元老―近代日本の真の指導者たち 伊藤之雄

元老形成の素地

統合のシンボルとして、天皇が必要であることは、維新のリーダーたちにはわかっていた。しかし、成長した天皇がどの程度政治権力を行使するのが望ましいのかは、藩閥政府の有力者の間でも合意ができておらず、また彼ら自身も確信を持っていなかった。
 維新のリーダーたちは、天皇自身が様々な学習や体験を通して円熟するのを待ち、諸外国の君主の例も検討した上で、それを決めていくのが望ましいと考えていたのであろう。「万機親裁」の建前を観念的にとらえて、天皇や宮中側近が天皇親政を目指そうとしても、うまくいかないし、実施すべきではない。そんなことをすれば近代国家建設が失敗するのみならず、天皇が責任を問われ、批判にさらされることになり、天皇や皇室の存続をも脅かすことを、リーダーたちは直感的に理解していた。
(略)
 維新初期から征韓論政変までの約六年近く、大久保・木戸ら薩長有力者が公式のポストとは別の形で、常にインフォーマルな中枢を構成し(略)三条実美岩倉具視ら公家の有力者と共に国政をリードした。のちに有力元老となる伊藤博文山県有朋井上馨松方正義などは、彼らの下で働きながら、この状況を見聞してきた。このため、大変革期でどのような政府組織や人員配置がふさわしいのか確信が持てない時は、インフォーマルな集団が影響力を持つのが自然であることを熟知したと思われる。
 これが、憲法制定から帝国議会開設、政党の台頭が起きる1890年代半ばにかけての新しい変革期に、憲法にない慣例的組織である元老が形成される一つの素地となった。
(略)
伊藤の工部卿辞任を求める天皇の提言は、伊藤自身が、天皇工部卿の仕事をよくわかっておらず代わりの者をを見つけるのが難しい、と岩倉に伝えているように、無視された。
(略)
明治天皇は21歳になった1874年でも、表の政治に影響力を及ぼすことはできなかったが、徳大寺宮内卿を留任させたように、奥のことに対しては意見を通すことができるようになったのである。

天皇サボタージュ

 伊藤は欧州でこのような君主機関説の憲法理論を身につけることによって、天皇が日常は政治関与を抑制し、国政が混乱しかけた場合のみ、調停者として政治に関与するようになることを期待した。これは征韓論政変の際に天皇の威信が弱く、西郷らが下野し、西南戦争が起こって膨大な人的犠牲と経済的消耗を招いた悲劇などを考慮したからであろう。
 しかし、明治天皇は30歳代前半になっても、表の政治に影響力を振るうことを許されなかったので、伊藤の考えがわからなかった。そこで天皇は、1884年には病気を理由に奥から出御しないことが多くなった。1885年夏には二時間ほどしか表に出御せず、その間も徳大寺実則侍従長元田永孚一等侍講に拝謁を命じ、あれこれ談話するのみになった。(略)明らかに天皇は政治をサボタージュするようになったのである。
 そこで伊藤は、参議兼宮内卿の辞表を提出したり、取り成したりし、天皇の気持ちを緩和した。
 明治天皇は伊藤から君主機関説の概略を聴いて、少しずつ立憲君主としての自覚を持つようになったようである。
(略)
 調停者としての行動について、天皇の意識を変えた決定打は、幼少から当時皇太子の天皇に仕え、天皇からの信用の厚い藤波言忠侍従(公家出身)を伊藤が欧州に派遣させ、シュタインから君主機関説にもとづいた憲法や国法学の概略を学ばせたことである。(略)帰国後、藤波は二、三日に一度のペースで夜の二時間ずつ、33回にわたって天皇と皇后に講義をした。天皇・皇后は熱心に聴講し、天皇は納得できるまで藤波に質問した。こうして天皇と皇后は、新しくできる憲法の中での自分の役割を理解し、かつ伊藤への揺るぎない信頼を持つようになったのである(伊藤之雄明治天皇』)。

