英国レコーディング・スタジオのすべて

英国スタジオのレイアウトと機材情報がメイン。録音秘話などもあり。

英国レコーディング・スタジオのすべて 黄金期ブリティッシュ・ロックサウンド創造の現場

英国レコーディング・スタジオのすべて 黄金期ブリティッシュ・ロックサウンド創造の現場

“ファンキーなアメリカン・サウンド

ボブ・バターワースによれば、当時の顧客たちから“アメリカン・ドラムサウンド”が欲しいとしょっちゅう請われたが、どうしてもできなかったという。その理由は「単純でね、セッションに来るドラマーがみんなイギリス人だったからだよ。大半がジャズをかじっていた。多くは軍隊で腕を磨いていたから、きっちり合わせないといけないという感覚が染みついていた」。それがある日、アメリカ人ドラマー、アンディ・ニューマークが現れ(略)[その場のセットで]叩き始めた瞬間だった。「そいつはそこにあったんだ」(略)「アメリカン・ドラムサウンドが目の前に現れたんだよ!(略)部屋も、マイクも、配置も、EQも、何もかもが同じだった。そのセッションで確信したね、サウンドはコントロールルームじゃない、ミュージシャンが生むんだと」
(略)
[ゴードン・トンプソンは英レコード業界は米国産の方が上だと見ていたとし]
 時間と財力にある程度余裕のある英ミュージシャンたちはもちろん、あらゆる機会を利用して現地アメリカで録音した。1964年6月、ローリング・ストーンズは米ツアーを中断し、シカゴの高名なチェス・スタジオで2日間セッションを行ない(略)
[チャーリー・ワッツ談]「強力なリズム&ブルースをシカゴで録ったんだけど、エンジニアがみんなああいう音楽に[英国勢とは]比べものにならないほど慣れていて、それがいちばん良かった。どこの誰にも、あの手の音楽をシカゴの人たちほどうまくは録れなかったと思う」(略)
 「おれたちがものにしようとしていたサウンドを録れるやつも、録ったやつも[イングランドには]ひとりもいなかった]とキース・リチャーズも語っている。「みんな、ああいう粗さに慣れてなかったんだ(略)。最高にファンキーなアメリカン・サウンドは誰にも出せなかったし、おれたちはそれを求めていた。だから最善策は、できるだけ早くアメリカに行って向こうで録る、それしかなかったんだ」(略)
ザ・ビートルズでさえも、米国でのレコード作りを真剣に考えたことがあった。

<スタックスマン>

[66年]エプスタインはスタックス・スタジオでの録音の可能性を探るべく、メンフィスへ飛んだ(略)
[スタックス幹部との面会は極秘だったが、すぐに話しは漏れ]ソングライターたちはビートルズが吹き込んでくれるかもしれない曲作りに励んだ。(略)メンフィス側は4月にスタジオを一週間押さえていた。(略)
[だがエプスタインは安全面を考慮し却下、第二案はスタックスの面々を従えたNY]アトランティック・スタジオでの録音だった。だが、これも実現しなかった。(略)
[仮に実現していれば]クロッパーが言うように、「<タックスマン>は<スタックスマン>になっていたかもしれない」

自作卓による独自サウンド

[録音技術の開発に予算を割いた米スタジオとは]対照的に、戦後長らく経済を立て直せなかった英政府は貿易・外貨規制をかけ、これにより外国産(とりわけ米国産)機材の輸入が阻害された。結果、60年代半ば、ニーヴやヘリオス、トライデントやキャダックといったメーカーのプロ仕様コンソールが登場するまで、英スタジオはほぼどこでも、技術部門の社員が自作したミキシング卓を使っていた。(略)
[ヒュー・パジャム談]多くの英スタジオが持っていた卓は自社の社員にしか扱えないものだった。「わたしが業界に入った頃は、ほかのスタジオに入るのをみんな不安に思っていた。そこのコンソールをちゃんと使えるのかどうか、わからなかったからだよ」(略)
[ロジャー・キャメロン談]
「昔はどこで録ったものなのか、レコードを聴けばたいていわかった。当時のイングランドのスタジオはみんな、それくらい違う独自のサウンドを出していたからね」

