作家はどうやって小説を書くのか カポーティ、ボルヘス

トルーマン・カポーティ

――最初はなにを書いたんですか?
短編小説さ。この表現形式にたいする意欲はいまなお強まるばかりだけどね。(略)文章のコントロールやテクニックはいろいろあるけど、ぜんぶ、この形式のなかでのトレーニングから学んできたよ。
――「コントロール」というのは正確にはどういう意味ですか?
あるスタイルと情感を保ちながら素材に臨むってことさ。(略)
小説は文章のリズムがちょっとおかしくなっただけでダメになる、とぼくは考えてんのよ――とくに終わりあたりでそういうことになるとね――それからパラグラフのとりかたのまちがいとか、句読点のつけかたなんかも要注意だな。ヘンリー・ジェームズはセミコロンの使い方の巨匠だよ。ヘミングウェイは第一級のパラグラフの作り手だ。
(略)
――短編小説のテクニックはどうすれば手に入るんでしょう?(略)
自分の小説にふさわしいかたちを見つけることさ、そうすれば、その小説のもっとも自然な語り方が決まる。作家が自分の小説にふさわしい自然なかたちをうまく見つけたかどうかをテストするには、こうするのよ。読んだ後、べつなかたちを想像することができるかどうか、ないしは、そんなこっちの想像を受けつけない、完全で最終的なものになってるかとうか?オレンジが最終的なかたちのものであるようにさ。オレンジは自然がこれぞふさわしいと決めたかたちのものになってるんだから。
(略)
ぼくがルポルタージュをやってみたいとかねがね思っていたのは、ぼくの文体は現実をあつかうジャーナリズムにも適用可能だということを証明したいからなの。だって、ぼくの小説の方法は、やはり、突き放す、距離をもつってことだもの――情緒に流されたら、書くときのコントロールを失っちゃうからね。まずは情感というものを排出して空にして、十分冷静になってから、分析と描写をはじめる。ぼくにかんして言えば、それがほんとうのテクニックを発揮する法だよ。
(略)
――どのようにして情感を排出して空にするんですか?(略)
たとえば、一週間、リンゴだけ食べたとする。間違いなく、リンゴヘの食欲はすっかりなくなってるよ、でも、それがどういう味なのかはたっぷりわかってる。つまり、ストーリーを書きはじめる頃には、ストーリーヘの欲求はまるでなくなってるけど、でも、その味だけは完璧にわかってるってことさ。
(略)
作家は自分のウィットについてはしっかり吟味し、涙はきれいに拭いて、それから、しかる後、読者のなかに同様な反応が生じるよう、おもむろにとりかかるべきなのよ。言い換えると、芸術においては、いかなるかたちのものでも、最高の強度をもたせるには、熟慮ができる強靭でクールな頭が必要だってこと。

 このインタヴューは一九六六年七月におこなわれた。ボルヘスと話をしたのは、国立図書館のかれのオフィスで、いまかれはそこの館長である。部屋には昔のブエノスアイレスの雰囲気がただようが、まるでオフィスというかんじはなく、新たに修復された図書館のなかの、大きくて装飾も多い天井の高い私室といった風情である。
(略)
 ボルヘスが、ベレー帽をかぶり、ダークグレーのフランネルのスーツを肩からだらりと靴の上まで垂らした格好で図書館にやってくる(略)
歩き方は自信なさげで、杖をついていて、それを地下の鉱脈をさぐる占い棒のようにつかっている。背は低く、髪は、頭からの生え方をみると、少々ニセモノのようにも見える。顔だちははっきりせず、年齢のせいでいっそうあいまいになり、皮膚の青白さばかりがところどころ目立つ。声もまたはっきりせず、ほとんど単調な物憂い話しかたで、焦点が合ってないような目のせいだろう、顔の後ろに隠れた別な人物が話しているかのようだ。身振りや表情に力はまるでない(略)
ジョークを言うときなど、はきはきしたドラマティックな口調になる。オスカー・ワイルドを引用したときの様子はエドワード朝の役者顔負けだ。かれの発音は簡単に分類できるものではなく、そのコスモポリタン的な言葉使いは出自はスペイン語圈で、正確なイギリス英語で教育をうけたあと、アメリカ映画の影響をうけたものである。(“Piano"を「ピエアノ」と発音するイギリス人はいないし、“annihilates"を「アニーヒレイツ」と言うアメリカ人はいない。)かれの発音で際立っているところは、言葉がたがいにぼやけてソフトにつながっていくことである。言葉のお尻が消えてしまうようなことになり、couldn'tとcouldは事実上区別がつかない。(略)ぜんたいにはイギリス英語のフォーマルでブッキッシュな英語で