元老制度形成

1892年半ばになると、伊藤や山県ら藩閥最有力者たちが、内々では自らを「元勲」または「黒幕」と自称するようになっていることも注目される。以下で述べていくように、この「元勲」もしくは「黒幕」の集団が、のちに「元老」と呼ばれるようになっていくのである。(略)
[1892年松方首相辞任後の]過程は、元老制度の形成の発端として、次の三つの点で注目できる。
 第一に、天皇がこの状況を打開するため、伊藤・山県・黒田の三人に下問したことである。(略)次章で示すように、日清戦争後の1896年秋頃から、彼らは元老と呼ばれるようになっていく。(略)
 第三に、初期議会において、政党にどのように対応するかをめぐり、藩閥内が大きく亀裂したため、元老が形成されたことである。この厳しい状況下で、松方首相の個人的力量不足も原因となって、首相が閣僚中の有力者と相談して天皇に後継首相を推薦するという[これまでの]様式を取ることができなかったからである。
 いずれにしても、元老制度の形成は、内閣で後継首相を天皇に推薦することができなくなっても、天皇専制君主的に後継首相を決めず、藩閥内の特定の有力人物に推薦を委ねたことによって始まった。すなわち、大日本帝国憲法制定の際に、伊藤が構想した調停者としての君主機関説的天皇の役割を、明治天皇自身が理解して行動したことによって、元老制度が形成されたのである。

元老批判

 慣例によるが元老が一つの機関として定着してくると、第一に、法令・規則にもとづく他の公的な機関と同様に、元老というポストが辞任可能なポストとして論じられるようになる。たとえば、1902年12月には、伊藤博文は「専ら元老として」政友会総裁を辞任するか、あるいは「単に政友会総裁として、元老たるを辞するか」決心すべきである、と論じられた(『報知新聞』「元老か党首か」)。
(略)
[元老制度確立から]5年経った1903年2月頃になると、元老は「公職」でないので政治への関与は「私意」であるにもかかわらず、「秘密」に各元老が行き来して相談がなされている、などとジャーナリズムで元老の根拠への批判を込めた疑問が出されるようになった。
(略)
10月以降、日露戦争を避けたい日本において、日露交渉がまとまらず、ますます緊迫感が強まっていくと、日露交渉について、内閣は国民の意見を冷ややかに見ながら「資格無き」元老が「事実上の閣議」を開いている、との批判が出るようになった(略)
元老は憲法を蹂躙しているとか、憲法上の機関でない元老の政治責任はどこにあるのか(略)
大隈重信の談として、元老たちは「憲法以外に元老なる一職名」を設けて常に「君主と政府の中間」に立ち、ほしいままに内外施政に介入し責任がどこにあるのかわからなくしている[などの記事が]

