アジア再興 帝国主義に挑んだ志士たち

プロローグ

日本海海戦の衝撃

(略)東郷平八郎率いる日本帝国海軍の小規模な艦隊が、極東をめざして地球を半周してきたロシア海軍の大半を撃滅したのである。百年前のトラファルガー以降最大の海戦、とドイツ皇帝に言わしめ、「前代未聞の驚異的な出来事」と米国大統領に言わしめたこの日本海海戦(略)
インド総督のジョージ・カーゾン卿が、「あの勝利の波紋は、雷鳴のごとく東洋のささやきの回廊を駆け抜けた」とすくみ上がった。超然として気の利かぬカーゾン、このときばかりは現地の人々の動向に探りを入れた。現地の声をもっともはっきりと代弁していたのは、当時南アフリカにいた無名弁護士モーハンダース・ガンディーで、彼はこう予言した。「日本の勝利というものがはるか遠くまで根づいてしまったので、どこでどんな果実を結ぶことになるか、それをすべて予見することはできない」(略)
[のちアタテュルク]ムスタファ・ケマル歓喜の絶頂にあった。西欧の脅威に対抗するためにオスマン帝国の改造と強化を切望していたケマルは、多くのトルコ人と同じように日本を鑑としてきたが、その正しさがようやく立証されたと感じ入っていた。16歳のジャワハルラール・ネルーは、生まれ育った田舎町で日露戦争の初期段階から新聞記事を追い、「ヨーロッパに対する隷属状態からのインドの自由、アジアの自由」を実現する自分の役割を夢想していた。(略)ドーバーから英国のパブリック・スクール、すなわち彼の母校となるハロー校へ向かう列車のなかで、たちまち「最高の気分」になった。中国の民族主義孫逸仙はこのニュースをロンドンで聞き、彼もまた狂喜した。(略)[帰国途中]彼を日本人だと思ったスエズ運河のアラブ人港湾労働者から孫文は祝福を受ける。
 トルコ、エジプト、ベトナム、ペルシア、中国の新聞は、日本の戦果がもたらす波及効果についての熟狂的考察で埋められた。インドの村々では、赤ん坊に日本の海軍大将の名前をつけた。米国ではアフリカ系アメリカ人の指導者W・E・B・デュボイスが、世界中でわき起こる「有色人種の誇り」について語った。平和主義者の詩人(その後ノーベル賞を受賞する)ラビーンドラナート・タゴールも、どうやら類似の情動に駆られ、対馬海峡からのニュースを聞くや、ベンガル地方の田舎にある学校構内で学生たちを率い、にわかづくりの戦勝行進を行った。
 そこには階級の差も人種の違いもなかった。世界中で隷属状態にある人々は、日本の勝利がもたらした道徳的かつ心理的な意味合いを、夢中になって理解しようとした。
(略)
 白人支配の南アフリカで制度化された人種差別と闘っていたガンディーは、日本の勝利からこれに似た教訓を引き出していた。「貧富を問わず、日本に住むすべての人が自尊心を持つようになったとき、日本は自由になった。日本はロシアに平手打ちをくれてやることができた。……それと同じように、私たちも自尊心を高く持つことが必要なのである」。
