言辞にすぎなかった。(略)
「事変景気」と異常なナチスドイツ熱に浮かれながらも、漠然とした不安が国民のなかに拡散しつつあった頃、「討匪行」に従う渡辺直己は歌った。
壕の中に坐せしめて撃ちし朱占匪は哀願もせず眼をあきしまま
日本は日華事変を法的には「戦争」と認めず、また兵鈷の貧弱さから捕虜を留置・調査する余裕と施設を持たず、ゆえに捕虜はゲリラとして処断されることが多かった。それは日本の戦時における致命的失政であった。