アジア再興・その2 梁啓超、タゴール

前回の続き。



アジア再興 帝国主義に挑んだ志士たち
作者: パンカジミシュラ, 園部哲
メーカー/出版社: 白水社
発売日: 2014/10/25

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アメリカの梁啓超

[差別虐待されている在米中国人が祖国の自強運動を支援しないことに失望]中国系アメリカ人たちは同族中心主義を好むのだった。彼らは伝統にしがみついて犯罪組織とマフィアの親分を生み出すだけで、自分たちを代表してくれる政治組織やリ−ダーを押し立てようとはしない。梁啓超は書く。「中国人にはムラ意識はあるが国家意識はなく…国家を建設するときの障害になっている」
 梁啓超にとって、中国人が自己覚醒し民族自決の意識を持った個人になれずにいるのは、専制体制ばかりが原因だとは言えなくなってきていた。「アメリカは国民全員の自由意志で作り上げられた国なのだろうか?ひと握りの偉大な人物が万夫に押しつけたもののようにしか、私には思われない。自治に慣れ親しんだアメリカ人においてすらそういうありさまなのだから、ほかの民族はよほど心してかからなければならない」
 革命が民主主義と自由を約束したところで、中国では混沌が生まれるだけであり、西洋列強に対峙できるような国民国家は生まれてこない。(略)
 もはや勝手な思い込みでめまいを起こしたりはすまい。すばらしい夢を語ることももうやめよう。端的に言えば、中国人はとりあえず権威主義的な統治に従うべきなのだ。鉄と炎で鍛えられて鋳型にはめられた彼らには自由を満喫することができない。彼らは、今後二十年か三十年、あるいは五十年後に私が理想とする市民になるだろう。そうなってからだ、私が彼らにルソーを読ませ、ワシントンについて語り聞かせるのは。
 梁啓超が突然心変わりしたというわけではない。彼も暮らしたことのある明治日本の成功は、近代的な国家建設のためには自由で民主的な組織よりも権威主義的な体制のほうがずっと効果的であることを証明していた。ヨーロッパの国々が保護貿易主義に走り、強力な国家を築いてからというもの、東アジアの多くの知識人たちは考え方を変え始めた。1890年代末までに、元来自由改革論者だった徳富蘇峰は、西側諸国自身が個人の権利を放棄しつつあると確信していた。(略)梁啓超ビスマルクのドイツによって具現化された国家主義に惹かれ始めた日本人知識人の動向に影響されるのは、ほぼ不可避であった。
 その頃までに梁啓超は日本人の理論家、加藤弘之を大いに読み、彼について語っていた。加藤は、開明専制のみが国の漸進的発展を約束し、西側からの攻撃に対して国家存立を確保するものであると信ずる多くの日本人思想家の一人だった。加藤弘之によれば、共和政体はそれを生み出した国々においてすらうまくいかなかった。フランスは革命後たいへんな暴力にさらされ、いまだに安定した政治構造を得ていない。
(略)
 もしアメリカのような、かつてあれほど連邦制を崇拝した国でさえ、軍備のために高度な中央集権を必要とするならば、中国のような国は何をすべきなのか?梁啓超の見解では、中国には政治体制の選択肢などなかった。虚弱で無力な政府、巨大な国土に散らばり貧弱な教育しか受けない、さまざまな民族から成り立つ人民、といった状況では専制体制が必須だった。民主主義的な共和国などができたら、すぐに軍部と民衆が、下層階級と上層階級が、ある地方と別の地方が戦争を始めるだろう。革命も頻繁に起き、外からの脅威に対処するために中国国民にとって必要な、公益保持のための力と献身がむしばまれていく。(略)
光緒帝などは梁啓超が思い描く開明専制君主ではない(略)だが梁啓超はなんとしても、孫文が煽動したようなたぐいの共和主義革命の芽だけは摘んでおきたかった。というのも彼が見るところ、革命は無政府状態と混沌につながるだけで、しまいには新たな暴君を生み出してしまう。梁啓超が求めていた根本的な変革というのは、中国人民を横につながった市民集団にまとめる中央集権国家であり、それは寛容な専制体制によってのみ達成できるものだった。
(略)
[梁啓超辛亥革命の熱狂から距離をおいていたが]袁世凱の甘言に乗せられて司法総長、そして彼の財務顧問になった。(略)
袁世凱は国家統治イデオロギーとして儒教の復興を試みたが、その企てに手を貸したのは康有為だった。(略)
[袁世凱は日本に]屈服し、一般の中国人は恐怖のどん底に突き落とされた。日本に借金をしている中国という現実のなかで、彼はほかにどうしようもなかったのである。その翌年、彼は中国皇帝に即位し、新たな朝廷の幕開けを宣言しようとしたが、軍閥を含む激しい反対に遭って退くことになった。
 それ以上国に損害を与える前に、袁世凱は1916年に死ぬ。彼の死とともにうわべだけの政府も雲散霧消する。中国の大部分が軍閥と無法者によって千々のなわばりに分割された。(略)[それは現在の]タリバン政権以前のアフガニスタンによく似ていて、海外から運び込まれた武器が国内にあふれ、かつてのエリートが武装勢力と取引をし、一般人は恣意的な課税や財産没収によって被害を被るだけ、という状況であった。
(略)
袁世凱なきあとの中国で荒々しく揺れた振り子のひと振りによって、ついに梁啓超は追い立てられ、政治の舞台から引退することを余儀なくさせられるのであった。