無能の専制君主と略奪者たるヨーロッパの実業家に苦しめられてきた大勢のアジア人にとって、日本の力強さの秘密は同国の憲法にあった。この手本で理論武装し、アジア中の政治的活動家は、硬直化した専制国家を相手にして一連の民衆主導の立憲革命を煽動した(敗戦したロシアも1905年に革命に転がり込む)。(略)ムスリム世界で日本を賛美する者は、青年トルコ党の亡命者で作家のアブドゥッラー・ジェヴデトのような世俗主義者、さらには反宗教的ですらあるナショナリストが多かった。ジェヴデトは日本のことをこう書いた。「抑圧者に立ち向かい、傲慢な侵略者に立ち向かう帯刀者。抑圧された人々、みずからを助ける人々に光明を授ける者」。日本の勝利に励まされたナショナリスト青年トルコ党は1908年、アブデュルハミトニ世に迫って、1876年以来停止されていた憲法を復活させた。ペルシア人たちは、立憲的な日本が専制的なロシアを負かしたのを見て、1906年国民会議を創設した。
 その同じ年、エジプトでは英国支配に対する最初の大規模なデモが行われた。エジプトのナショナリストムスリムにとって、日本は「日出ずる国」であり、それは傑出したエジプトのナショナリスト・リーダー、ムスタファー・カーミルが日露戦争直前に書いた本の題名でもある。世界各地のムスリム諸国の学生が、進歩の秘密を学ぼうと東京をめざした。
(略)
 もっとも広範囲にわたる変化が生じたのが中国であり(略)1905年以降は何千人もの中国人が群れをなして日本へ向かい(略)帝国没落後の最初のリーダーたちの多くは、この留学組から生まれている。1910年、中国湖南省の小さな町で、毛沢東という名の生徒は、日本に留学していた音楽の先生から教わった日本の歌を口ずさんでいた。
雀は歌い、鶯は踊る
春の緑の野は美しい
ざくろの花は紅に染まり、柳は青葉にみち
新しい絵巻になる
 それから数十年後、日本が中国を脅かしていたときに、毛沢東はこの歌をそのままそっくり思い出した。「当時、私は日本の美しさを知っていたし心を動かされもし、このロシアに対する勝利の歌のなかに、日本の誇りと力のようなものを感じ取ったものです」
 ほかの場所でも日本の勝利は、愛国的感情を奮い立たせただけでなく、それを過激主義へ向かわせもした。(略)
カーゾンが分割しようと計画していたベンガル地方の空気は、すでに過激なまでに反英国的になっていた。(略)1905年以降は暴動やテロ攻撃により、それが強固に(略)カルカッタダッカの急進派は、ベンガルの学生たちが東京へ行くのを資金的にサポート
(略)
ベトナムナショナリストの草分けである潘佩珠は1905年から1909年にかけて日本に身を落ち着け、彼が唱導する東遊運動(「日本に学べ」)の旗印のもとに、フランス領インドシナから来た大勢の学生からを教育した。(略)
カイロでは、のちにエジプトのムスリム同胞団に影響を与えた著作を書くことになるラシード・リダーが、日本をイスラーム国家に変える可能性と、ヨーロッパ人の想像の産物である「黄禍」を、邪宗徒からの解放をめざす汎アジア的な運動へ転成させることについて、熱っぽく書いた。(略)

