ファンダム・レボリューション:SNS時代の新たな熱狂

巻末の若林恵の解説で大体の内容は補足できる気が。

解説:ファンとはいかなる存在か 若林恵

 言うまでもなく、自分は明菜に「なりたかった」わけではない(略)
ただ、寝ても覚めても「明菜」がアタマのなかにいて、「明菜サイコー!」と心のなかで叫びたい気持ちがあるだけなのだ。
(略)
 たとえば、どうしても好きすぎるアルバムがあったとき(略)「そのアルバムになってしまいたい」と思ってしまったりする。
(略)
 近現代の経済理論は、長らく経済主体である「消費者」というものを「自身の効用を最大化すべく合理的な行動をするもの」と考え、「企業」というものも「自身の利潤を最大化すべく合理的な行動をするもの」と考え、それぞれの行動がクロスするところに「モノの価格」が決定するとしてきたが、その仮説からみたとき、「ファン」という存在は、いかにも非合理で、謎めいたものとして立ち現れてくる。
(略)
 ファンのモチヴェーションは、費用対効果で決して測ることができない。むしろ、ファンは、そこにそうした「経済合理性」を持ち込まれることをすら嫌うだろう。「タダでもやる人がいるんだから、インセンティブを与えればもっとやるだろう」という観点から行われるマーケティングは、ファン心理を決定的に見誤っている。お金をもらってファンアートを描くような人間は、ファンの風上におけない。そんなシンプルな動態さえ、経済学やマーケティング理論はきちんと扱えてこなかった。それではもはやこれからの商売は立ち行かない、ということが、本書のような本が必要となっている理由なのだろう。
(略)
 スティーブン・ブラウンは「ファン」を安易にマーケティングの対象とすることについて、本書のなかでこう厳しく戒めている。「ファンは普通の人たちじゃない。すごく饒舌なのは確かだし、商品を心から愛してくれてもいる。それに積極的に商品を勧めてくれる。でも偏った人たちの集まりだ。みんなを代表しているわけじゃない。というか、まったく代表していない……(略)ファンはブランドにとって要となる存在?答えは、ひとこと言でうと、ノーだ」
 「ファン」というのは、結局のところ、決して満たされることのない心を抱える「たったひとりのカルト=One Man Cult」なのだ。「ファン」は、その人生をかけて何かにコミットしようとするが、一方でその対象は、「ファン」の人生に対して責任を負うことは決してできない。そこには決定的な分断と非対称性がある。
 「企業にとって必要なものと、ファンが望むものの間には常に相反がある」、「ファンとオブジェクトの関係はいつも一方通行だ。ファンは愛する対象に強い感情を感じるが、対象はファンに対して同じ感情を抱くことはない」(略)
ファンの愛は、報われない(略)ファンは哀しい。その哀しみは、実に人間的なもので、であるがゆえに、危険なのだ。