レーニン

 フランスからやってきた植民地主義者に不信の念を持つホー・チ・ミンは、ウィルソンが唱道する国民の自決権に感激した。彼はパリで大統領に個人的に面会しようとし[当然失敗](略)彼の夢と消えた作戦は、多くの反植民地主義運働家や思想家にとっての底本となっていくレーニンの『帝国主義論』の内容を、実証するような出来事だった。1916年に書かれたこの小冊子は、ウィルソン大統領がパナマからアメリカ軍を撤退させる可能性がないのと同じく、ベトナム人インドシナを取り戻させるようなことはありえないことを裏づけていた。(略)
レーニンは、ペンを振るうだけには終わらなかった。1917年に権力を握ってすぐ、彼はフランスと英国と帝政ロシアのあいだで交わされた中東分割の密約を暴露した。レーニンはまた、ロシアが西洋列強や日本とともに中国で享受していた特権を自主的に放棄した。レーニンがとった行動は、ベノイ・クマール・サルカールの著述によると、「並はずれた、途方もなく超人的な、新しい国際倫理の布告」にほかならないと、アジア人の多くが見なした。ソ連のリーダーは、民族自決の実践要請において、ウィルソンの機先を制したのである。
(略)
レーニンは次のように言う。「われわれの闘争の帰結を左右するのは、結局のところ、ロシア、インド、中国などが人類の大半を占めているという事実である」。

