昭和と歌謡曲と日本人 阿久悠

第5章以外は、主に音楽に関係ないエッセイ。
上村一夫が上京した和田アキ子に会って「有馬稲子にそっくり」と言ったてな話も。

昭和と歌謡曲と日本人

昭和と歌謡曲と日本人

  • 作者:悠, 阿久
  • 発売日: 2017/11/14
  • メディア: 新書

無名の意地――「朝まで待てない

 鈴木ヒロミツさんの訃報は病院で知った。従って、通夜も葬儀も行けなかった。悔いがのこった。
(略)
その昔を知らない人のためにぼくは断言する。鈴木ヒロミツはロック歌手だったのだ。
(略)
既にグループサウンズの大ブームに翳りが見え始めてきた頃に、老舗のレコード会社が重い腰を上げてデビューさせた(略)
 遅れて来たグループサウンズの三つは、ザ・ダイナマイツ、ザ・サニーファイブ、ザ・モップスで、三組の作家が競い合わされた。
 ダイナマイツは橋本淳、鈴木邦彦が「トンネル天国」を、サニーファイブは、岩谷時子いずみたくが「太陽のジュディー」を書き、この二組は売れっ子だった。そして、モップスを書いた阿久悠村井邦彦はというと全くの無名で、しょうがない、無名の意地で挑むかと、ぼくらはかなり力んだ。

「ざんげの値打ちもない」

 この年1970年、ぼくはなぜか恐かった。世の中は浮かれの風が吹いているのに、ぼくには、重層的にこの世をこらしめるものが混じっていると、思えてならなかったのである。(略)
[大阪万博で]日本は明るかった。ただし、その二カ月後、戦後文壇の寵児三島由紀夫(略)割腹自害した。
 ぼくは明るさの中の暗さ、はしゃぎの中の恐さはこれかと思った。そして、恐さのシンボルは日本刀だった。
 ぼくは、父の遺品、警官だった父が戦前、剣道大会に優勝して得た一振りの刀を、他人の手に渡るのも恐く、また、自身が手にすることも恐く、油紙に密閉し梱包し、他人の蔵に預けたのである。
(略)
その頃ぼくは、北原ミレイという女性歌手の作詞の注文を受けた。意欲的にどうぞと言われた。(略)歌は抜群だから問題作をという注文だった。
 ぼくは、ぼくの心を捉えている1970年の暗さはこれだと思った。これだと思いながらも、なかなか具体的な暗さにつき当たらなかったが、その頃偶然に写真集を見た。
 冷え冷えとした石畳の坂道に、黒衣の女が蹲っているものだった。キャプションはなかった。倒れたのか祈っているのか、祈りに向かうのか、祈りの帰りのダメ押しかわからなかったが、「ざんげ」という言葉を思いついた。「ざんげ」から「ざんげの値打ちもない」に移るのは、ぼくに劇画原作者のキャリアがあったからかもしれない。
 四十五歳で夭折した劇画家上村一夫と若い頃、デビュー作「パラダ」をはじめ、「セクサス48」「スキャンドール」「俺とお前の春歌考」「男と女の部屋」「ジョンとヨーコ」などを書いていたから、物語性の強いもの、それも一代記ものを歌にしてみたかった。
 十四歳の少女が孤独に耐えかねて男の部屋へ転がり込む。十五歳の雨の日、安物の贈り物で結ばれ、愛を得ようとする。十九歳狂熱の夏、裏切った男をナイフを持って待っている。そして、そして、年月が過ぎて女は石畳の坂道にいる。そして呟く。〽ざんげの値打ちもないけれど、私は話してみたかった……と。
 その後彼女には「棄てるものがあるうちはいい」「何も死ぬことはないだろうに」を書いたが暗いと言われた。