トニー・ヴィスコンティ:選択肢が少ないのはいいことだ

トニー・ヴィスコンティは『Behind the Glass』で述べている。「8トラックが登場する頃には、アメリカ勢はエフェクト類をかけずにそのままテープに写し、すべてはミキシングまで後回しにするという慣行を迷信的に続けていた。一方、英国式は正反対だった――いい音響効果が出たら、それをその場でテープに収めたんだよ(略)。ヒュー・パジャムが考案したゲートをかけたフィル・コリンズのあれ[「夜の囁き」のドラムサウンド]もテープに写してあった。あとでミックスしたものじゃない。(略)あれは英国でしか生まれえない発明だった。(略)ヒュー・パジャムの先見の明があってこそ録れた生の音だ。『こいつは[テープに]写しておいたほうがいい』。それこそが英国的思考なんだ」(略)
[ヴィスコンティはその利点を]「デヴィッド・ボウイとしょっちゅう話したものだった、ミキシングの際に[手持ちの]選択肢が少ないのはいいことだと。(略)
そいつ[ハーモナイザーで音程を下げたスネア]は必ずそこにある。で、そいつがあるおかげで、方向性は常に変わらない――そのサウンドからずれることがない。だから最後までそのサウンドを目指してアルバムを作っていくことになる。
(略)
[T・レックスでは]大量のスラップバックをテープに写すとかね――あれはT・レックス独特のものだろ。それをギタートラックに入れることもあったしそうなるともう取り除けない。で、そいつは常にそこにあるから、あとでやるオーバーダブの方向性も自ずと決まる。(略)
[そのおかげで1日にミックスを3曲もやれた]
(略)
[英スタジオには既存のルールを破ろうとする姿勢があった]
ザ・ビートルズ・アンソロジー』の中で、ジョージ・マーティン自身も語っている。「[ビートルズは]急進的なことを求めてくるのが常だった(略)ミキシングの際に高いEQを突っ込んだり、管のサウンドを『きらびやか』にして、低音を全部カットしたがったり。エンジニアたちがEQをこんなにかけていいものなのかと、首を傾げることも少なくなかった。わたしらは[卓の]EQを余すところなく使ったもので(略)それでも足りないときは、さらに別のEQをやはり余すところなく使い、何重にもして、これ以上ないほど奇妙なサウンドを手に入れた。そういう音がビートルズはお気に入りで、それが見事にはまってくれた(略)。ジェフ・エメリックビートルズのためにそんなことをしょっちゅうしては、上の人間にばれるのではないかとびくびくしていた。当時、エンジニアがマイクを使って遊んだりすることは許されなかったからだよ。それでも、彼は少々規則違反の、何とも珍妙なことをいつもしてくれた。いいからやってくれというわたしたちの言葉に背中を押されてね」
 同様の実験精神はビートルズの初代レコーディングエンジニア、ノーマン・スミスの中にもあった。(略)
「わたしはマイクを目の前には置かなかった。その代わり、正しいバランスと正しい比率を取るのに、壁の跳ね返りを存分に利用して、それで自然な反響ふうのものを手に入れた。わたしに言わせれば、マージーサウンドはようするにこうして生まれた。マイクを楽器と壁から、もしくは壁の跳ね返りから、かなり離して、あるいは等距離に置いたと言ってもいい。つまり、各マイクの分離はさほど良くない、ということになる」

デッカ/EMIライバル物語

(EMIはザ・ビートルズピンク・フロイド、デッカはローリング・ストーンズとザ・ムーディー・ブルース)(略)
両者がそれぞれ独自の手法を編み出し、いわゆる“秘伝の奥義”としてそれを厳重に保護したのは無理もない(略)
[ケン・タウンゼンド談]
[双方が]協定を結んでいたのは間違いない。一方のスタジオはもう一方の元スタッフを絶対に雇わないという取り決めだよ。実際、両社間で転職した人はいなかったし、そういう不文律みたいなものがあったんだと思う」(略)
当時、互いに口をきくことさえ厳禁だった。(略)
[デッカのマイク・グレイ談]
「当時、[録音技法は]絶対厳守の秘密だった。(略)[引き抜き禁止の非公式協定は]70年代、80年代まで続いた。両社はほんの1マイルしか離れていないというのにね(笑)。たとえば、キングスウェイ・ホールでもマイクコネクタの使い方ひとつを取ってみても、デッカと(略)EMIとでは正反対だった。(略)どちらもホール内に録音設備を置いていたんだが、こっちはデッカ、こっちはEMIときっちり分けられていた」
(略)
[67年のクリスマス・イブ、デッカに電話BOX大の木箱が届いた。中身はタンクの付いた便器、底にはくしゃくしゃのストーンズのシングルのレーベル、クリスマス・カードにはこんなメッセージ]
ジャガーとその仲間は
流れない澱
君たちの哀れなお荷物は
アビイ・ロードを使うべき
そうさ我らは
EMIネントなり!
[訳注:eminentは優れた/卓越した]
(略)
 お返しに、アーサー・ハディはアシスタント・エンジニアに命じてプラスチック製の大きなカブトムシを4個買ってこさせ、それを釘で板に打ち付け、クリスマス・カードを添えてアビイ・ロードに送りつけた。「そのトイレの一件は(略)[前年の仕返し]デッカのスタッフが大勢、マイクロバスでEMIにいきなり押しかけて、自分たちはウェールズ聖歌隊だと言い張った」とデレク・ヴァーナルズはふり返る。