タゴール

私たちの兄[インド]は千年以上も「情愛深く懐かしい」存在でしたが、今やっと弟[中国]を訪ねてくれました。私たち兄弟はかくも多くの窮状を堪え忍び、髪にも白いものが交じり、涙をぬぐった目で互いに見つめ合っても、夢かうつつかわからぬ始末。兄の姿を見ていると不意に、過去の年月に体験した苦しみを思い出してしまいます。 梁啓超1924年タゴールを中国に迎えて)
(略)
 19世紀の終わりから20世紀初頭にかけて、中国人の多くはインドのことを典型的な「亡国」と見なしていた。
(略)
ボンベイ出身のパルシー教商人は英国の中国向けアヘン輸出の仲買人をやっていたし、義和団を鎮圧する英国を手助けするインド人兵士がいた。また、上海などの条約港にいるシーク教徒の警官は、しょっちゅう英国人のボスにけしかけられて中国人群衆に襲いかかっていた。
(略)
 徳富蘇峰は、第一次世界大戦を世界制覇をねらう西欧の内輪喧嘩と見ていたが、勝敗のゆくえがどうであれ、日本を取り巻く環境に面倒が起きることを懸念していた。日本は、欧米の支配を未然に防ぐために東アジアへ歩を進めなければならぬと書く蘇峰には、大川周明のアジアモンロー主義に共鳴するところがある。これら超国家主義者でもある汎アジア主義者たちは、アジアがヨーロッパ人支配者から解放されて日本人がこれを活性化することを夢見始め、タゴールを、アジア全域にわたる親日的な自由解放運動の格好の協力者と見ていた。
 だが、それはタゴールヘの片思いであった。彼はインドを発つしばらく前から、日本の進行について危惧を抱き始めていた。「日本がインドを欲しがっているのはほぼ確実だと思います」と、彼はイギリス人の友人に手紙を書いている。「日本は飢えています。韓国をむしゃむしゃ食っている最中ですし、中国にはかぶりつきました。日本が次の食事の機会を得る日、それはインドにとって不運の日となるでしょう」。ラングーン、ペナン、シンガポールと、アヘン取引にたずさわっていた祖父の足取りをたどるかたちになった長い道中、彼の気分はすぐれなかった。立ち寄る港の先々で、空を汚す煙突、光と騒音を目の当たりにし、彼は「世界を我欲で切り裂く貿易の怪物」を、口をきわめて罵った。香港では、中国人労働者を叩きのめすシーク教徒を見て愕然とする。
 香港でせっせと働く中国人労働者を見ながら、彼は未来の国際関係上の勢力の均衡について鋭い予言をした。「現在、世界の資源を保有している国々は中国の興隆を恐れ、その日の来るのを先延ばしにしたがっている」。(略)
「新しい日本とは西洋の模倣であります」と彼は、日本の首相をはじめとした高位高官が出席する東京での公式歓迎会で表明した。この演説は聴衆の不評を買った。(略)
 故国に送った長い手紙のなかで、タゴールは、彼の忠告を日本人たちが「負け犬の詩」として歯牙にもかけなかったのはとても「正しい」ことだったと辛辣な書き方をした。
(略)
 1923年にタゴールの訪中が決まるやいなや、中国人知識人のあいだで議論が噴出した。急進派の小説家、茅盾などは、かつてタゴールを翻訳したことがありながら、彼が中国の若者に与えかねない有害な影響を心配していた。「われわれは東洋文明を声高に称賛するタゴールを歓迎しないことに決定した。国内では軍閥から、国外では帝国主義者から虐げられているわれわれには、夢を見ている時間はない」と書いている。ホスト役としてタゴールを迎えた梁啓超はすでに若い急進派の攻撃を受けていた。(略)
タゴールは「うちに帰れ、亡国の奴隷!哲学は不要、物質主義が必要!」などと大書したスローガンに迎えられた。(略)
タゴールのことを、西洋の知識に対して一歩も譲らぬ敵対者と見なすことは、彼の世界観を間違って解釈することになる。(略)「われわれの心と精神を西洋から遠ざけようとするわれわれの現下の闘争は、精神的自殺を試みているようなものです」[とガンディーの自由運動をけなしているし](略)
中国の急進派に描かれたカリカチュアと違って、ロシア革命のような、新しい社会的・政治的実験を評価する姿勢があった。
(略)
中国から日本へ渡ったタゴールは(略)[排日移民法により]その後二十年間にわたり日本に吹き荒れることになる反米感情の第一の波を惹起した。(略)
「さて、世界大戦のあと、あなたたちは国家精神を非難する声、人々の心を硬化させた集団的エゴイズムを非難する声、そういう声を耳にしなかったでしょうか?」(略)
自分たちのほうが道徳的に優れていると思っている西洋人たちについて、彼は語った。「民主主義を標榜しない私たちは、人間としての責任と信義を重視しているのです」と力説する。「しかしあなた方は、民主主義という偽りの名前を帯びた、何が何でも先天的に優越でありたいという信仰の病に伝染したがってはいませんか?」