また逢う日まで

 その頃、1971年には、作曲家の筒美京平は既に肩で風切る存在だった。ぼくはというと、それと比べるとはるかに地味で、風を待っていた。
 この二人を組み合せた人がいた。当時、音楽出版社日音の社員だった恒川光昭氏で、早稲田のグループ、ザ・リガニーズ(海は恋してる)の弟分の、エ・ビガニーズの曲を、筒美・阿久で書いてくれということになった。
 ザリガニの弟分でエビガニかと笑いながらも、ぼくは「明日では遅すぎる」というのを書いた。この作品がどうなったのか不明だが、それが縁でズー・ニー・ヴーの三作目を、同じコンビで作詞作曲することになる。
 時代は、70年安保に挫折した青年が、明日はどっちだと迷っていた頃で、ぼくは、「ひとりの悲しみ」と「未成年」を書き、どうだと思った。自信があった。だが、売れなかった。全くと言っていいほどに。
 しばらくして、また恒川氏から連絡があり、「ひとりの悲しみ」は捨て難い、新しく歌える歌手もいる、ついては、もう少し明日を感じさせる詞に書き直してくれないか、ということであった。ぼくは珍しく賛同した。予感があったのかもしれない。
 「ひとりの悲しみ」を「また逢う日まで」にした。
(略)
[レコード大賞獲得後]
恒川光昭氏と話した。どうであれ、二度目のオツトメで大賞とは、サクセス・ストーリーだねと言うと、彼は具合悪そうに、実は三度目のオツトメなんだと笑った。
 元々、ルームエアコンのCMソングとして書かれたものらしい。それがうまく行かなくて三度目になった。一度目のサビは、〽サンヨールームエアコン……と歌うようになっていたとバラした。

「京都から博多まで」

 ビクターレコードに磯部健雄さんという名物ディレクターがいた。グループサウンズを境にして時代が大きく変わったので、ぼくらから言わせると一つ前の時代の人だった。だが、巨匠には違いなく、まあ、敬して遠ざけるという感じで、ぼくは別の場所にいた。(略)
雪村いづみ浜村美智子青江三奈、森進一を育てたといわれると、静かにしている他はなかった。
 レコード会社のロビーの一隅に巨匠の定席があった。彼はいつもそこにいて、蜘蛛の糸に蝶がかかるのを待つように、気になる作家や歌手を見かけると、手招きするのであった。ぼくはなかなか手招きされなかった。可愛くなかったのであろう。だから、ぼくも近寄らなかった。音楽が違うとひそかに思っていた。
 それがある日呼ばれた。おいでおいでと手招きした。「君は大賞を取って、他にもヒットを出して一番だと思っているかもしれないけど、作曲の猪俣公章の方が二倍も三倍も稼いでいるぞ。やっぱり演歌を書かなきゃ商売成り立たん」と言われたのである。つまり、挑発されたのだ。(略)
森進一や仲雅美の物を数曲書いたが、褒められた割りにはA面に使われなかった。ムッときたが巨匠なら仕方ないかなと思う。
 その後、おそらくは磯部健雄を経て猪俣公章だと思うのだが、藤圭子の発注がきた。(略)
[名前の印象から]ずっと年長の人だと思っていた。羽織袴で現れるのではないかと思っていたが大違いで、チリチリのパーマに、スケスケのシャツ、縦ジマのパンタロンにブーツ姿で、銀のウイスキー入れを手に登場したのである。「演歌かあ」という思いはそれでなくなり、気安く話してみると一歳年少であることもわかって驚いた。そして、「俺さ、ビクターの廊下の長椅子に腰掛けて、仕事待ちしていたこともあるんだよね」という話などもした。ぼくはなぜか、この人は新しい人なのだと思って、「藤圭子書きましょう」と答えた。
 藤圭子はそれより二年前、「圭子の夢は夜ひらく」で薄倖の美少女の怨歌を歌って、社会現象になっていたが、もはやその世界では売れなくなっていた。
 ぼくは引き受けて帰り、さてどうするかと考えた。立ちつくす女も、うずくまる少女も駄目とすると、主人公を移動させるしかないと「京都から博多まで」を書いた。演歌のA面第一作である。そして、それが売れ、猪俣公章とは「冬の旅」「さらば友よ」ら森進一作品につづくのである。
(略)
 浅間山荘に叩き込まれた巨大な鉄球が、今も目に浮かぶ。