ウォーレン・バフェット

 バフェットは多くの企業経営者とは違い、ファンの熱狂に喜んで応じている。1998年に総会が大荒れしたあと、アナハイムのディズニーパークから離れた場所で株主総会を開くことにしたウォルト・ディズニー社とは対照的だ。バークシャー・ハサウェイの株主にとって、総会は人生最高のバケーションとも言える。バークシャー・ハサウェイの株を一株でも持っていれば株主総会に招待されるし、株を持っていなくてもチケットは簡単に手に入る。値上がりを防ぐために、クレイグスリストやイーベイでは五ドルでチケットを売っている。
(略)
 大手投資銀行でエグゼクティブを務めるルッソのガールフレンドは、株主総会に出席したくてバークシャーの株を買った。「チケットを買ってもよかったんだけど、ちゃんとしたかったの。確定拠出年金バークシャーに投資して、ウォレン・バフェットに会うんだ、って決めたのよ。ダサいと思われるかもしれないけど、実はすごいことじゃない。本物のウォレン・バフェットに会えるんだから。バフェットと一万七〇〇〇人の友達と一緒に九時間も同じ部屋にいるのよ」
 二〇〇八年の参加者は四万人に近かった。とはいえその全員が一堂に会するわけではない。参加者の層はさまざまだ。バフェットの言葉に儲けのヒントを探そうとやってくる、アメリカのどこにでもいるような中年男女。人脈を作りたい金融マン。自分のビジネスを宣伝したい起業家。
(略)
アメリカは絶好調だよ」とバフェットが言うと、会場から拍手が沸いた。次の質問への答えは、結局なぜ大学教育が成功に必要ではないのかという説明になっていた。会場は歓声で湧きかえった。
 バフェットの答えはユーモアたっぷりで思慮深く、ひとつの質問に答えるのに三〇分もかかる。
(略)
 フットボール場の二倍の広さがある隣の会議場では、バークシャー・ハサウェイ株主総会のもうひとつのイベントが進行中だった。物品販売だ。バークシャー・ハサウェイ・パンツ。バークシャー・ハサウェイ・カフス。バークシャー・ハサウェイ・紙幣挟み。運動靴。ブラジャー。スカーフ。野球のグローブ。カウボーイブーツ。エプロン。バークシャー・ハサウェイ・ダイヤモンドペンダントは五〇〇ドルを超える値段だ。バフェットの言葉が彫り込まれた銀のトレイもある。「非凡なことをしなくても、非凡な成果は出せる」。
(略)
 六〇メートルもありそうなシーズキャンディのブースにある棚は、どれも空っぽになっていた。熱狂的なファンがピーナッツブリットルを速攻で棚ごと買い占めてしまうのだ。「毎年こんな感じよ」商品補充係のブロンドの中年女性が、新しい箱をビリビリと開封しながら言った。(略)「ウォレン・バフェットの大好物だから、みんな買いたがるのよね」と息を吐いた。
 「バフェットの好物だって?ほんと?」ハゲた中年の男が箱に手を伸ばしながら聞いた。
(略)
 イベントの常連は壁沿いにずらりと並び、コンクリートの床に座り込んでいる。チノパン、ビジネススーツ、ヨガパンツ、ハイヒール、ビーチサンダル。みんなゴムのように固いサンドイッチとプレッツェルを食べながら、通路に溢れかえって戦利品を比べあっている。ティーンエイジャーの女の子が身につけている黒いTシャツのロゴは「次のウォレン・バフェット」。彼女は恥ずかしそうにもごもごとつぶやいた。「去年パパが買ってくれたの、だから今年はどうしても来なくちゃならなくて」
(略)
 コンベンションセンターでのイベントが終わりに近づくと、参加者の一群は住宅街にあるバフェットの簡素な家の外に集まって写真を撮っていた。
(略)
 翌朝は五キロ走の日だ。参加者は限定記念版のバークシャー・ランニングシューズを見せびらかすことができる。 

