はじめての強制収容所-ボーア戦争

ボーア戦争

ボーア戦争

 
  • 英国の戦争大義の変化

前)ボーア人の土地が原住民に侵食されている。
 これは南アにおける白人全体の危機である。
 よってイギリスが併合すべきである
後)ボーア人のアフリカ黒人に対する人種差別を正す
「文明の使命」による正義の戦いである

1895年にできたばかりの映画をさっそく活用。
当時のカメラはデカイので、当然戦闘映像はヤラセ。
場所もロンドン郊外「嵐が丘」で撮影。

1899年のハーグ協定を無視してゲリラ壊滅を目指し農家を焼き払う。
難民化した家族の困窮によるボーア人ゲリラの軟化という、
英国の意図に反し、ゲリラの敵愾心を助長したのであった。

始めは捕虜収容・難民キャンプとしての性格が強かったが、
徐々にゲリラ対策(補給断)として、その家族を収容するように。

ホームズの印税をつぎこんで赤字覚悟でパンフ作成。
英国のダムダム弾使用、強制収容所焦土作戦
これらはどれも「赤新聞」の悪意あるデッチあげと主張。

25歳従軍記者チャーチル捕虜となる。脱走後は軍人としても活動、
帰国後従軍記を執筆たちまちベストセラー。
親も名士のマスコミのスターは26歳で初当選、出世街道まっしぐら。

南アでも英領インド同様のインド人の地位を認めてくれと活動。
ボーア人の方がイギリス人より人種差別的であり、
大英帝国の一員として戦争に参加。2年半に及ぶ英国への
軍事的・財政的貢献が報われなかったことで、
帝国への幻滅を感じたガンジーは以後逆ビンビンに非暴力抵抗化。

1902年チェンバレン植民相と軍需産業の癒着発覚。

英国軍の赤い制服が目立って標的になりやすかったので、
以後カーキ色に変更された