コミュニティ グローバル化と社会理論の変容

  • 第1章

ギリシア人にとってのコミュニティ

 ギリシアのポリスが政治をより身近なものにする一方で、支払わねばならなかった代償も大きかったことを指摘しておく必要がある。それは高度の排除であった。何かを包摂することの代償は他者の排除として現れる。このように、ポリスというギリシアコミュニタリアン的理想を、「我々と彼ら」をめぐる強力な規範の上に打ち建てられたものとして、否定的な観点から考えることもできよう。しかし、重要なポイントは、ギリシア人にとってのコミュニティが公的生活の直接性の中に見出されるものであった点である。ポリスは神々のコスモス的秩序とは対照をなしていた。ギリシア人はコスモスを表現するためにポリスを建設しようとしたが、ポリスの理想は常に神の秩序、すなわちコスモポリスという普遍的秩序とは緊張関係にあった。こうした分裂は、ソキエタス(societas)とウニヴェルサリス(universalis)を結びつけたローマ人によって、ある程度克服された。ローマ帝国それ自体がシティズンシップに基づく普遍的な人間のコミュニティであるとされた。しかし、政治的秩序の境界線を越える普遍的コミュニティという理念は、キリスト教思想の到来、とりわけアウグスティヌスの出現にいたるまで、十分に展開されることはなかった。ギリシア人がポリスにコミュニティの領域としての優先権を与えたのに対して、キリスト教思想は、聖性を持ったコミュニティとしての普遍的コミュニティを強調した。中世の政治思想の基礎をなした『神の国』の中で、アウグスティヌスは次のように語っている。「人間の都市」はいかにも不完全なものであり、完全な人間のコミュニテイとして発想されたとしても人類史は決して実現されず、神の「神聖な都市」である普遍的コミュニティとはまったく対照的なものである他はない。普遍的な教会による世界中のキリスト者の連帯という理念は、社会的なものと政治的なものを超える秩序としてのコミュニティを、つまり、より広範な概念としてのコミュニティを含意している。一五三八年のフランス語の辞書に見られるコミュニティの定義によれば、コミュニティという言葉は、「人々の全体性、また抽象的には、何人かの人々に共通の条件。人に適用される場合、それは宗教的な集合性を指す」としている。
 ここから登場してくるのが、普遍的な秩序への参加としてのコミュニティという概念である。このコミュニティ概念は、それが人間の社会秩序に対する遠大な批判を前提としていたために、近代に非常に大きな影響を及ぼしてきた。その結果、コミュニティは社会と緊張関係に入ることになり、コミュニティは社会を、より大きな秩序の名において拒絶することになる。この種の普遍的コミュニティは、キリスト教にとどまらず多くの世界宗教にも見られる。
(略)
 このように、ギリシア思想とキリスト教思想がその頂点において接合することにより、根本的に矛盾する二つのコミュニティ観が姿を現すこととなった。すなわち、一方にはローカルであるがゆえに個別的なコミュニティという観点が、他方には、究極的な普遍性を持ったコミュニティという観点が登場してきたのである。この矛盾は決して解決されることなく、今日まで持ち越されている。

