ジャズ楽屋噺 小川隆夫

ジャズ楽屋噺―愛しきジャズマンたち

ジャズ楽屋噺―愛しきジャズマンたち

マイルスとウイントン

[ブランフォード・マルサリスがマイルスのレコーディングに参加することになり、ウイントンと著者もついていったけど、警備員が門前払い。戻ってきた兄がマイルスが云々と自慢したものだから、むくれる弟。スケジュールの都合でツアーにもバンドにも参加しなかったが、もししていたら、兄弟]
ふたりの仲はどうなっていただろう?
 それはそうと、ウイントンとマイルスの仲は微妙だった。
(略)
伝統的な演奏にこだわるウイントンに対し、マイルスの激しい響きを有するフュージョンサウンドは、そんな彼にあてつけているかのようにも思われた。
 復帰後リリースされた何枚かの作品について、ウイントンは次のようなことを繰り返し話している。
 「マイルスには失望した。いまこそ彼はアコースティック・ジャズを演奏するべきなのに。ストレート・アヘッドなプレイでマイルスを超えられるひとはいない。彼のフュージョンなんて聴きたくもないよ。だって時代遅れじゃないか。マイルスの音楽は六年間ストップしたままだ。六年前にこの音楽を聴いたら、そりゃあ斬新に感じただろう。でも、いまのサウンドからは新しいものがまったく聴こえてこない」
(略)
 ウイントンこそ時代錯誤もはなはだしい。そう思っていたマイルスにしてみれば、大きなお世話だったに違いない。過去のことにまったく興味がなかったマイルスである。彼から見れば、自分の息子より若いウイントンがどうしてあんなに古臭いスタイルで演奏しているのか、そちらのほうが納得できなかった。
マイルスはウイントンに対し、はたから見ればきついと思われる態度を取っていた。挨拶に来た彼に、楽屋でそっけなく接していた姿を何度か見たことがある。それでも、マイルスはウイントンのことを可愛く感じていた。
 あるフェスティヴァルでは、ウイントンの次にマイルスが出ることになっていた。そんなときは、楽屋のモニターで彼のステージを見守っていたのである。興味のないそぶりをするのは、いつもの照れ隠しだったようだ。
 ウイントンも、マイルスの真意は理解していた。だからこそ、つっけんどんにあしらわれても、懲リずに何度も楽屋を訪ねたのである。
 言葉には表さない交流。そこに魂のつながりが感じられた。

カーティス・フラーコルトレーン

 コルトレーンは麻薬の常習が理由でマイルス・デイヴィスのグループをクビになっている。一九五六年末に楽屋でそのことから喧嘩になり、マイルスがコルトレーンを殴ってクビにしたというが、真相はよくわからない。その場に居合わせたセロニアス・モンクがふたりの間をとりなしたため、大事には至らなかった。そして、モンクはその場でコルトレーンを自分のグループに誘う。
 それで仕事はつながったが、マイルスのバンドとモンクのバンドとではギャラにかなりの開きがあった。マイルスのほうが給料は高い。そのため、コルトレーンは麻薬代にこと欠くようになった。困った彼は、親友のカーティス・フラーに相談する。
 この時期、フラーはブルーノートからリーダー作を出し、サイドマンとしてもこのレーベルで数多くのレコーディングに参加していた。(略)[面倒見のいいライオン]のところに行くよう勧めたのである。ライオンがコルトレーンのアルバムを作リたがっていたことをフラーが思い出したからだ。
 レコーディングをしたいといえば前借りができる。フラーはコルトレーンにそう耳打ちをした。コルトレーンには、ブルーノートのライヴァル会社であるプレスティッジからレコーディングの話が来ていた。(略)
[さすがに麻薬代がほしいから]とは切り出せない。そこでソプラノ・サックスの練習も始めていた彼は、その楽器の名手であるシドニー・ベシェのアルバムをもらうという口実でオフィスを訪ねる。
 そうしてライオンと四方山話をしているうちに、レコーディングの話がうまいこと彼の口から出てきた。「しめた!」とコルトレーンは思ったことだろう。しかし、この日は契約を担当している副社長のフランシス・ウルフが不在だった。そこで、ライオンはポケット・マネーから二〇ドルを前渡し金として支払う。(略)
律儀な彼は前金のことを忘れていなかった。プレスティッジと契約を交わす際に、ブルーノートでもアルバムが作れる条件を加えたのだ。
(略)
[録音前日、ばったりフラーに会い]翌日のことを話す。すると、見る見るうちにフラーが不機嫌になっていくではないか。[自分も入れろとフラー、クインテットセクステットに]
(略)
しかし、フラーの参加も傑作誕生の弾みになったことは間違いない。
 ぼくはこのアルバム[『ブルー・トレイン』]を聴くたびに、五七年のある日、マンハッタンのどこかでフラーとコルトレーンが、どんな顔でどんな服を着て麻薬代のことやレコーディングの話をしていたのだろう?と想像をたくましくする。