北清事変、山県の台頭

北京への出兵が問題となった時(略)[首相の]山県が拝謁すると、明治天皇は清国問題について伊藤に相談するよう命じた。(略)伊藤の意見は、局面がどのように展開するのかわからないので、軽挙に走って国力を消耗しないようにしようということであった。各大臣は了解した(略)
 伊藤は、清国・韓国などの極東地域で、列強等の軍事力が対峙するのでなく、危機の時のみ共同出兵することで、新たな秩序を作り、日本の安全保障を確保しようとした。しかし、山県首相らは、北京周辺に駐兵することで日本の発言力を増し、大陸における勢力拡張に役立てようとした。山県らは帝国主義の時代に典型的な、古い安全保障観を持っていたのである。
 伊藤と山県首相の対立の結果、天皇の命があるにもかかわらず、伊藤の前言が活かされず、元老中の元老として威信を持っていた伊藤の権威が衰えていることが、確認されてしまった。これは、第三次伊藤内閣が半年ももたずに倒れたこと、さらに伊藤が天皇に推薦して成立した大隈首相の内閣(政党内閣)が四ヵ月もせずに倒れてしまった、という二年前の事件も影響していた。
 その後、憲法体制を完成させるため、1900年9月15日、伊藤は立憲政友会を創設した。(略)藩閥出身の伊藤が政党の総裁になったので、藩閥系の中で大きな反発が起きた。貴族院が伊藤内閣に反対して、予算を否決しようとしたように、伊藤は藩閥系における基盤をほとんど失ってしまう(伊藤之雄伊藤博文』)。
 このように伊藤は、イギリス風の立憲君主制への道を進める一方、兵力の対峙による均衡ではない形で東アジアに安定した秩序を作ることを目指して、列強との新しい協調外交を進めようとした。しかし、そのたびに藩閥内での威信を弱めていったのである。
 日清戦争後、伊藤が政党に接近するのに反発した藩閥官僚たちは、反政党の姿勢を明確にし陸軍への影響力を保持していた山県に接近していき、山県が台頭していった。こうして元老の中で、伊藤と山県が並び立つようになった。
(略)
 日露の対立を緩和するため、伊藤は同年秋から米国を経て、欧州、そしてロシアのペテルブルグを訪れ、日露協商の交渉を姶めた。伊藤は、韓国を軍略的に使用しないなどの制限をつけて日本の勢力圏とし、ロシアには満州を縦断する東清鉄道の安全を守る軍隊の駐留と、満州での一定の権益の拡大を認めて協商を成立させ、ロシアを満州の他の部分から撤兵させようとした。
 伊藤の構想は、軍事力を背景に互いに独占的な勢力圏を設定するのでなく、相互に、また他の諸国も経済進出できるような、緩やかな勢力圏を設定しようというものである。イギリスが中国において展開していた自由貿易主義と基本的に同じであり、経済競争を中心とする点で、帝国主義の時代を脱却する要素も含んでいた。
 これに対し、桂首相・小村外相、元老山県らや陸・海軍幹部は、ロシアヘの強い不信感を持っていた。ロシアと交渉をまとめても、長続きするとは思われず、いずれ戦争をせざるを得ないので、日英同盟を結んでロシアとの戦争に備えるべき、との考えであった。また、彼らは日本の勢力圏をできる限り拡張し、そこではなるべく日本が排他的に経済利益を得ようとしていた。帝国主義の時代の典型的な考えであった。
(略)
 日英同盟締約という外交上の問題において、初めて元老会議が開かれたことが注目される。(略)
伊藤の威信が低下していたことも要因であった。日清戦争時までのように、天皇の外交への信頼を背景に、伊藤が一部の他の有力者と連携して藩閥全体を引っ張っていくようなことは、できなくなっていた。

伊藤の死、桂太郎の台頭

日露戦争後に元老は権力を衰退させていったが、伊藤はそのなかで明治天皇の信任を背景として最も高い地位にあり続けた。1909年9月に伊藤が韓国統監を引退すると、天皇は山県の意向も受け、山県枢密院議長を平の枢密顧問官に格下げして、伊藤を枢密院議長に任命した。天皇はこのように、伊藤を山県より上であると、改めて公然と位置づけた。(略)
天皇は伊藤の国葬について、三条実美公爵の葬儀より上にもならず下にもならないところで式を挙げるべきである、と指示した。(略)
藩主でもなく陪臣であった者の国葬は初めてであるし、足軽だった伊藤が三条と同格というのも破格の扱いであった。(略)
 伊藤に対してここまでの心遣いをするのは、伊藤と天皇の個人的な人間関係を越えて、天皇が伊藤の外交・内政構想を支持していたからだろう。国際協調を貫き、東アジアに安定した秩序を作ることや、漸進的に政党政治への道が開かれ、国内政治も安定していくことは、公共性を重んじる明治天皇の理想でもあったと推定される。(略)
[伊藤の死後]元老中で山県の存在感が増した。しかし、山県は特に新しい行動を起こせたわけではなかった。それは、衆議院第一党の政友会を背景にした原敬や西園寺総裁と、山県系官僚閥を背景とした桂太郎との提携は続き、明治天皇も健在であったからである。(略)
第二次桂内閣から第二次西園寺内閣に政権交代した際も、桂首相が西園寺を天皇に推薦し、元老会議が開かれることなく決まった。また西園寺内閣は閣員の選定に関し、元老の意向に左右されることがなかった。(略)
 桂は山県や一般の元老をしのいで、伊藤のような抜きんでた存在になろうとしていたのである。桂が徳大寺にこのような発言[「将来、内閣に困難が生じた時には天皇の沙汰があればいつでも参内いたします」]をするのは(略)
明治天皇の信頼に加え、山県系官僚閥の居城ともいえる陸軍を山県とほぼ対等なほど掌握したことからも、自信をつけていたのである。(略)
[1911年の辛亥革命時]西園寺内閣は英米との協調の観点からも出兵に反対であり、西園寺と桂の連携も固く、山県の提言[満州出兵]は内閣のみならず陸軍中枢においても本気で受け止められなかった。元老が集団として重要な外交問題の意思決定に参加するという、日英同盟問題の頃から形成された慣行は、ほとんど消滅したといえよう。
(略)
桂が「元勲優遇」の詔勅を受けていることを考慮すると、明治天皇がもっと長生きし、第二次西園寺内閣が明治天皇の治世下で長く続いていたなら、桂は間違いなく元老になったことであろう。(略)
[しかし]経験のない大正天皇のもとで、桂は元老たちから元老として扱われず、まもなく政治的に失脚して死去した。

