抑止力としての憲法・その2 樋口陽一

前回の続き。

抑止力としての憲法――再び立憲主義について
 

「立憲」という言葉

ここで「立憲主義」は最広義で、すなわち「いかなる権力も制限されていなければならぬ」という原則を指すものとしておく。そのような「立憲主義」と、憲法を創る力――その前提として、先行する法秩序を壊す力――を持つ国民が万能だ、という意味での「憲法制定権力」とは、対抗の関係に立つ。ところが他方で、この両者は(略)補完しあう関係にも立つことが可能である。
(略)
 かつての帝国議会藩閥政権を相手どり、大正デモクラシーの時期をはさんで軍部を背景とする政権に対抗する攻防の場面で、「立憲」の旗じるしこそが重要だった。大日本帝国憲法の制定自体が、「立憲」政治の導入という意味を持っていた。
 もっとも、同じく「立憲」と言いながらもその意味が同じだったとは限らない。むしろ正反対の内容をこの言葉に託す主張があった。帝国憲法下の立憲主義憲法学の代表というべき美濃部達吉にとって、「立憲政治は責任政治」であり、だからこそ、「国民殊にその代表者としての議会が政治を論評して大臣の責任を問ひ得ること」が、立憲政治の核心とされたのだった。ところが、立憲主義憲法学が標的とした穂積八束も、帝国憲法を「立憲政体」を定めたものとしていた。但し、その「立憲」政体理解は、「英国(略)議院政治ノ如キ其ノ実ヲ以テスレハ専制ノ政体ニ近シ」「之ヲ立憲政体ト称スト雖、実ハ其ノ変態タリ」というようなものだった。
 そのような正反対の語法があったにもかかわらず、「立憲」という言葉は両者に共通のものだったという点こそ、重要であった。(略)
美濃部にとっては天皇の名において行使される政府権力を制限するための「責任政治」が肝要だったのに対し、穂積にとって制限されるべき対象は、やがて成長してくることが不可避な議会(衆議院)に他ならなかった。繰り返すが、にもかかわらず、「立憲」という言葉と無関係に憲法を語ることはできなかった。両者どちらにとってもそれぞれの意味で、権力は制限されねばならぬということ、すなわち権力分立が肝要だったのである。

憲法を創る力」=旧体制を壊す力

――フランス革命前夜

 第二に、憲法制定権力を行使する国民の意思は、「表明されさえすれば」「いかなる実定法も、その意思の前には効力を失う」、というのである。こうして、旧体制に対する破壊力が全面的に発揮されることになる。
(略)
その結果でき上がった新しい立憲主義秩序(略)からすれば、今や働き終った憲法制定権力を、規範主義的・静態的な性格のものに転換していかなければならなかった。
(略)
 まず、それまで憲法を制定・変更する権力として一括されていたものが、憲法の全面変更に対応する「憲法制定権」と、憲法の部分変更に対応する「憲法改正権」とに分離された。その上で、一方では、「憲法制定権」の発動としての全面変更は、国民の自由な意思に委ねられるべきものであって制度化されない、という説明によって、その手続を定めないこととされた。そのことによって憲法制定権は観念化され、その観念化を念押しするものとして、いったん浮上していた条項案――国民が30年間は憲法制定権を行使しないものとする、という規定――は意識的に斥けられた。こうして、向こう30年に限らず、憲法制定権を永久に凍結する論理が示された。
(略)
 全能だったはずの国民は、一方でその「憲法制定権」を観念化されて凍結された。他方で、憲法改正権は、実定憲法上の複雑な形式の中に取り込まれた上に、その具体的な手続行使への参加からも国民の直接関与を排除するものとなったのである。
 1791年憲法は、そのようにみずからの永続性確保のための周到な道具立てを論理化したのだったが(略)革命の急進化の渦中で、制定後一年を待たず生命を終えた。この国でそのあと憲法秩序が安定するのは(略)第三共和制期を待たなければならなかった。この時期に学問分野として確立することになる憲法学は、「憲法制定権力」という危険な観念を、どう扱うことになるのか。
 その大勢は、憲法制定権力という観念自体を法外の存在を示すものとして、法思考の外に追い出した。革命期と違って、実定法をことさらに正統化する静態的機能は不要となったのであるし、そうである以上、目の前にある実定憲法をゆるがす危険を伴う動態的機能は、あらかじめ封じ込むに如くはなかったのである。