パイ・スタジオこぼれ話
『ヴィレッジ・グリーン・プリザヴェーション・ソサエティ

 「『ヴィレッジ・グリーン』はあの当時に起きていた文化的諸々に対する、わたしなりの姿勢だった。かなり好戦的な風潮だったからね」とレイ・デイヴィスは続けている。「ザ・フーのピート[タウンゼント]はギターをぶっ壊していたし、ジミ[ヘンドリックス]はギターに火をつけていた。でも、わたしはもっと穏やかな方法でいきたかった、だからあのアルバムのことはある意味(略)、当時の出来事に対する自分なりの反動と見ていた(略)。ひどく誇大妄想的な時代だったし、だから『ヴィレッジ・グリーン』はそれを鎮める平穏な解毒剤だと、個人的には思っていたんだ」
 アルバムの制作に対するデイヴィスの姿勢もまた、一風変わったものだった。「これはほんとうなんだけど、彼ら[パイのエンジニア陣]に『マイクをずらせるかな?』と言ったんだ。(略)エレキの音をマイクがちゃんと拾っていない感じにしたいんだけど』。正直、わたしが何を言わんとしているのか、みんなまるで理解してくれていなかった。実際、わたしも彼らの立場だったらそうだったと思う。でもあのときはとにかく、ギターが別の部屋で鳴っているようにしたくてね(略)。言ってみれば、しかるべき目標に到達していない音、かな。ギターの音をそのまま聞かせるのが嫌だった。オフマイクにして、スタジオじゃない、どこかもっと広い所で録っているような感じにしたかったんだ」

パイサウンド

[元はTVスタジオだったので]天井がかなり高かった。(略)[照明用のレール]からケーブルが何百本も垂れていた。だから、天井からの跳ね返りでフィル[かぶり]がしょっちゅう起きたんだ。ストリングスを入れたセッションでは、ドラムマイクなんかいらないくらいでね。(略)
床はコンクリートの上にリノリウム材を敷いた状態、壁は木製の薄板を貼った状態のままだったが(アラン・フローレンスいわく、「TV用だよ、音響用じゃない」)、これがどういうわけか功を奏した。「それが有名なパイ・サウンド、いわゆる“エコー付きのストリングス”を生んだんだ。もっとも、あれはドラムをストリングスマイクで拾ったからできたことで、それで全部に独特な広がりが出た」とフローレンスは説明する。「あの頃は気づかなかったんだけど、昔のパイ盤を聴き直すと、いい感じのライブ感が出ているのがわかる。まあ、あくまで偶然の産物だったんだけどね」

EQ

[Cadac誕生]
 イコライザー回路は、必要なときにのみ各コイルにつながるよう設計されていた。つまりEQがオフのときは、最初から最後まで事実上のストレートスルーな信号経路で、高域は75kHzを越える周波数特性を誇った。「『なんでそんなに高いところまで行かせる必要があったの?』とよく訊かれたけど」とエイドリアン・ケリッジ。「わたしの答えはこんな感じでね、たとえば倍音構成を変化させると、位相の問題が出て、ちゃんとした音で鳴らない。より高いところがちゃんとしていれば、より低いところもちゃんとする、それが持論だったんだ」

CTS/ザ・ミュージック・センター
こぼれ話:リー・ペリー

マスタリングエンジニアのトニー・ブリッジによれば、彼が働いていた当時、CTSはUKを拠点にするレゲエプロデューサーだけでなく、地元ジャマイカのプロデューサーの多くにも好まれたカッティングルームだった。彼らは「裸のテープが満杯に詰まったスーツケースを持って現れては、7時間くらい部屋を押さえて、手当たり次第にカッティングさせたものだった。7インチレコードを山ほど持ってくることもあって、そういうときはそこからそのままラッカー盤にカットしたもんだ、全部に思い切りコンプレッサーをかけてね。もちろん、お楽しみの煙もたっぷりとあった(笑)。いまでもはっきり覚えているのは、リー・ペリーが見たこともないくらい巨大なジョイントをくわえている姿。もくもくの雲みたいな煙の向こうから、声だけが聞こえてきて、『おい、べースをもっと、もっとだ、トップももっと、もっと、ミドルももっと、もっと……いいからどれもガーッと上げろっ!!』って」

