前日からの続き。
『昭和20年11月23日のプレイボール』
日本プロ野球復活の日―昭和20年11月23日のプレイボール (集英社文庫)
- 作者: 鈴木明
- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 1987/04
- メディア: 文庫
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昭和十二年。
いまから思えば、戦争の影は静かに日本の背後に忍びよっていたわけだが、藤本*1はそんなことには気がつかなかった。日本は豊かであり、日本軍は、少なくとも藤本の眼から見れば、日本を支えられるほど強大であった。
日本は、昭和十二年から中国を相手に戦争をはじめていたが、日本の「よき時代」に育った彼の知っている過去の歴史から考えると、それは適当なタイミングを見はからって、日本の勝利のうちに終わるはずであった。
当時の日本の「左翼誌」であった「改造」や「中央公論」を見ても、わずか八年後のあの「昭和二十年」をささやかにでも予見させるような論文はひとつもない。
戦争は「軍」がやるものであり、国民は「軍」を応援さえしていれば、日本は安泰のはずなのであった。
幸い、呉昌征*2はその育った環境から、台湾人なるが故の差別を受けたことは、一度もなかった。強いていえば、台湾籍なるが故に、兵隊にとられなかった、ということぐらいであろうか。
当時の日本軍隊は台湾人を「兵隊」にすら「してやらなかった」という方が正確かも知れない。多くの台湾人は時には「軍夫」といい、時には「奉公隊」という名前の下に、星(正規の階級章)ひとつつけられず、南海の果てに消えた。
この時*3、既に読売新聞社は労働組合によって占拠されていた。紙面も組合のペースによって編集されており、一見しただけでは、内容は「アカハタ」と変わりはなかった。
(中略)
読売本社の前には「戦犯正力松太郎を倒せ」の大きな紙が貼りつけられ、読売新聞の印刷職員が朝日新聞社の方にあわただしく走っていった。自社の印刷機械を戦災で焼いてしまった読売新聞は、「共闘」している朝日新聞の輪転機で、今日も刷られているのであった。
ピッチャーゴロをキャッチャーに投げたり、ファーストにころがしたという伝説を持つ白木義一郎は30年近く公明党参議院議員をやっている。
短い文章からでも人柄の面白さが伝わってくるのだが、こういう人が大作とどう折り合いをつけてるのだろう。
「戦争が終わったときねぇ。たしか千葉にいて補助憲兵なんてヘンなことやらされてたけど、サア、戦争は終わったんだ、ってえことで"すぐ帰ろうや"っていったら、上のヤツが怒りやがってね。テメエラ不忠者なんていいやがってね。冗談じゃない、オマエさんたちゃ好きで憲兵になったんか知らねえが、オレたちゃ一銭五厘で天皇陛下がやれってえから仰せに従ったけど、今度は天皇陛下がやめろってえからやめるんで、何もオマエさんたちにデカイツラされることはないって、上官の机の上にアグラかいてね。いや、ふしぎな時代でしたね」