クリスチャン・マクブライド

[著者もJB好き]
 クリスチャンはただのJBファンではない。
マニアぶりは筋金入りだ。アメリカ人には珍しく、オリジナル盤志向のコレクターでもある。
(略)
 [26歳だから]コレクター歴といってもたかだか一〇年くらいのものだろう。と甘く見ていたクリスチャンが、ぼくと同じように緻密なコレクションをしていることに驚かされた。おまけに、レコード番号やジャケットの特徴、さらにはレーベルに印刷された文字の差にまで触れて、オリジナル盤と再発盤の違いをとうとうと語り出したときはびっくり仰天した。
 こんなアメリカ人はあまり知らない。プロデューサーのマイケル・カスクーナやボブ・ベルデンもコレクターではある。でも、オリジナル盤の鑑定についてはいまいち怪しい。

クリフォード・ブラウン

ライヴァルだったマイルス・デイヴィスですら、ブラウンのことを褒め称えていたから、本当に彼は多くのひとに愛されていたのだろう。
 「ブラウニーはオレよリ少し若かった。でも、大人だったな。あいつがノーといったところを見たことがない。オレだったら絶対に断るような面倒な頼まれごとを背負い込んでも、いやな顔ひとつ見せない。あるとき、ニュージャージーの奥のほうで一緒に仕事をした。そのときも、やつの家はニュージャージーなのに、オレが住んでいたニューヨークのアパートまでわざわざ車で送ってくれた。だから、あいつにだけはプレイの上で負けても悔しくなかった。実際、オレ以上の腕前だったしな」
 マイルスがこのように直接的ないい方でひとを褒めることはめったにない。それだけ、ブラウンのことが好きだったのだろう。

ジョー・ザビヌル

[ウェザー・リポート解散直後、単身来日、シンセサイザーでソロ・コンサート]
リハーサルを覗きに行ったぼくに、彼が親切に声をかけてくれた。(略)
めったにやらないソロ・パフォーマンスということで、機材の配置から調整まで、ひとりで忙しく立ち居振る舞っていた。それでも合間にいろいろな質問に笞えてくれた。なんて丁寧なひとなんだろう。それが初めて会ったときの印象だ。
(略)
 ロスの自宅までお邪魔して取材をさせてもらったこともある。そのときは、成田空港で買った真空パックの博多ラーメンをお土産に持っていった。彼のラーメン好きは業界で有名だ。ラーメンさえ出しておけばなんでもいうことを聞いてくれる。しかも即席ラーメンだって大喜びなのだから、なんていいひとなんだろう。
(略)
冷蔵庫の中に入っていた野菜や肉を炒めて特製豪華即席ラーメンを作って差しあげた。これはうまいといって頬ばるザヴィヌル大先生。取材はあとにして、このラーメンの作り方を教えてくれといい出す始末だ。(略)
その後に彼の家を訪ねたら、そのときよりもっとおいしいラーメンを作ってくれたのにはびっくりした。
(略)
[食後に卓球。著者も中1まで本気でやっていたが]
とてもじゃないがかなわない。ザヴィヌルはかなりの腕前だった。
(略)
[自宅スタジオで聴かせてもらった未発表ライヴ・テープ]
その素晴らしい内容は圧倒的で、どうしてこんなテープが眠ったままになっているのか、疑問をぶつけてみた。
「ウエインがOKしないんだ」
(略)
ザヴィヌルの顔からは、さっきまでの笑顔が消えていた。しかし、ふたりの確執はこの後に氷解している。
(略)
[ボックス・セットに未発表演奏が入ったし]死の直前にはライヴでの共演も果たしていた。
(略)
子供時代は、母親が闇市でラードを買って自分を育ててくれたといったときの幸せそうな顔。その思いが、傑作アルバム『ブラック・マーケット』に詰め込まれている。