Telstar

Telstar

  • トーネドーズ
  • ロック
  • ¥150

ハロウェイ・ロード304番地
ジョー・ミーク

そこは、自宅スタジオのはしりだった。
IBCおよびランズダウン経営陣と何度となく衝突を経験し、ジョー・ミークは考えうる唯一の結論に達した。
僕が仕えられる人間は僕以外にいない。(略)
[レーベルなどの]後ろ盾なしに録音スタジオを開いた者は、ひとりとしていなかった。
(略)
「隣に人が住んでいたから、録音は午後6時で止めないとならなかった(略)
[スタジオには]ヘッドフォンはあったけど、スピーカーは1台も置いてなかったんだ」(略)
[そんなお手製スタジオからヒット曲が次々、最大は62年の「テルスター」]
[私生活では]同性愛者であることを隠しとおし、さらにはさまざま精神障害を抱え、突発的に発生する激しい被害妄想にはとくに悩まされ続けた(略)[67年]大家の女性を散弾銃で撃ち殺し、すぐさま同じ銃の口を自らに向けて引き金を引いた
(略)
「ジョーは自宅のタイル貼りのバスルームをエコーチェンバーに使っていた。(略)隣の犬のキャンキャンいう鳴き声がエコーリターンからたびたび聞こえてきたのを覚えているよ。
(略)
「ジョーの三大機材といえば、サイン波ジェネレーター、オシロスコープ、そしてはんだごて」とピーター・ミラーは言い添える。「その3つがなかったら、ジョーはあのジョーになりえなかったと思う。その3つを駆使して、機材をしょっちゅう調整したり設定を変えたりしていた。(略)新しい機材を手に入れたら、すぐさまカバーを外す。何がどうなってるのか、自分で手を加えられるのかどうか、その目で確かめるんだ」。テッド・フレッチャーいわく、ミークのコントロールルームは「まさに工房だった、どの機材にもカバーがなくて、中身がむき出しのままだった(略)いにしえの名機EMI BTR2 でさえ、アンプが半分顔を出したままの状態で使っていた。(略)
奇妙さで言えば、ギターふうの(オンボードエフェクトを併用した)楽器、WEMフィフス・マンに優るものはなかっただろう。これはミークと高名なアンプおよび楽器設計者チャーリー・ワトキンスの合作だった。(略)バリー・クリーヴランドはこれを「ギターシンセサイザーを作ろうとした世界初の試みだったのではないか」と評している。確かに先駆的な1台ではあったようだが、性能はぱっとしなかったらしく、生産には至らなかった。
(略)
 ジョー・ミークはコンプレッションの匠と、いや、より正確には、オーバーコンプレッションの匠と目されていた。
(略)
ジェイウォーカーズのギタリスト、ピーター・ミラーの言葉を借りれば、「過激なコンプ使い。つまり、愛用のコンプレッサー、フェアチャイルド650で信号を押し潰すこと。それが彼の魔法の杖だった」
(略)
ピーター・ミラーはついに、一聴でそれとわかるジョー・ミーク印のサウンドをまねるには、「いくつか特定のテープレコーダーの真空管プリアンプをオーバーロードさせて、テープを飽和状態にすればいい」と気がついた。
(略)
 テッド・フレッチャーも言い添える。「テープのレベルはたいてい、普通の人が思い切れるぎりぎりよりもさらに6dBは上だった(から)、いつも歪んでいた。
(略)
ジョー・ミークは分離に「病的なこだわり」を持っていた。最小限の吸音処理しかされていない狭苦しい所で録りつつそれを成し遂げるという難題を克服するため[の手法は](略)クローズマイキングである。(略)
ミークがすべての楽器にクローズマイキングを早々に使いだした1人だったのは間違いない(略)
「[ほかの]エンジニアたちはマイクを1本、ドラムキットの1.5mくらい上から下げる。[でも]ジョーは「違う!スネアにぴったりだ、シンバルにぴったりだ」といつも言っていて。ほかのエンジニアには、とてもじゃないけれど、怖くてできなかったと思う」エンジニア仲間だったアーサー・フレウィンも言い添える。「スキンのインパクトをひとつも逃さず捕らえていられるように、ドラムのフロントを外して、中にマイクを置いて録ったのは[ミークが]最初だった。

次回に続く。