ポラロイド

[2008年ポラロイドはインスタントフィルムの製造中止を発表]
 ファンたちは品切れになる前に最後のフィルムを買いだめしようと店に急いだ。オーストラリアでは、ポラロイドの売上は予想の三・五倍にもなった。ポラロイドは失望の声にこう答えた。
 「これまでポラロイドをご愛顧下さった皆様に、できる限り長くご利用いただけるように努力していくつもりです」(略)それでも、ファンは強硬だった。
 フロリアンカップスは、インスタント写真の大ファンで、ポラロイドフィルムをオンラインで販売している。インスタントフィルムの保護運動に、早くから参加した。もしポラロイドフィルムがなくなってしまったら、世界中にある二億台のポラロイドカメラが使えなくなってしまうし、カップス自身の商売にももちろん影響する。一歩も引かないカップスにポラロイドの経営陣も気づき、おそらく批判を和らげたい下心もあって、二〇〇八年六月にオランダエ場の閉鎖パーティにカップスを招いた。(略)
 そこにいたのが、アンドレボスマンだ。ポラロイドの製造責任者を二八年間も務めたボスマンが工場を閉鎖することになり、彼自身も遺物になった。パーティの席で、カップスとボスマンはポラロイドの損失を愚痴り合った。工場閉鎖は機会損失だ。当時、ポラロイドはまだ年間二四○○万パックのフィルムを売り上げていた。年間一億パックの生産能力にははるかに及ばないが、それでもかなりの量だった。
 小規模に事業ができないだろうか? 巨大な組織には、巨大な顧客基盤が必要になる。だが、小さな組織なら、管理もはるかに簡単だ。ボスマンカップスは数人の投資家と一緒に、その閉鎖された工場を借り、ポラロイドが撤退したばかりの市場に戻ることにした。彼らは工場の買収を「インポッシブル・プロジェクト」と名付け、同じくらい不可能な目標を掲げた。それはポラロイドカメラ向けのフィルムを復活させ、その過程でこれまでとまったく違う、新しい世代のインスタント写真ファンを作ることだ。(略)
フィルムカートリッジには一〇〇種類を超える化学原料と数十種類の薬品が使われていた。「気が狂いそうなサプライチェーンだった」(略)
彼らが最初の白黒フィルムの発売にこぎつけるまでに、二年かかった。
 その新しいフィルムは失敗だった。画像は暗くすすけた色で、ぼんやりしていた。薬品がフィルムから漏れ出し、カメラの中がベトベトになることもよくあった。現像に一〇分もかかることもあった
(略)
 そのひどい欠陥フィルムでも売れた。チームは買い手を「パイオニア」と呼んだ。彼らはインスタント写真のスーパーファンで、フィルムの復活に苦労しているインポッシブルチームを支えてくれる存在だった。[現CEOの]スモロコウスキ本人すらほとんど使えないと認めた初期の製品をわざわざ買ってくれた、勇気ある人たちだった。「この美しい媒体を守るために僕たちも努力していることを伝えたかった。今はまだだめだけど。でも買う人がいてくれないと、続けられない。たくさんの人が買ってくれていた。欠陥品だとわかっていても、ファンが復活を支えてくれていたんだ」
 欠陥だらけの商品を発売するのは、リスクが高かった。特に、半世紀もかけて完成された人気商品の代わりとしては、リスクが高かった。伝統的な企業ならこんなやり方でファン層を開拓するなどありえなかった。大企業なら、研究開発に何年どころか何十年もかけて、製品を市場に出す。
(略)
 インポッシブルチームは乱雑なフィルム開発作業を包み隠さず、それを公開した。薄汚いセピア色の写真も、進歩の印だった。ファンはその挑戦を支え、何枚も写真を撮り続け、本社にフィードバックを返した。「フィルムが使いづらかったから、逆に撮影スキルの差がはっきり出た」とスモロコウスキは言う。
 インポッシブル・プロブェクトには三〇〇〇人ほどの「パイオニア」がいた。フィルムの品質が上がると、新しくて懐かしいものを探していた若いファンが買ってくれるようになった。(略)
[三年もしないうちに]新しい種類のインスタントフィルムを開発し、同時に懐かしい体験に近づける商品ができた。写真はより鮮明になり、現像時間は短くなり、色彩はきれいになった。「もうポラロイド写真じゃない」とスモロコウスキは言う。「あり得ない[インポッシブル]写真なんだ」
(略)
二〇〇八年の終わりにポラロイドは倒産した。破産手続きから更生したポラロイドは、以前とは違う会社になっていた。ポラロイドらしい最先端のテクノロジーと専門性は失われていた。工場は閉鎖され、科学者は新しい仕事に移り、販売網は崩れていた。残ったのはポラロイドの名前と熱心なファンだけだった。
 新生ポラロイドは、八○年にわたって開発されてきた知的財産権を管理する持ち株会社だ。ポラロイドの名前、ロゴ、ポラロイドの象徴である白地に紅色の縞模様が、この会社の主力商品だ。サングラス、Tシャツ、カメラ、写真プリントサービスなどにポラロイドのロゴがついている。
 インポッシブル・プロジェクトは、ポラロイドの精神を借りているだけで、ポラロイドの組織とは関係ない。ポラロイドからライセンスを受けているわけではなく、正式な契約関係もない。それでも、インポッシブル・プロジェクトの存在はポラロイドにとってありがたいものだ。インポッシブル・プロジェクトによって、ポラロイドというブランドが若い消費者に注目されたからだ。一般の人の意識にのぼることが戦略として最も重要なのだ。
 「ポラロイドの懐かしさに人は引き寄せられる。あの形、あの名前、あの縞横様にね。それが心に響くんだ。ファンは珍しいものを見かけて嬉しくなる。『あれ、ポラロイドじゃん』みたいな感じで。すぐにわかるし、そこに惹きつけられるんだ」そう言うのは、ポラロイドブランドの商品を開発してきたドブ・クイントだ。
 最近は、さまざまな下請け会社がポラロイドカメラを製造している。下請け会社はおカネを支払って、ポラロイドのブランド名を使わせてもらう。たとえおカネで買った名前でも、ポラロイドというブランド名がカメラに歴史を与えてくれ、伝統の一部のように思わせてくれる。(略)
昔のポラロイドカメラと契約上の関係しかないことを気にするファンはほとんどいない。「ポラロイドを持ったことのない若い人たちが、親やおじいちゃんおばあちゃんから話を聞いて、『すごい欲しい!めっちゃレトロでビンテージじゃん』ってなる」とクイントは言う。
 ポラロイドが二度目の破産を宣言してから三年後の二〇一一年、コアブランドが主催するブランドカ調査で、ポラロイドは八二位に入っていた。サムソン、ベライゾン、マリオット、イーベイよりも上だった。今のポラロイドは世界で最も強力なブランドのひとつで、純粋に名前の力だけでその地位を維持している。