黄色について

だんだん視力がなくなっていったとき、最後に見えた色、というか、最後まで目立った色は(略)黄色だったんです。色のなかでいちばんビビッドなんですよ。(略)
わたしの視力がだんだんなくなっていったとき、世界がわたしの前からだんだん消えていったときですが、友だちがよく(略)からかってました、いつもわたしが黄色のネクタイをしてたもんでね。みんな、わたしが黄色が好きなんだと思ってましたよ、ぎんぎらぎんに派手なものだというのに。だから言ってやったんです、きみらは好きかもしれないが、おれは好きじゃない、だって、見えるのがこの色だけなんだから!わたしのいるところは灰色の世界です、銀幕の世界といったかんじですかね。

作家のスタイルは信念から

 マーク・トウェインはじつに偉大な作家のひとりだった、とわたしは思ってますが、かれはそのことに気づいてなかったように思います。でも、ほんとうに偉大な本を書くには、おそらく、気づいてないほうがいい。そのほうが作品にがむしゃらに取り組めて、すべての形容詞をほかの別なのに替えたりすることもできますし。まちがいがあったほうが、たぶん、いいものが書けるんです。バーナード・ショーが言ってます、スタイルについていうと、作家のスタイルとは作家の信念によってもたらされるのであり、それ以上のものではない、と。ショーは、スタイルをゲームのように考えるのはナンセンスでまったく意味がない、と考えてたんです。たとえば、バニヤンのことをかれは偉大な作家と考えてましたが、それはバニヤンが自分の言ってることに強い信念をもってたからです。作家が自分の書いてることを信じてなかったら、読者にそれを信じさせることなんて無理です。ところで、ここアルゼンチンでは、文章を書くことを――とりわけ詩を書くことを――スタイルのゲームと考える傾向がある。じつにうまく書く詩人たちをたくさんわたしは知ってます――まったくすてきなものを書く――繊細なムードなどをただよわせて――ところが、かれらと話をすると、話すことは薄汚い話か、あるいは、そこいらの人間たちが話してるような政治の話しかしない。つまり、かれらには、ものを書くっていうのは余興のようなものになってるんです。(略)
かれらはなにもかもなめてかかってる。ものを書く段になると、よし、ここはすこし悲しめに行くか、あるいは、アイロニックに行ってみようか、とやるわけです。

寓話、カフカ

――あなたの小説を寓話だと言う読者はけっこういます。そう言われるのはお好きですか?
いいえ、いいえ。寓話のつもりはないです。つまり、寓話になってるとしたら[長い沈黙]、つまり、寓話になってるなら、たまたまそうなってしまったということで、わたしのなかには寓話を書こうなんて気持ちはぜんぜんなかった。
――カフカの寓話のようなものではない、ということですか?
カフカについては、われわれはろくに知らないんですよ。知ってることといったら、自分の作品にすごく不満足だったということだけでしょ。もちろん、友人のマックス・ブロートに、原稿はぜんぶ焼いてほしい、と言ったとき、ウェルギリウスもそうでしたが、かれはわかってたんだと思います、友人はぜったいそんなことはしない、とね。もし自分の作品を破棄したいなら、自分で火にくべればいいことだ、それで一件落着ですよ。親友に、原稿をぜんぶ破棄してほしい、と言うときは、友人はぜったいそうはしないことを知ってるし、また、友人も、かれが知ってるのを承知してるし、かれが知ってるのを承知してることをほかの人間も知ってるのを承知してる、とまあエトセトラ。
――ヘンリー・ジェームズ的ですね。
はい、もちろんです。カフカの世界のすべてははるかにもっと複雑なかたちでヘンリー・ジェームズの小説のなかにあらわれている、とわたしは思ってます。ふたりとも、世界というものは複雑であり、かつ、無意味である、と考えてたと思います。(略)
世界にはなにかモラル的な意味があるとかれが考えてたとはわたしは思わない。かれは神を信じてなかったと思ってます。じっさい(略)[兄への手紙で]世界はダイアモンドの博物館だ、と言ってる、これって、珍奇なものの集まりだってことですよ、そう思いません?本心からの言葉だと思います。それで、カフカの場合は、カフカはなにかを探してたんだと思ってます。(略)
そして見つからなかった、たぶん。でも、ふたりとも、一種の迷路のなかで生きていたんだと思いますよ、そう思いません?