モダニティとコミュニティの喪失

中世のギルドや諸団体の解体、資本主義の出現に伴う農業の商業化、近代中央集権国家の興隆後の都市の自律性の衰退は、コミュニティが持つ輝かしさを脱魔術化した。
(略)
ルネサンスの古典主義とは違って、啓蒙思想は全体としてモダニティの肯定的側面に目を向けたが、この運動のもっとも代表的な思想家ですら、現在を過去の喪失と考える傾向があった。
 たとえばルソーは、モダニティを個人の疎外と政治的自律性の喪失ととらえた。古典的な共和制都市国家の賞賛者であったルソーは、コミュニティを実現するモダニティの能力について、かなり懐疑的であった。とくに彼は、国家を人間の自由と政治的能力を破壊するものと考えた。彼の「一般意志」という概念は、ある意味でコミュニティの理想を示している。(略)彼の政治哲学においては、自由に対する人間の欲求はコミュニティの中でのみ表現可能なものであった。こうした政治哲学の伝統の中には、喪失という感覚が明らかに見てとれる。コミュニティの基礎には政治があるが、それはモダニティによって侵食されてしまい、社会的諸制度によって汚されていない純粋な政治を完全に回復することは不可能である。ルソーのコミュニティ観は、人間の本性は基本的に善であり、国家などの社会的諸制度や諸構造とは緊張関係にあるとする彼の考え方に基づいていた。これは一種の有機的コミュニティ観であり、モダニティに対する批判でもあった。ルソーの思想の中には、モダニティが一般意志に基づいてコミュニティを再生できると彼が信じていたことを示唆する要素は、あまり見出せない。この点でへーゲルの見解は異なっていた。
(略)
ヘーゲルによれば、「人倫」はモダニティによって不断に破壊されているのであり、したがって、もっと高いレベルで救出されねばならないものである。こうして、国家が「人倫」の最高の体現者となる。というのも社会は、各種の抗争を抱えているために、それだけでは自らを支えられないからである。こうした国家観は、カール・ポパーの有名なへーゲル攻撃に見られるように、全体主義であるとの非難や、あるいは、へーゲルはプロイセン国家の政治的正統性を主張しているという批判を招くことになった。
(略)
ヘーゲルの政治哲学において政治の役割とは、国家を社会的なものの中に据えることにある。しかし、社会的なものはそれ自体では不完全であるがゆえに、より濃密なコミュニティだけが政治的なものの生存を保証することができる。このようにヘーゲルは、ロマン的でラディカルなルソーとは違って、コミュニティをもっぱら喪失という視点から見ることはなかった。しかし、歴史をより古い思想の中に含まれていたものを実現するための闘争と考えたへーゲルの思想の中に、喪失というテーマが存在することは否定できない。モダニティ自体も決してこの条件を逃れることはできず、それをへーゲルは、決して自らを十分に実現できない「不幸な意識」と形容した。
(略)
ヘーゲルにおいても、人間というアクターには深遠な歴史的プロセスに対する洞察が欠けているために、フランス革命は失敗であったと解釈されている。ヘーゲルによれば、理性のみが深遠な歴史プロセスによって自らを意識するのである。したがってヘーゲルにおいては、コミュニティは結局、それが必然的に不完全であるがゆえに不可能である。というのも、新たな時代の歴史的意味について完璧な解釈を保持しているという点で、唯一哲学者だけが真の知識にアクセス可能だからである。

三つコミュニティ概念

一九世紀に登場した規範的な理想としての主な三つコミュニティ概念

 1 回復不能なものとしてのコミュニティという言説
これはロマン的な言説であるが、保守的傾向の強いモダニティ批判である。その主な表現の一つがノスタルジアである。全体として、これは反モダニズムイデオロギーである。
 2 回復可能なものとしてのコミュニティという言説
(略)近代保守主義の主要な言説である。保守的な思想は、伝統の回復および国家と社会の有機的統一を支持してきた。(略)これはコミュニティとモダニティの諸条件を和解させる一つの試みと解釈できよう。こうした傾向のいま一つの事例としてナショナリズムがある。
(略)
共和主義はこれとは異なる形で、過去から回復できるものとしてのコミュニティという概念を支持した。(略)
トクヴィルにとって、アメリカは真の政治共同体を代表するものであり、ヨーロッパ文明を救済するものであった。トクヴィルのこうした解釈において、アメリカは国家が市民共同体の外側に存在しない社会である。
 3 今後達成されるものとしてのコミュニティという言説
(略)これから達成されるべき理想としての共産主義社会主義無政府主義の言説の中に表現されているものであり、明らかにユートピア的理想としてのコミュニティである。

「トータル・コミュニティ」

 二〇世紀においてコミュニティが味わった経験は極端なものであった。啓蒙思想から継承したユートピア的コミュニティ観は反ユートピアヘと逆転し、さらにはモダニティそのものを超克しようとする新種のユートピアヘと席を譲った。『コミュニティの探求(邦題)』を書いたロバート・ニスベットはその中で、ファシズムや極端なナショナリズムなど全体主義イデオロギーの出現を表すために、「トータル・コミュニティ」という言葉を用いている。(略)国家と社会が融合しているコミュニティ(略)全体主義国家は国家による社会の全面的な同一化を達成し、事実上社会的なものを排除してしまった。
 ジョージ・モッセによれば、一九世紀最後の数十年間に急進的な右翼がコミュニティの理念を奪取した。それまでコミュニティは、現状に対して破壊的な急進的左翼の理想であり、より平等で民主的な社会のヴィジョンを提供するものであった。しかし、啓蒙思想の衰退と愛国的で全体主義的なナショナリズムの興隆に伴って、コミュニティの探求は次第に右翼的な政治潮流の一部と化していった。一八九五年に出版されたギュスターヴ・ル・ボンの『群衆心理』は、この本を読んだヒトラームッソリーニらを含む急進的な右翼に影響を与えた。大衆政治の時代において、コミュニティの理念は、排外意識や汚れのない男性的な原初性を強調する要素のゆえに、ナショナルな共同体に向けて動員する訴えかけとなりえた。二〇世紀の最初の数十年間は新右翼運動にとってその創生期であったが、そこでは群衆、民族、原初的コミュニティはほとんど同義語になった。固い絆で結ばれた男たちの共同体や、友愛、若者の活力を強調するドイツの青年運動は「ブント」として知られているが、このブントは、こうしたコミュニティに対する精神的憧れを表明した。コミュニティをめぐる革命的理念と同様、これもまた現状に対して破壊的であり、ドイツで比較的進展していた女性解放運動の興隆に対しても破壊的であった。こうした結びつきは、歴史の再神話化とともに、始原的なコミュニティを基礎にした反動的な政治哲学を生み出した。ファシズムはこの種の象徴的で神聖なコミュニティの究極の表現であり、エリート、人種主義、政治の美学化に立脚する権威主義的な政治に正当性を与えた。