第8章 ファンダムが炎上するとき

[2014年]イケアは、ジュールス・ヤップというブロガーに削除命令を送り付けた。ヤップはイケアハッカーズという大人気サイトを運営していた。このサイトはイケアの家具を、創意工夫で新しい意外なデザインに変えるための手助けをし(略)一〇年以上も続いた長寿サイトになっていた。
(略)
 「イケアが商標を守ることにわたしとしては異論はないけど、もっとうまく対応できたと思う」とヤップはワシントンポストに語った。「わたしはただの一個人で、会社じゃない。明らかにイケアの味方のブロガーだしね」(略)たとえば、イケアのホームページと見まがうような紛らわしい名前のサイトを勝手に運営していたら、削除命令を送りつけるのは理にかなっている。だがファンサイトを運営するブロガーの場合は、たとえそこでおカネを儲けているとしても、丁重な手紙を送って対話を始めた方がいい。ヤップの弁護士はイケアと交渉し、商業利用でなければサイトの運営を続けていくことが許された。この合意が発表されると、サイトのファンたちは歓喜した。(略)
コリイ・ドクトロウは、イケアの対応をこき下ろした。「イケアの削除命令は、法的にはとんだお笑い草だよ。商標違反なんてないんだ。イケアの名前を、純粋な事実として使ってるだけだからね。イケアハッカーズ上でおカネがやり取りされていること(イケアの弁護士はここが一番気になっていたようだ)は、商標の利用と切り離して考えるべきだ。ハッカーズを、イケアのサイトだと勘違いしたり幻想を抱いたりする人はいない。削除命令は単なるいじめだし、検閲みたいなものだ……」
 ヤップが削除命令を公にしてから一週間もたたないうちに、イケアはそれを引っ込めることになった。「イケアハッカーズの状況に関して、非常に申し訳なく思っています」イケアはヤフーの記者にそう語った。ヤップはイケア本部に招かれ、イケアの商標を所有するインターイケアシステムズのCEO――なんとCEO――に会った。最終的にヤップはサイトの継続も、広告とそのほかのすべても許されることになった。
(略)
 ヘーゼルナッツペーストとして人気のブランド、ヌテラの製造元フェレロ社もまた、二〇一三年に同じような状況におちいった。「ファンページの中にヌテラの不適切な使用が見つかったため、商標保護のための慣習的な手続きが取られてしまいました」とフェレロ社は言っていた。(略)
かなり長い間、ヌテラアメリカではあまり知られていなかった。二〇〇七年にイタリアに在住していたアメリカ人のサラ・ロッソはヌテラの大ファンになり、アメリカでヌテラが知られていないことに驚いた。「こんなにおいしいのに、どうして全世界で人気になってないのかしら?」と思った。ヌテラは英語のサイトがなく、アメリカでは一部の人たちだけが専門食材店に行ってヌテラを探していた。
 ロッソはこのお気に入りのペーストを全世界に広めたいと思った。そこで、世界ヌテラデーを作ろうと思い立ち、ブログを通してそれを拡散した。まもなく食品ブロガーたちが、ヌテラにまつわるレシピや歌や詩や動画などを、ここに投稿するようになった。フェレロ社にとって、その価値は計りしれないほど大きかった。グーグルでのヌテラの検索数は右肩上がりに増え続け、毎年二月五日の祭日の前後で急増した。二〇一二年のはじめ頃には、ロッソと共同運営者のマイケル・ファビオは『ヌテラ非公式ガイド』を出版した。ふたりによると、これがはじめて英語で出版されたヌテラ本だった。
 ロッソのこれほどの努力に対して、フェレロ社の法務部門は削除命令を送りつけ、「ヌテラの名前、ロゴ、それに関連するもの」の利用をただちにやめるよう通告してきた。ロッソはショックを受けた。「ファンとしてやっていたことです」ロッソは当時ハフィントンポストにそう説明していた。「わたしにはフルタイムの仕事があるんです。おカネ儲けのためにブログをやってるわけじゃありません」
 「削除命令だって?そんならフェレロの商品なんてこっちからお断りだ」ファンのデイブはそう書いた。別のファンのアリソンは、買ったばかりのヌテラの箱をスーパーに返品した。「返品の理由を聞かれたから、例の削除命令のせいだって言ったのよ。そしたら、わたしだけじゃなかったわ」アリソンはそう書いていた。もう何年も世界ヌテラデーのイベントを好意的に報道してきたアメリカのマスコミは、このおいしいネタに飛びついた。フェレロ社の代表者が数日後ロッソに電話をかけ、削除命令を取り消すことを伝え、これまで通りサイトは運営を続けられることになった。