第1章

ナポレオンとムスリム

フランスがエジプトを支配すれば、インドでのイギリス勢力への揺さぶりにもなるし、オスマン帝国に色目を使うロシアに対する牽制にもなる。「インドであぐらをかいていたイギリスをすくみ上がらせてやったあとは、パリに戻ってやつらに致命的な打撃を加えてやる」と、ナポレオンは宣言した。(略)
実を言うとフランス人もムスリムなのだ、と彼は主張した。われわれもキリスト教の三位一体論を否定しているのだから、と。(略)彼はエジプト人民を専制君主から解放する、などというたわごとをも口にしている。(略)
彼は預言者ムハンマドの誕生日になるとエジプト風の衣服で正装し、宗教とは無縁の部下の兵士たちがはらはらするのを尻目に、フランス人のイスラームヘの集団帰依をほのめかしたりした。ごますりタイプの(そしてたぶん嘲笑を込めて)エジプト人は彼のことを、ムハマンドの尊き娘婿の名にちなんで、アリ・ボナパルトと言いはやすのだった。これに力を得たナポレオンは、アル・アズハル・モスクでの金曜礼拝の説教を、彼の名において行ってはどうかと聖職者に示唆したりもした。
 敬虔なムスリムはびっくり仰天した。国政会議の議長だったシャイフ・シャルカーウィーはなんとか気を取り直し、こう言った。「(略)アラビアの栄光を再興したいとおっしゃる。ならば、ムスリムにおなりなさい!」ナポレオンはこうはぐらかした。「私と私の軍隊がムスリムになるには二つの障害があります。第一に割礼、第二にワイン。
(略)
 フランスの政教分離主義、そして共和主義のすばらしさをエジプトのムスリムたちに知らしめようとしたナポレオンの企ては、いずれも幸先が悪かった。カイロの住民はナポレオンによる都市景観の大改造とフランス人がもたらした堕落の弊を嘆いた。(略)「カイロは第二のパリになってしまった。女たちは恥ずかしげもなくフランスの男たちとうろつき回っている。人を酩酊させる飲み物が大っぴらに売られ、神がお許しにならないような行為がなされている」。
(略)
[ナポレオンに三色のショールを掛けられた]シャイフは神聖冒涜におののいて真っ赤になり、ショールをかなぐり捨てた。腹を立てたナポレオンは、ショールが気に入らないなら聖職者たちはせめて[フランス国旗の赤白青をあしらった]花形徽章を着用すべきだと主張した。かくして暗黙の妥協が成立した。ナポレオンが聖職者たちの胸に花形徽章をピンで留める。しかし、ナポレオンのもとを辞するやいなや、彼らは徽章をはぎ取るのだった。
(略)
 敵対的な村を焼き払い、捕虜を処刑し、道路拡張のためにモスクを取り壊すことも辞さぬナポレオンだったが、その後、他国で見せることになる残虐行為にふけることはあまりなかった。
(略)
 13世紀にモンゴルの侵略軍はこの自己完結した世界に乱入し、イスラーム古典期に荒々しく終止符を打つ。しかしそれから50年と経たぬうちに、モンゴル人はイスラームに宗旨替えし、イスラームのもっとも熱烈な擁護者となるのである。
(略)
クーファからカリマンタンにかけて遍歴学者と旅商人が行き来し、金曜礼拝がどこでも可能になり、イスラームは一ヵ所に縛られなくなった。
 まさに当時のイスラームは、現在の西欧的近代性と同じように普遍化したイデオロギーであり(略)14世紀の旅行家、イブン・バットゥータはインドの宮廷でも西アフリカでも、現代のハーバードMBA取得者が香港でもケープタウンでも容易に職を得られるように、難なく仕事を見つけることができた。
(略)
北アフリカ、インド、そして東南アジアに住むムスリムにとって、歴史とは彼らの道徳的、精神的、時間的な一貫性をつなぎ留めるものであり、神の構想が徐々に具現化されていく作業過程であると見なすことができた。(略)
[ヨーロッパ人を野蛮だと見下していたので]ナポレオンの勝利は理解不可能な事態を暗示するものだった。つまり、西欧人たちはまだ相当粗野なのに、着実に前進しつつあるということを。
(略)
[オスマン帝国清帝国とはちがい、近代ヨーロッパ帝国主義自由貿易不平等条約で囲い込んだ「非公式な」帝国であった]
福沢諭吉も1898年にその点を見抜いている。
 商業において外国人は金もあれば利口でもあるが、日本人は貧しく拙い。裁判となると、日本人は非難されることが多いのに、外国人は巧みに法律をのがれる。学問となると、われわれは彼らから学ぶよりない。財政面では彼らから資金を借りざるを得ない。外国人に対して、われわれは徐々に国を開き、文明化の進展はわれわれに適した速度で行いたいが、彼らは自由貿易の原則を主張し、わが国内部に即入国させよと言う。あらゆる事柄、あらゆる事業において、彼らが主導権を握り、われわれはそれに従うだけであり、到底平等ではありえない。

梁啓超

1895年初頭の清の敗戦直後、中国北部の海上で日本軍が清国の汽船を拿捕し立ち入り検査をした。(略)乗り合わせていた多くの学生のなかに、21歳の梁啓超という青年と彼の恩師、当時37歳だった康有為がいたことである。二人は科挙の会試を受けるために北京へ向かう途中だった。
 梁啓超は中国の近代的思想家として、最初の偶像的存在になっていく。彼の明晰かつ豊穣な著作は、彼が生きた時代のあらゆる問題を扱い、将来のさまざまな問題を先取りし、ずっと年若の毛沢東を含む幾世代にもまたがる思想家に希望を与えた。