ルソーVS立憲主義

 「ルソーの立憲主義」と聞いただけで肩をすくめるのは、彼を全体主義の元凶と難ずる人たちだけではないだろう。(略)
 たしかに、「ルソー=民主と権力集中」VS「ロック=自由と権力分立」という図式は(略)ゆき渡ってきた。
(略)
 立憲主義を国家権力の制限に尽きるとする考えが支配的なアメリカ合衆国憲法学者が、自国のありようを「消極的立憲主義」と呼び、近代法秩序の形成にとっては、国家が社会に対して自由を強制する「積極的立憲主義」が必要だったことを知るべきだ、と説いている(S・ホームズ)。その積極的立憲主義はフランスで、この国特有の意味での「共和国」というかたちをとって法制化された。そこでは、制限されるべき権力として、何より宗教権力と経済権力が標的とされ、それぞれ、政教分離と経済規制に服すべきものとされた。
(略)
「ルソー=民主集中」は本当なのか?(略)
 主権者たる人民だけが立法権を持つというルソーの主張は、だれでも知っている。それに加えて、それと同じくらい重要なのは、その人民がloi=法律を執行(裁判を含めて)する権能までを持ってはならぬ、とされていることである。(略)主権者である人民であっても、一般的規範の設定すなわち立法しかしてはならず、その個別適用にかかわってはならぬ、ということを意味する。
 ここで付け加えるべき論点がある。(略)
 この「立法者」は、つまるところ、主権者・人民に提案すべき法律を起案する者のことだから。彼自身の言い方に従えば、主権者の権力すなわち立法する権力それ自体からは区別される立法の権威なのだから。
 ルソーはこうも言う。――「ギリシャ都市国家の多くでは、自分たちの法律の作成を外国人たちに委ねていた」。日本国民も、まさしく、その典型ともいうべき出来事を経験してきた。
(略)
 「神々から成る人民であれば、その人民は民主政(gouvernement democratique)を行うだろう。それほどに完全な政府は、人間には適しない」という言明もまた、ルソーにとって自己矛盾でも何でもない。そこでのgouvernementは執行権を指すのであり、だからこそ、「民主政という言葉の意味を厳密に解釈するならば、真の民主政はこれまで存在しなかったし、これからも決して存在しないだろう」と言い切ることができたのだった。こうしてルソーは、「主権権力の限界」を説いたのである。
(略)
何より、一般意思は誤ることがない、という命題が問題となる。
 この命題は、文学的表現としてならば聞き流され、哲学上の記述としてならばその途方もない楽観性にはお手あげ、ということになろう。それに対し法論理上の命題としてならば、それは、度し難い幻想どころか、明瞭な意味内容を持っている。(略)
 「国王は悪をなし得ず」とは、王様は善良でいつも正しいという意味でもなければ、勝手仕放題という意味でもない。それは国王が作為・不作為ゆえの法的責任を問われぬということであり、近代議会制のもとでの王権のあり方としては、大臣の対議会責任と表裏一体となった君主無答責という法原則を意味した。同様に一般意思不可謬という定式は、一般意思の表明としての法律は主権意思の現われとして扱われ、それゆえもはや何びとの審査にも服さない、という法制度の根拠を意味する。具体的には、より上位の規範(憲法)を基準として他者(典型的には裁判所)が適合性判断を行う可能性が否定される、ということにほかならない。
 君主不可謬論はその論理的根拠を語ることなく援用されるが、ルソーは、一般意思不可謬を言う理由を明示する。一般意思は二重の意味で、すなわち、その淵源とその対象において「一般的」でなければならないからだ、というのである。一般意思が「すべての人から生まれなければならない」とは、主権者たる人民の立法への全員参加(普通選挙)である。一般意思が「すべての人に適用されなければならない」とは、法律は一般的規範でなければならぬという限定である。
(略)
 (1)一七八九年宣言は、その標題からして明らかなように、「人」の権利と「市民」の権利をはっきり区別し、「われわれは国民であったのちにはじめて、まさに人間となり始める」ことの連関と緊張の意味を、近代社会へのメッセージとして取り次いだ。
 (2)一七八九年宣言はまた、「一般意思の表明としての法律」という定式をキーワードとして取り込み、一般意思不可膠の原則を実定法化した。上位規範としての一七九一年憲法は設けられたが、違憲審査による立法への介入はその後も長く否定されつづけ、その伝統は一九五八年憲法の運用によって破られるまで統いた。
(略)
 (4)一七九一年憲法は、国民の主権を宣言し「すべての権力は国民のみから発する」とすると同時に、国民は「授権によるのでなければそれを行使することができない」として、ルソーに従うことを正面から斥けた。憲法はまた、「授権」のうけとり手として「立法府および国王」を「代表者」とし、国王に、立法についての停止的拒否権を与えた。この点もルソーを拒否したことになるが、そのことの意味は、普通に想像されるのとは違った次元でのことになる。立法=一般意思の表明に執行権がかかわってはならぬというところまでルソーが権力分立を徹底させたのに、一七九一年の憲法はその要請から離れてしまったのだからである。