幻想的

――幻想的という言葉はどのように定義なさってるんでしょう?(略)
 ジョゼフ・コンラッドがとても深遠なことを言ってたのを覚えてます(略)
[『シャドウ・ライン』の]序文で、船長の幽霊が船をとめるのだからこの小説は幻想的な小説だ、と考えてるひとたちがいる、と書いてましてね、そしてつづけて、幻想的な小説を書くことと世界を幻想的とか神秘的とかんじることは別なことであるし、また、机のまえで幻想的な小説を書いている人間を感受性に乏しいと言うことはできない、と言ってたんです――わたし自身、幻想的な小説を書いてましたから、これには衝撃をうけました。コンラッドは、世界をリアリズムで書こうとしているのに幻想的な小説を書いてしまう人間がいるのは、世界自体が幻想的で正体のつかめない神秘的なものだから、と考えてたんです。
(略)
だれにもわからないんですよ、世界は現実にあるものなのか幻想的なものなのか。すなわち、世界は自然現象なのか一種の夢なのか。そして他人と共有できる夢なのかできない夢なのか。

――ジャズやバップからの影響について

たとえば、テナー吹きは息を吸いこみ、息が切れるまでサクスフォンでフレーズを吹くわけだが、息の切れたときが、そいつのセンテンスが、そいつのステートメントが完成したときだ……おれのセンテンスの切りかたもそれだよ、こころの息が切れるのに合わせてる……尺度としての息の理論はおれがつくった、散文と詩における理論だよ、オルスンがな、チャールズ・オルスンががたがた言ってるが、あれは忘れていい、あの理論は一九五三年に、バロウズギンズバーグに求められておれがつくった。ジャズのきわどさ、自由さ、ユーモアだよ。かったるい分析とか、ジェームズは部屋に入ってくると煙草に火をつけた、この仕草をあいまいすぎるとジェーンは思ったのかもしれない、とかれは思った、みたいなのは要らないのよ……わかるだろ。サローヤンについて言うと、うん、十代のときは大好きだったなあ、その頃に学ぼうとしていた十九世紀風の因習的なスタイルから、ほんと、おれを引っぱりだしてくれたんだから、その愉快なトーンだけでじゃない、すてきなアルメニアの詩的文章でさ、よくわかんないが……とりこになった……へミングウェイは魅力的さ、真珠みたいな言葉が白いページのうえにあってきちんとした絵を見せてくれる……でも、ウルフは、アメリカ的な天国と地獄がほとばしる奔流だ、アメリカそのものが主題になるのだ、と、あれでおれの目は開いた。

――えーと、みなさんは

なんで一九六〇年代のはじめに分裂しちゃったんですか?

ギンズバーグは左翼政治に興味をもちだした……だからおれは、一九二〇年代にジョイスエズラ・パウンドに言ったみたいに言ったんだ、おれを政治に巻き込むな、おれはスタイルにしか興味がないってな。それに、新しいアヴァンギャルドとか狂乱的な扇情主義にもおれは飽き飽きしてる。(略)
ハプニングとかでニワトリを十字架にかけたりしはじめてるが、そうなると、つぎはなんだ?人間を十字架にかけるんじゃないか……ビートの連中は、おまえが言う通り、六〇年代の初めにばらばらになったが、みんな、それぞれの道を行ったんだよ、おれはおれの道を選んだ、家庭生活のほうへね
(略)
バロウズカットアップ・メソッドについては、おれとしては、もどってもらいたいね、昔書いてたようなむちゃくちゃ愉快な話や、『裸のランチ』のすばらしく乾いた作品のほうにさ。カットアップなんてぜんぜん新しいもんじゃない、じっさい、トラバサミのようなおれの脳は自然にカットアップをたくさんやってる……だれの脳も、話したり考えたり書いたりしてるとき、それをやってる……まあ、ただのダダ的な芸さ、文学的なコラージュってところだな。それをあいつがちょっとおおげさに見せただけのこと。おれは、あいつのエレガントなところが、ロジカルなところが好きだから、なおのこと、心はこわれてるなんて言いたげなカットアップは好きじゃない。たしかに、心はこわれてるさ、ハイの幻覚で一目瞭然のように。しかし、こわれてることを説明してどうすんの、平々凡々な日々のなかでもときどき気がつくようなことを。