ハービー・ハンコック

 「君はマイルスのファンだろ。せっかくだからわたしの話をしてあげようか」
「わたしはマイルスのバンドに五年と少し在籍したが、毎回クビになるんじゃないかと思いながら演奏していた」
 ハンコックがマイルスのクインテットに抜擢されたのは一九六三年五月である。
(略)
「一年ほど前にドナルド・バードがわたしをマイルスの家に連れていってくれた。そのときに弾いたピアノが、マイルスの心にずっと残っていたんだろう。それもあって、ロンとトニーを得ていた彼は、このリズム・セクションに一番フィットするのがわたしと考えてくれたようだ。そこでわたしたち三人を家に呼び、リハーサルをすることになった」
 ところが、マイルスはなんの注文も出さない。
(略)
[数日の練習後、明日スタジオに来いと言われ]
わたしが、“それはあなたのグループのメンバーになるってことですか?”って聞くと、マイルスに“レコーディングするのかしないのか”ってムッとされた」
 ハンコックは、どうしていいのかわからない。そこで前任者のウイントン・ケリーやビル・エヴァンスのプレイを見習い、同じように演奏していたという。それを二〜三ヵ月続けていたら、どうにもフラストレーションが溜まってきた。
 「出身地のシカゴで演奏したときに、溜まりに溜まったものが爆発して、やりたいように弾いてしまった。これでクビだなと思いながら楽屋に戻ると、マイルスは“どうしていままでそういう風に演奏しなかったんだ”といってくれた。彼は、誰のコピーでもない、わたしにしかできないプレイが聴きたかったのさ」
(略)
[進化するマイルス]に追いついていけなければ、即刻クビになる。その恐怖心が常につきまとっていたから、緊張感のある演奏が維持できたと振り返る。名盤と呼ばれる『マイ・ファニー・ヴァレンタイン』をライヴ・レコーディングしたときも、ハンコックは大きなミスをしたそうだ。
 「タイトル曲のイントロを、うっかりして、打ち合わせとはまったく違うスタイルで弾いてしまった。録音テープは回っているし、途中でやめるわけにいかない。それでこのときもクビを覚悟して、コンサートが終わるまで、あとはいつも以上に緊張して演奏した」
 ところがこのときもマイルスは褒めてくれた。
(略)
常に自分であれ。そういう感じで、わたしたちにはやりたいようにやらせてくれた。責任は自分が取るから、といった態度でね。その姿勢をわたしも見習っている」

行方均

[プレスティッジ、インパルス、ベツレヘムなどを抱えてるから東芝EMIに入社したのに]
入社したらすべてが他社に移っていてがっかりしたという。それで、キャピトルのフランク・シナトラとかビーチ・ボーイズとかのディレクターをやっていたらしい。
 それはそれで面白かったが、ブルーノートの権利が移ってくると決まり、真っ先に志願して担当者になったという。
(略)
その時代、創立者でプロデューサーだったアルフレッド・ライオンに注目しているひとはほとんどいない。ところが、行方さんは「ブルーノートはライオンの夢を体現したレーベル」と看破していた。まさにわが意を得たりである。
 いまでこそ「ブルーノートは熱心なジャズ・ファンだったライオンの、ジャズやミュージシャンに寄せる愛情の結晶」みたいにいわれている。ところが当時は「世界一のジャズ・レーベル」とは呼ばれても、それは優れたアルバムが数多くカタログに並んでいる事実によってのみの評価だった。
 「ブルーノートのアルバムを出すっていうことは、ライオンのジャズに寄せる思いを伝えるっていうことだ。そうなると、売れる作品だけ選んで出すのではライオンの精神に反する。ぼくは彼がやったとおりのことがしたい」
 行方さんが考えたのは、ブルーノートの1500番台を1501番から順に出すことだった。しかもオリジナルと同じレコード番号で国内盤を発売したのである。

ビル・ラズウェル

[雑誌の企画の目隠し]「テスト」が終わり雑談していたときである。ラズウェルが袋からカセット・テープを取り出し、今度はお前がミュージシャンの名前を当ててみろという。こんな「逆テスト」は初めてだ。しかもラズウェルらしく、彼がかけたテープにはとんでもない演奏が収録されていた。
 ジミ・ヘンドリックスジャック・ブルース、そしてトニー・ウィリアムスのトリオである。ぼくはジャック・ブルースだけ当てることができなかった。このテープはその昔、同じアパートの住人だったウィリアムスからもらったものだという。
 こんなテープが残されていたのかとびっくりしているこちらの顔を見て、ラズウェルはにやりと笑い別のテープを出してきた。これまたウィリアムスのドラミングに間違いないが、ヴォーカルが入ったパンク系のロックが収録されている。これはお手あげた。
 「ラモーンズとトニーのセッション・テープだよ。ラモーンズも同じアパートにいたんだ」
 それを聞いて、ぼくは思わずこう呟いてしまった。
 「ビル、あんたいったいどんなアパートに住んでいたのよ」