防御権、保護義務論

 近代法体系の中で基本権は、権利の主体と、それを侵害する可能性を持つ国家という、その二極関係の場で国家からの防御権として語られてきた。それに対し保護義務論は三極関係、つまり、それ自体基本権を享有する主体でありながら他者の基本権を侵害する者と、その彼によって権利を侵害される者と、後者の基本権を保護する義務を引き受ける国家、この三者を想定する。まさにそのことが、伝統的な二極対立思考の持っていた権力制限の論理をうすめてしまわないか。国家からの自由を意味する基本権が、自由制限の根拠に逆転してしまうことはないのか。保護義務論を積極的に説くシュテルン教授自身が、古典的な防御権が持ちつづけるべき意味の重さにも同時に言及しているのは、それ故なのである。
(略)
 日本ではどうなのか。(略)
 さきほど挙げたドイツの二つの条件と対照的な事情がある。まず憲法それ自身、ドイツが「国家の責務」を語るのに対し、日本の第一一条は国民が基本権の享有を「妨げられない」とし、第一二条は、自由と権利が「国民の不断の努力によって」「保持」されるべし、という書き方になっている。もうひとつの条件はといえば、ドイツ型の憲法裁判所でなく、憲法の番人の役を課されているのは普通の裁判所なのである。
(略)
 さらに背景にある事情として、近い過去の事態が、日本とドイツで同じでなかった、ということが重要である。一九四五年以前のドイツは国民主権のもとで独裁を招いてしまった。だから戦後は、国民主権という決め方の問題以上に、「人間の尊厳」という、手をふれてはならない実質価値を憲法の根底に据えたのだった。一九三五−四五年の日本では天皇統治権の総攬者であり、敗戦によって漸く国民主権が宣言されたばかりだったから、それまで抑圧する他者だった国家からの防御権が何より強調されたのは、全く自然であった。
(略)
故・芦部信喜は(略)保護義務論の導入には慎重、むしろ消極的だった。しかしその彼は同時に、基本権の私人間効力――対国家の防御権だった自由権の効果を、裁判所の介入によって私人の間の関係にも及ぼさせるという考え方――という論点を、一九六〇年代前半に日本で最も早くとりあげていたのだった。
(略)
 裁判所はといえば、保護義務の考え方に関心を示すことはなかった。それは、芦部が心配したおそれに敏感だったからというより、日本の法律家の世界で共有されてきた自由観そのものによるものだった。たしかに世間一般では、「自由より保護」を求める傾向が強い。しかし、西欧の論者にとっては意外かもしれないが、法律家の世界では、国家と社会、公法と私的自治という二元論が自明のこととして受け入れられてきたのである。(略)
私的自治の枠組の中で社会諸集団と個人が同じ価値序列に位置づけられ、集団に対する個人の防御という問題関心が十分には共有されてこなかったからである。