京都から博多まで

京都から博多まで

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あなたに逢えてよかった――

あの鐘を鳴らすのはあなた

 和田アキ子に関しては、少々のエピソードがある。大阪から上京して来る、とてつもない大型歌手を迎えに行ってくれと言われたことである。(略)
[のちに社員が]伝説の新人の武勇伝を恐れていただけの話だということがわかる。(略)
 その時ぼくは銀座の喫茶店で、劇画の原作を懸命に書いていた。第一、それを受け取りに来た劇画家上村一夫が、まだかまだかと目の前にいるのである。
(略)
その時、何を思ったのか上村一夫が「ぼく代理で行って来ましょう。その間に原作が上がるでしょう」と出掛け、帰って来るや興奮して「有馬稲子にそっくりだ」と告げたのである。
(略)
 出会いの時のドタバタめいた印象とは別に、ぼくは和田アキ子を、それこそとんでもない歌手と思っていたから毎回、レイ・チャールズにするか、エルビス・プレスリーにするか、いずれにしろ大型歌手をイメージしていた。だが、ぼくのは売れなかった。最初に売れたのは大型とは無縁の「笑って許して」で、何だか世の中に肩透かしを食った気になったものだ。
 その後、若手の都倉俊一と組んで「天使になれない」と「夜明けの夢」を書き、これはかなり売れたので、ぼく自身の信用を回復することにもなった。
 そして、あの仕事の発注が来る。堀威夫氏から「アッコにもそろそろ賞を取らせたい。ついては、それに見合う大きな歌、たとえば『ケ・サラ』のような人生を歌うものを作ってほしい」と言われたのである。
(略)
希望の存在を書きたかった。〽あなたに逢えてよかった……と言いたかったのである。

「どうにもとまらない」

 舌ったらずの歌い方を、叩きつけの発音に徹底的に改造したのは、都倉俊一である。全体のコンセプトとして、アラビアンナイト的シリーズを出したのは、僕の筈である。(略)
タイトルは「恋のカーニバル」とぼくが付け、あまりに平凡なので、詞の中のいちばんインパクトの強い部分の「どうにもとまらない」をタイトルにした。
 そのことによって、時代性をもつのである。(略)株式欄に株価高騰を「どうにもとまらない」と書かれ始めたのである。さらにそれが偶然といいながらつづく。
 「どうにもとまらない」「狂わせたいの」「じんじんさせて」「狙いうち」「きりきり舞い」「燃えつきそう」となるのだから、ぼくは、ユリ・ゲラーかと言われた。
 そして、何年か後、「燃えつきそう」が最後になるのは、第四次中東戦争によるオイルショックである。
 時代と寄り添いながら出来た歌、時には時代を無視しながら作った歌が、時代を摑まえることもあるのだ。

素人を起用するのが趣味の久世から二度の依頼。なかにし礼の刺客に刺し殺されるブランコで遊ぶヤクザ役と、生き別れになっていた小泉今日子の瞼の父親の豆腐屋の役。オクビョウモノでと断った。

五番街のマリーヘ」

[二週間7万円の会費で女性だけの洋上大学を企画。ニッポン放送社長石田達郎が]一万三千トンのさくら丸を用意してくれたのである。
(略)
 「五番街のマリーヘ」が完成したのが、月の降る新潟沖を航行中で、都倉俊一の弾くピアノに合わせて、数百人の女性が合唱し、なかなか感動的なものであった。
 この気分とはよそに、時代は、「日本沈没」「ノストラダムスの大予言」雑誌「終末から」「破滅学入門」などが大ヒットし、冗談で済まない空気が暗く流れていた。
 そんな時、×年×月×日×時破滅という風評があり、たまたまその日が最大プロダクションの大物たちのスケジュールが入っていないという偶然も重なってパニックになった。あそこなら政府筋からの情報を取れるであろうということである。
 ×日×時、気色が悪いのでぼくらは収録を中断してスタジオの外に出たが何ごとも起きなかった。妙な一日であった。
 「五番街のマリーヘ」へ戻る。さくら丸が横浜港を出港して間もなく、地上では、韓国の次期大統領候補、金大中氏が日本のホテルから拉致されていたのだ。「終末から」よりはるかにリアリティがあった。
 「五番街のマリーヘ」はそんな時代の中の叙情歌である。