ホレス・シルヴァー

[《ファンキー・ピアノの創始者》にファンキー・ジャズについて尋ねると]
 「ファンキーはフォームや埋論じゃない。ブルージーでダウン・トゥ・アースなフィーリングのことをいうのさ。考えたり、やろうと思ったりして出てくるものとは違う。生活の中から自然と生まれてきたのがファンキーだ。曲だって、歩いているときに浮かんだメロディや、なにかを弾いているうちに出てきたフレーズが発展して出来あがったものが多い」(略)
 「曲を書くときはたいてい歌詞も一緒に考えている。だからメロディじゃなくて歌を書いているんだね。その歌詞は個人的な内容だから原則として発表はしない」
(略)
 「自分の気持ちにしたがって書くことが重要だ。いいメロディを書こうなんて妙な色気を出してはいけない。こうして海岸を歩いていると、なにかを感じるときがある。それを素直に歌として表現する。わたしが曲を書くっていうのはそういうことだ。ピアノに向かって、さあ書くぞということはめったにしない」
(略)
[14年後の1999年に同じ質問をすると]
 「わたしは一度も自分の音楽をファンキーにしたいと思ったことがない。やりたい音楽を演奏した結果、周リのひとがそれに《ファンキー・ジャズ》のレッテルを貼ったんだね。そう呼ばれることに抵抗は感じないけれど、嬉しいとも思わない。わたしがやるべきことは、ファンキー・ジャズではなく、自分の気持ちに正直な音楽を演奏することだ。そうやって五〇年ほどやってきた」

マーク・ヴァン・ローン

(略)そもそもウェザー・リポート・フリークなんだから」(略)
「日本は凄い。なんでもCDになっている。昨日もタワーレコードセックス・ピストルズウェザー・リポートを買ってきた」(略)
[『プロセッション』をようやく入手しコンプリート達成したという。『ライヴ・イン・トーキョー』の話を出すと、オリジナルLPをもっていると自慢してきた。父親が音楽プロモーターをやっていたので]
過去のアルバムもまとめて送ってくれた。その中に、日本プレスのそのレコードも入っていたのさ」
(略)
 「この作品は、ウェザー・リポートがライヴの場で、スタジオ録音以上に自由に演奏していることを示したものだ。ファンクを演奏するようになってからとは別の意味で、初期の彼らはビートやグルーヴに独自なものを追求していた。ラテン・パーカッションをラテン楽器として使わなかった最初のグループなんじゃないかな?
(略)
君はこのライヴを観たときにどう思った?」[と逆に質問され](略)
 そのとき、ぼくは二二歳。ジャズが新しい局面を迎えたことを、ウェザー・リポートのライヴを観て実感し、思いをマイルス・デイヴィスの音楽に馳せていた。そんなことを話してその場をしのごうとしたのだが、それがまたマークの興味を引きつけてしまった。
 そのころの音楽シーンの話をしてほしいという。ジャズよリロックが好きな時代だった。武道館にレッド・ツェッペリンやディープ・パープルが来襲し、後楽園では土砂降りの中でグランド・ファンク・レイルロードを聴いた。
(略)
 こうした話がマークの心を掴んだのだろう。その後も彼のインタヴューは何度もしているが、そのたびにロックの話を聞きたがる。今度会うときはフェイセズが来日したときのことを教えてほしいといわれている

ルー・ドナルドソン

「なんで急に人気が出てきたんだろう?」
 久しぶりに顔を合わせたルー・ドナルドソンは、開口一番こう疑問を投げかけてきた。降って湧いたようなファンキー・ブームによって、日本はもとより世界中で彼の人気が爆発した。(略)
 「四〇年間同じスタイルでやってきたのに、なんだか知らないけれど妙な気分だ。スタンダードを吹いたってワーッてウケてしまうんだから、こっちのほうがビックリする」(略)
四〜五年前なら(一九九〇年代初頭のころ)、来日したって小さなホールをいっぱいにすることも難しかった。
(略)
 「あんなにウケると、スターになった気分だね。そういや三〇年くらい前にも、一時大ウケにウケたことがあったっけ。でもあのときだっていまほどじゃない」
 どうせこんな人気は砂漠のオアシスみたいにやがて幻と消えるだろう――本人はいたってクールだ。
(略)
「これまでだって好きにやってきたんたから、これからも好きにやらせてもらう。ブームっていうのはいつか下火になるもんだ。そんな怪しげなものには影響されない。いいときもあれは悪いときもある。それらすべてをひっくるめて自分の人生だって、この歳になってようやくわかった。だからウケるもよし、全然ウケないのもまたよしだ」

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