social tyranny

 興味深いことに、自由を国家からの防御権と考える点で徹底してきたはずのアメリカ合衆国の論者の中からも、社会的な力からの防御権の問題の重要さが指摘されている。たとえば憲法学者ホームズは自国のありようをnegative constitutionalismと呼び、それはむしろ自国のなり立ちの特殊性を反映したものだとし、封建制という前近代史を持つ国では、国家が社会に対し自由を強制するpositive constitutionalismが必要だった、と説く。
 その文脈では、防御権という観念自体の中に、国家に対して向けられるものと並んで、社会的権力による侵害からの防御が含まれている。この二つを区別した定式化をすることが、議論の整理に役立つのではないか。かのJ・S・ミルが国家によるpolitical oppressionと並べて、それにまさるとも劣らず個人を抑圧するものとして「社会みずからが暴君となるとき」、すなわちsocial tyrannyを問題としていたことが、想い出される。political oppressionの方はともかくも選挙を通し人民の名による正統性を背景にしているのにひきかえ、social tyrannyはそのような正統化根拠を持たぬ、という点が憲法論にとって重要ではないだろうか。

自己統治秩序

 自己統治秩序の「近代的ヴァージョン」の典型が一七八九年宣言秩序だとすると、その際「近代的」なるものへの移行はひとつの組み換えを必要としたのであり、その役割を担ったのが、他ならぬ主権・人権システムなのであった。国家が領域内の暴力独占によってその主権性を完成させ、身分制の解体を通して人権主体としての個人を析出する。そこには支配(Herrschaft)の完成と、その枠組の中での抵抗の論理が、ひとつの体系として描き出される。もともと支配からの自由であろうとした自己統治秩序がその内側からHerrschaftへと傾斜してゆく不安定さを持つことは、マックス・ヴェーバーに即しつつ「支配と自己統治」を論じた水林彪の別稿が『支配の諸類型』の中の記述を援用しながら「不安定な自己統治体制――支配への傾向」を指摘する通りである。自己統治秩序の「近代的ヴァージョン」は、主権・人権システムという、ひとつの完成された支配形態によってこそ支えられ、かつ、だからこそそれによって潜在的に常に危うくされている。
 ところで、そのようにあぶり出された近・現代法の際どいパラドックスに当面して、二つの対応がある。
 ひとつは、主権・人権システムそのものを解体されるべき標的とする、近代批判の言説である。国境を越えた人びとのネットワークを構想する立場が、今のところその有力な現われであろう。もうひとつは、自己統治秩序という実質が主権・人権システムという形式の中に吸収される、その瞬間の緊張を再現するような、近代の再構築を考える。
(略)
関連して同じ「市民」という言葉が引き合いに出されることがあるが、その意味は対照的となる。
(略)
主権主体として不可分一体の人民(peuple)を個々の個人に着目してとらえた時に彼はcitoyen(市民)と呼ばれ、res publica(公共社会)を構成する。市民はそのような存在として、主権を担う国家と人権主体としての個人の間の緊張に充ちた共存を支える役割を託される。
(略)
 「自己統治」が近代法の世界に現われる一つの徴候として水林が注意を促す論点、「憲法は国民を縛るものでなく、国家権力を縛るもの」という言い方の反面についての指摘も、重要かつ適切である。近代法の体系のもとでは民法や刑法の規範もまた、国民に特定の行為――あるいは不作為――を命令するものではなく、それに対する違反が国家権力による制裁をひき起こすことを表示するものと理解すべきだからである。言い換えれば、近代法そのものが、国民に対して命令するという意味での行為規範ではなく、違反に対して課せられる制裁=サンクションの体系なのである。私たちが法と道徳の区別を近代の特徴として論じてきたのは、そのことを一つの面から語っていたのであった。

次回に続く。