「悲しみとの決別」の空気――

「恋のダイヤル6700」

フィンガー5はコメディアンの世志凡太氏が連れて来たように思う。(略)初対面で、「企画から二十年の傑作です」と言った。つまり、二十歳をアタマにした五人兄弟、いわば和製ジャクソン5がようやく完成したのですよと、自信満々であったのである。
 ぼくはバラエティ番組などもやっていたことがあるので、世志凡太氏のことは知っていた。世志凡太とモンスターズというコミックバンドで、かなりテレビ出演も多く、彼は歌とウッドベースをやっていた。
(略)
 ぼくと都倉俊一は、話だけではさほど乗り気ではなかったのだが、スタジオでテストを行い、リードボーカルのアキラという少年――幼年か――の声を聴いたとたんに、思わず親指を立てたほどである。(略)とんでもないものが転がり込んで来た気がしたのである。(略)
[前年の返還で]一種の沖縄ブームが起こっていた。ぼくも沖縄海洋博の壮大なテーマソング「珊瑚礁に何を見た」というのを書いていた。
 ぼくの「白いサンゴ礁」を返還を見越した目ハシのきいた作品だと深読みしてくれる人もいたが、実はあれに関しては全く沖縄をイメージしていなかった。むしろ、意外に思われるだろうが、「人間は美しい物を見た時にウソがつけなくなる」がテーマだったのである。とすると、炎熱の沖縄より静寂の京都の龍安寺の方がそぐうのだが、それだと歌に合わない。「白いサンゴ礁」は結局そのどちらに引っ張られることもなく、心地いいカレッジフォークに仕上がり、ぼくのものとしてはまあ売れた部類に入った。
 さて、フィンガー5は、天才少年に感心しようがどうしようが、ジャクソン5のコピイであった。コピイはコピイ、歴史は作れない。何か彼ら独特のキャラクターを作りたかった。(略)
 そこでぼくは、アメリカの何セントかのコミック雑誌のようなロックンロールを作りたいなあと言い、都倉俊一の賛同も得た。
 それが、ローラースケートに乗り、ポップコーンを頬張り、時に、ソフトクリームを舐める学園物になったのである。成功した。彼らには従来の沖縄の歌手と違う、「悲しみとの決別」の空気があったのである。

「さらば友よ」

当時日本テレビ渡辺プロダクションは全面戦争の関係にあり、ぼくは「スター誕生!」も含め日本テレビ側のブレーンと思われているフシがあった。
 だから、沢田研二も、森進一も、小柳ルミ子も、天地真理も、布施明も、アグネス・チャンの作詞も諦めていた。
 ところが、森進一を依頼された。(略)
その時の作品は「冬の旅」といった。おそらくは森進一初の男言葉歌で、そこでもめた。ぼくはどうしても、男が「あたし」と歌うのは生理的にがまんならないものがあったのである。
 不思議な時代であった。ほとんどの男性演歌歌手が「あたし」と歌い、ネオン街文化の形をつくっていたのである。あの現象は何だったのであろうか。

さらば友よ

さらば友よ

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「ひまわり娘」

 東京の夜が真暗になったことがあった。電力制限である。(略)石油ショックの狂騒曲の始まりである。
 1973年から翌年にかけてで、まさに暗い時代を迎えたのである。そして、その社会の空気に反発するように「ひまわり娘」が誕生した。いや、させた。(略)
 伊藤咲子は、予選では「漁火恋唄」といった抒情演歌で合格したので、このままでは森昌子の系列か、小柳ルミ子のラインかと思われていたのだが、企画で全く違う歌手の道を歩むことになった。
 彼女を落札したのが、東芝EMIの渋谷森久氏と、オフィス・トゥー・ワンであった。オフィス・トゥー・ワンにはぼくがいる。普通のことをやるわけにはいかないと、知恵を絞った。そして、中学生のデビュー曲を、外国人の作曲、編曲しかもロンドンでのレコーディングという案を出したのである。「暗いからさあ、派手なことをやって、パッと明るくしなきゃあね」(略)
 怪人とも天才ともいわれた渋谷森久氏はそこから本領を発揮し始める。作曲は、東京音楽祭にイスラエル代表で出場していたシュキ&アビバに、ぼくが「愛情の花咲く樹」を書いた縁で、シュキ・レヴィに作曲を頼んだ。
(略)
 暗い時代は同時にテロの時代で、ぼくらは空港ごとに足止めを喰った。特に、ぼくと伊藤咲子がいけなかった。ぼくは当時如何にもゲリラらしくて仕方がないのだが、伊藤咲子は何を警戒されているのか、それはロンドンヘの労働力の流入を警戒しているのであった。「彼女に何をさせる気だ」とぼくらは笑った。
(略)
[曲はヒットしたが]気になるのは、イスラエル出身のシュキ・レヴィの作曲印税が受け取り手不明で返されて来るという話である。

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