 タゴールは過去の講演で受けた拍手喝采の記憶を引きずっていたのかもしれない。彼が初めてやってきた1916年の日本とは違って、1924年の日本ははるかに国家主義的な国になっていた(略)
 彼は黒龍会の精神的リーダーであった超国家主義者、頭山満に会った。頭山はアジア大陸への日本の拡張に専心し、アジアが陣頭に立って精神的復興をめざすというメッセージを繰り返し発していた。タゴールは、こうした汎アジア主義の提案者たちが、それよりも攻撃的なことを意図しているとは思ってもいなかった。
(略)
[1929年]日本へ戻ってきたタゴールは、日本が「西洋モデル」に従って帝国主義国になりつつある全容を理解し始めた。韓国から来た学生が、彼らの母国に加えられている日本人の残虐行為をタゴールに説明し、また直接聴取した中国の現状報告によって、1929年の時点でほとんど衰弱しきっていた同国に対する日本の侵略構想が明らかにされた。その機会に頭山満に会ったタゴールは、舌尖鋭く詰め寄った。「あなたはヨーロッパ帝国主義の病毒に冒されてしまっている」。頭山はタゴールをなだめようとしたが、二度と日本には来ないとタゴールは宣言した。(略)
 1935年、タゴールの古くからの親友、詩人の野口米次郎が彼に宛てて、日中戦争における日本側の支持を乞う手紙を書いた。それは「アジア大陸に偉大な新世界を構築する」ための手段なのだから、「アジアのためにするアジア」の戦争なのだから、と。タゴールは、野口のアジア構想は「しゃれこうべの塔」の上に築かれるのだろう、と返事をした。「確かににもっといい有効な道徳規範はどこにもなく、西洋のいわゆる文明的な人々も負けず劣らず野蛮だ」と書き添えた。しかし「私を彼らに差し向けたとしても、私には何も言うことはない」。野口は引き下がらず、中国における共産主義の脅威を指摘した。タゴールはこう返事をした。「私が愛する日本国民に、成功を祈ったりはしない。悔い改めることを期待する」
 このようにして、アジアの精神的文明復興の夢は潰えた。確かに「精神的」とはあまりに曖昧な言葉だった。(略)
 1938年、人生の晩年に近づきつつあったタゴールは絶望していた。「私たちは不幸な人間の群れだ。誰を仰ぎ見ればいいのだろう?日本に見入っていた日々は終わってしまった」。三年後に彼は死ぬ。中国でタゴールを迎えた梁啓超は、56歳という若さで1929年に死んだ。その四年前に康有為は死に、梁啓超は追悼の辞を述べ、かつての恩師を改革派の先駆者と讃えた。ベトナム人の潘佩珠は刑死を免れたがフランス人によって政治的に去勢され、1940年に古い王宮の町フエで没した。それぞれの人生の最後の十年間、国内自強運動の草創期にかかわったこれら唱道者の大半は、硬派の政治イデオロギーの興隆には冷淡になってゆき、自国内の政治に関与することはなくなっていた。ほかの地域、エジプト、トルコ、イランでも、失望したイスラーム近代派は強硬な共産主義者ナショナリスト原理主義者たちからわきへ追いやられた。(略)新しいタイプの好戦的ナショナリスト反帝国主義者が台頭しつつあった。彼らの多くは無我夢中になりやすい「東洋の学生」で、彼らについてタゴールは、最後のエッセイのある一篇で警告を発していた。
 国家利己主義という丹精込めて育てられた有毒な植物が、その種を世界中にまき散らし、東洋の青二才の学生たちを喜ばせている。なぜかというと、その播種から得られた収穫――永遠に自己再生を繰り返す対外嫌悪という産物――が西洋風の名前のついた仰々しきものだからである。偉大なる文明が西でも東でも繁栄したのは、いつも人間の精神をはぐくむ糧を生み出したからだった。……だがそうした文明も、昨今の早熟学生のようなタイプの男たちの手にかかって、ついには死に絶えた。頭がよくて、底の浅い批判が得意で、自分に惚れ込み、利潤と権力がからむ場所では狡猾な取引に長け、その場限りの事柄をあやつることでは腕が立ち……最終的には自暴自棄の激情に駆られて隣家に放火してみたものの、自分たちも炎に巻かれてしまったのである。
 1938年の時点では、芝居がかった表現に感じられたろう。だがタゴールは、日本によるアジア大陸の侵略を皮切りに、アジア全体に猛烈な憎悪が解き放たれることを異常なほどに警戒し、恐れていた。(略)
[1930年ニューヨークのパーティータゴールはこう認めた]「この時代は西洋のものであり、人類はあなた方の科学に感謝の念を表明しなければなりません」。しかし、と彼は言い添える。「あなた方は不幸な人々を搾取し、科学の恩恵を受けない人々を侮辱しました」その後に続く十年間に起きた出来事が証明するように、数多くのアジア人にとって、解放とはテーブルをびっくり返し、西洋の御主人に赤っ恥をかかせることと同義だった。この驚異的などんでん返しは誰もが予想しなかった早さで、またタゴールが懸念した以上の残酷さをともなって現実となった。そして日本がその主役となるのだった。

次回に続く。