山県と大正天皇の力関係

[1914年後継首相が決まらない状況下で]大正天皇は山県に組閣してはどうか、と勧めた。これに対し山県は辞退したばかりか(略)下問された元老以外に勧めてはよろしくない、などと天皇に申し上げた。
(略)
この行動は明治天皇以来の天皇の言動の範囲から出ていない。この大正天皇の勧めに対して山県が、元老以外の人にこのようなことを言ってはいけないと発言するのは、極めて失礼ともいえる。混乱した政局を収拾しようと、山県が誠意を持って尽力していることを考慮しても、山県は元老制度の存続が危ぶまれる状況のなかで、焦りを表に出してしまったのだろう。
 大正天皇は、山県の発言の非礼をとがめるべきであったろう。もしくは、少し危険でもあるが、元老が諮詢に迅速に答えないから発言しているのであり、誰を首相にするかは最終的には天皇の専権である、と強気に反論するのも一策であろう。イギリス風の政党政治に好意を持つ大正天皇が実際に専権を振るうつもりがなくても、このように発言することで、山県に気後れしなくなり、元老への天皇の影響力を醸成できる。ただ、この強気の発言によって、山県ら元老が奉答辞退を申し出てくる可能性もあるので、それにうまく対応する力量が必要になるかもしれない。
 しかし、大正天皇はまったく政治教育を受けておらず、体験もない。(略)
[このやり取りで]山県を中心とする元老と大正天皇の力関係は、ほぼ確定してしまった。

脱元老の動き

[大隈内閣]組閣の直前、『東京朝日新聞』は社説で、「諮問機関は必要(元老は不可)」と題して、もはや時勢に適さなくなった元老を政界から葬り去るべき、と論じた。しかし、日本は英国のように二大政党が発達しておらず、後継内閣選定に関する確固たる先例が存在していなかったので、比較的政界の事情に通じている貴・衆両院議長と枢密院議長の三議長を新内閣選定の諮問機関とすることを提案した。
 同様に有力紙であった『東京日日新聞』や『万朝報』が、特に元老に代わる機関の設置を提案していないのは、衆議院の有力反対政党の党首が交代して組閣する慣例ができ、元老会議の選定が形式的なものになれば、新しい機関を作る必要がないと見たのであろう。
(略)
 元老をなくすか、事実上なくすというのは、かつて伊藤博文が考えたことでもあった。伊藤は、枢密院という憲法上の機関を拡充強化して元老を吸収する構想を持ったり、元老を事実上介さないで桂太郎西園寺公望政権交代を繰り返すのを見守ったりした。
 このような元老批判と、イギリス風の政党政治実現を急いで目指す空気が世論として強まっていることを意識し、大隈首相と加藤外相らは、元老に影響されない政治運営を行おうとする。
(略)
[日露戦争開戦を大隈内閣が閣議で決め元老の承認を求めたことに]山県は憤慨した。

次回に続く。

 

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