  • ジョン・チーヴァー

真実味

――(略)[ある作家が]こう言ってました。「現実を真実に描こうとするなら、まずはそれについて嘘をつくことである」どう思います?
くだらない。まず、「真実」とか「現実」といった言葉は、なにを指しているのかがわかりよく示されたかたちで使われるのでなければ、ぜんぜん意味をもたない。揺るぎない真実なんかないんだから。嘘についていうと、嘘はフィクションではきわめて重要な要素だろうと思う。お話を聞くのがスリリングなのは、ごまかされているのかもしれない、ひっかけられているのかもしれないということがあるからだ。ナボコフがそれの巨匠さ。嘘をつくというのは巧妙な手品みたいなもので、そうやって人生にたいする奥深い気持ちを披露する。
(略)
真実味というのは、わたしに言わせれば、ひとつのテクニックで、読者にたいして、いま聞かされている話は真実のことだよと保証してあげるためにつかうものだ。絨毯のうえにちゃんと立ってるんだよと上手に思いこませることができたら、こっちは絨毯をサッと引っこ抜くことができるというわけ。
 真実味なんて、もちろん、これまた嘘のひとつなのよ。わたしがいつも真実味なるものに求めているのは「ひょっとするとありうるかも」という可能性だね、それがわたしの生き方みたいなものになってるんで。このテーブルはいかにも現実にあるように見える、この果物かごはわたしの祖母のものだった、しかし、いますぐにもドアから狂女が入ってくるってこともありうるということだよ。
(略)
――登場人物たちが勝手に自己主張しはじめることはあります?(略)
登場人物が作家から逃げだすという伝説には(略)作家は自分の技能についてわかってもいなければ把握もしていない愚か者だという意味合いがあるんだ。でも、そんなのはバカげた話だよ。想像力にはすごいはたらきがあってね、つかっていくうちに複雑で豊穣な記憶の数々に頼りはじめる、そしてあらゆる生き物がぐんぐん広がっていくのを(略)心底から楽しみはじめる。だから、作家が自分の身勝手な創造物を前にして右往左往しているという考えかたは、もうくだらないことこのうえない。

――ハリウッドで仕事をすることについて

はどう思います?

南カリフォルニアにはいつも夏の夜の香りがただよっている(略)
わたしにはあそこはたんに合わないんだ。わたしは樹木がとても気になる質なんだよ……樹木の誕生の経緯が。だから、すべての樹木が移植されたものでぜんぜん歴史がないようなところに行くと落ち着かない。
 ハリウッドに行ったのは金のためだった。そりゃもう単純なものさ。ひとはフレンドリーだし、食べ物はおいしい。でも、そこでハッピーな気分になれたことはない、きっと行ったのがひたすら金のためだったからだろう。
(略)
ハリウッドでまず思うことといえば、自殺だな。(略)
電話に手を伸ばして思いっきり豪勢な朝食を願んで、それからどうにかこうにかシャワーにたどりつき、そして首を吊る、そういうことだよ。ハリウッドの悪口が言いたいんじゃない、あそこではわたしには自殺コンプレックスがあったみたいだということ、それだけさ。

プロットはたてない

――まずなにが浮かぶんです、プロットですか?
プロットはたてない。直感、ひらめき、夢、ぼんやりとしたプランですすめる。登場人物や事件はいっしょに浮かんでくるんだ。プロットは語り口を決めてしまったりとか、ろくなことがない。あれは読者の興味を計算ずくでしばっておこうとするものさ、モラルもなにもそっちのけで。もちろん、ひとは退屈したくはない……サスペンスの要素は必要だ。しかし、いい語りというのは原基的な、つまり先行きは確定されていない構造のものさ、腎臓みたいな。

次回に続く。