[1903年]康有為がインドへ渡り、個人的な夢想の世界にはまり込んでますます政治的に見当違いの方向へ進んでいた頃、梁啓超は資金調達のためにカナダとアメリカヘ旅立った。アジアの外へ踏み出したこの大旅行は、彼の知的航路の分岐点になった。(略)
行程はバンクーバー、オタワ、モンタナ、ボストン、ニューヨーク、ワシントン、ニューオリンズピッツバーグ、シカゴ、シアトル、ロサンジェルス、サンフランシスコ。(略)
 当時のアメリカは開拓社会からヨーロッパ風の工業国への大転換を成し遂げつつある段階で、帝国の使命感というものを急速に身につけつつあった。(略)
[プリンストン大学の総長だったウッドロウ・ウィルソンは前年に『アメリカ人民の歴史』を出版]「外交、そして必要な場合には力を駆使して、市場への活路を開かなければならない。通商にとって国境はなきも同然であり(略)門戸を閉ざす国の扉は打ち壊さなければならない」。こうした経済帝国主義の戒律に則って、アメリカはすでに自分たちの裏庭カリブ海からスペインを駆逐し、東アジアでは腕力のあるところを見せつけていた。
(略)
梁啓超は銀行家でもあり実業家でもあったJ・P・モルガンやジョン・ヘイ国務長官の出迎えを受け、中国はいつか大国になると告げられ、最終的にはホワイトハウスで大統領セオドア・ローズヴェルト本人の歓待を受けた。
 直截簡明の見本のような文章で、梁啓超アメリカという社会を鋭く大胆に歓察してみせる。(略)
 彼が旅したアメリカは不平等の権化のような国だった。「アメリカ全国の富の70%が20万人の金持ちの手中にあるとは……なんと不思議な、なんと奇怪なことか!」(略)ニューヨークの安アパート群に彼は総毛立つ。その住居内の死亡率に触れて、彼は唐代の詩人杜甫を引用した。「朱色の館からは酒と肉の匂いが漂うが、道路には凍死体の骨がある。栄華と衰亡が背中合わせ、悲哀は言語に尽くしがたい。(略)
[政治腐敗もひどく]梁啓超は、アメリカの民主主義に対する批判を強め、専制君主国家に対する万能薬としての民権についての信仰を徐々に失っていく。
 彼が見たとおり、アメリカの政治では企業の利害関係が隠微な力を振るっていた。選挙が頻繁に行われるせいで、政策は近視眼的になり安直なポピュリズムが跋扈した。国政レベルでの民主政治に加わろうとする人間は、往々にして三流である。アメリカ大統領のお歴々のあまりにも多くが凡庸で退屈な人たちだった。アメリカの民主主義の最大の美点は地方政治、すなわち各州・郡・町の政治組織に見いだすことができた。だがそうした側面はアメリカならではの特徴であって、中国の状況に当てはめるわけにはいかなかった。民主主義の構築は、長い時間をかけてボトムアップ式にやっていくのがいちばんいい。革命を通して民主主義を押しつけるやり方はまずい、というのはフランスとラテンアメリカの民主主義が脆弱なのを見ればわかる。さらにはアメリカにおいてすら、自由民主的な状態は威圧的な政治力を振るわなければ達成できなかった。そしてアメリカが世界に存在感を示した始めた今、力の一点集中化という危険が生じてきていた。また、金融と産業が力を増し始めるにつれ、アメリカ国内では帝国主義に対するアレルギーが薄まってきていた。
(略)
 アメリカがパナマとその運河を巧みに支配下に収めたときも、梁啓超アメリカにいた。その件を新聞で読んだ梁啓超は、英国がスエズ運河をめぐって、いかにエジプトの独立性を傷つけたかを思い出していた。モンロー主義に触れて、彼は「南北アメリカ南北アメリカの人々のものである」という最初の意味が「南北アメリカは合衆国の人々のものである」というように変質してしまったと言う。彼はさらに続けて、「今後この宣言がくるくると変わり続けるかもしれない。そして最終的には『世界は合衆国のものである』などと」。事実、アメリカの近代的な企業群は全世界を支配しそうな勢いだった。
(略)
 梁啓超の民主主義への幻滅は、アメリカ国内に根深く残る中国人の誇りを抑圧する敵意に直面したときに、さらに深まった。アメリカは黒人住民を残虐に扱う国でもあった。「アメリカ独立宣言が唱えているのは」と彼は書いた。「人間は生来自由で平等である、ということだ。だが、黒人は人間ではないとでも?残念ながら、私は最近になって『文明』ということの意味を理解した」。梁啓超はとくにリンチの風習に慄然とした。「聞いただけだったり、みずからアメリカに行ってみなかったならば、20世紀に白昼堂々とそのような残酷で非人間的なことが行われうるなどということは信じなかったろう」(略)
[中国領事館役人が現地警察に侮辱されたのち自殺した]事件によって梁啓超は、積年の国辱をつくづく思い知ることになる。(略)
 アメリカに住んでいる中国人は投票権を禁じられていた。学校は彼らを受け入れなかった。自分たちの財産が冒された場合でも、証人台に立って証言することを許されなかった。公共の場や住宅地で公然と行われる責め苦に耐えなければならなかった。通常、彼らと彼らの財産に適用される規則は「リンチ」だった。アメリカの民衆扇動家たちの高圧的な指図は、中国人たちにとって文字通りの恐怖政治だった。[ベノイ・クマール]

次回に続く。