 過去二〇年以上にわたるポストモダン思想の主要テーマの一つは、自己のアイデンティティをめぐる論点である。
(略)
 モダニズムの思想が自己の統一性と一貫性を強調するのに対して、ポストモダニズムは多様性と、とりわけ差異を強調する。(略)
モダニティが均一性と等価性を見出したのと同じ場所に、ポストモダン的転回は断片化された自己という複数性を見出す。フーコーラカンデリダドゥルーズガタリらの研究では、自己は構築されたカテゴリーであることが暴露され、一部の定式化においては精神分裂的であるとみなされた。(略)
たとえばフーコーにとって自己は、「規律的」な性格を持つ権力の言説の中から生み出される。
(略)
かつての脱構築運動は(略)自己の中心性と帰属に対するあらゆる希求からの離脱を目標にした。アイデンティティに対するあらゆる要求は、誤った全体性への探求であるとか、始源的なものに対する欲求であるとか、歴史を意味のある物語や構築的な主体を基礎にしてしまう幻想であるなどとして、放棄された。
(略)
 しかしながら、近年、これらのポスト構造主義者でさえもが自己に回帰しつつあり、人間主体の回復に新たな可能性を見出している。主体の死は自己の死を意味するものではなかったのである。たとえばフーコーは、その最後の著作の中で新たな倫理の可能性に関心を寄せるようになり、デリダの最近の著作は、政治や友愛、社会的なものの回復に対する関心を明らかにしている。
(略)
今日、アイデンティティが一つの争点となっているのも、自己の準拠点が不安定になっているためである。つまり、自律の能力はもはや、階級、ジェンダー、民族、エスニシティなどといった堅固な構造によって繋ぎ止められてはいないのである。自己はさまざまな方法で発明することができる。自己についての現代的な解釈は、統一性と一貫性よりも、差異との関係で形成される社会的自己だというものである。

まとめ

コミュニティは境界線の保持という形よりも、帰属に対する積極的な探求の形で表現される傾向が強くなっている。その上、今日では高度に個人化されたコミュニティの形態が存在しており、その点でかつての伝統的コミュニティとは比較できない。コミュニティは個人主義の対立物ではない。(略)
今日のコミュニティはモダニティの産物であって、前近代の伝統的世界の産物ではない。それは、個人主義、復元力、一定の柔軟性を前提としている。このことにより、コミュニティ形成の際の自己と他者の境界線はさほど重要でなくなる。
(略)
コミュニティを区別するのは象徴的な意味の力ではなく、想像力であり、自己が自らを再生する能力である。
(略)
近代的な生活の象徴的形態はもはや、人々がどのように行動すべきかを明らかにできない。(略)
[意味は象徴的形態に代わり、広範な社会的行為主体によって構築される]
言葉を換えると、コミュニティは今や意味のない世界という形で存在しているのである。それは意味に溢れた世界ではなく、社会的諸集団が提起するアイデンティティ・プロジェクトの世界なのである。コミュニティが復活を遂げつつあるのは、この本質的に対話的な世界においてである。(略)
 今日見られるコミュニティの復活は、文化的闘争や帰属をめぐる紛争へと向かう全体的な傾向の一環である。
(略)
コミュニティは人々に対し、社会によっても国家によっても提供され得ないものを、すなわち、不安定な世界における帰属感覚を提供する。しかし、コミュニティはまた、究極の目的が不可能であることを明らかにすることで、これを破壊もする。こうした新たなコミュニティは、それ自体すでに、より大規模な社会と同様、断片化・多元化しすぎていて、永続的な帰属の形態を提供することはできない。コミュナルな精神は意味を欠いている場合が非常に多く、常に個別的なものとして創り出さなければならない。そのためコミュニティは、[皮肉なことに]それに対する欲望を生み出している個人主義そのものによって滅ぼされる結果となる。したがってコミュニティは、古典的な社会学が信じたような、社会統合の基礎ではありえない。

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