保守主義とは何か・その2

前回の続き。

フリードマンノージック

フリードマンは、社会保障の目的が高貴なものであったことを認める。が、問題は手段である。(略)結果として、それによって利益を受ける特殊利益団体の増加をもたらした。そのような特殊利益団体はひとたび生まれると、自らの存続を自己目的化してしまうのである。権限をもった官僚たちもまた、国家全体の利益よりは、自らの組織の発展を考えるようになる。政府の役割は止めどもなく拡大していくことになった。
(略)
「今日の新しい支配階級は、大学におさまっている連中であり、報道機関であり、とりわけ連邦政府の官僚機構である。(略)」(『選択の自由』)。
 重要なのは、個人が自分の所得を何に使うか自由に判断する「選択の自由」を回復することである。このように説くフリードマンリバタリアニズムは、アメリカの伝統的な反政府感情と結びつくことで、大きな反響を生み出すことになった。
(略)
 あくまで経済的効率性から出発するフリードマンの議論と、個人の自然権から国家の正統性を問い直すノージックの議論[『アナーキー・国家・ユートピア』]は、大きくその性質を異にする。とはいえ、両者の議論はあいまって、現代アメリカにおけるリバタリアニズムの理論に、独特な武器を提供したのである。
(略)
[ノージックは]どれだけ善意であれ、一つのパターンのコミュニティを押しつけることを「帝国主義ユートピア主義」と呼んで批判した。彼にとって、ユートピアはつねに複数でなければならなかった。(略)
ノージックにとって可能なユートピアの枠組みは最小国家であり、もっとも退けられるべきは、マルクス主義に代表される社会主義のような「帝国主義ユートピア」であった。この点で、ノージックリバタリアニズムもまた、現代アメリカの保守主義の一端を担ったのである。

ネオコン

[伝統主義とリバタリアニズム]とは明らかに異質な要素が保守主義に流れ込んでいる。(略)特筆すべきは、いわゆる「ネオコン」[新保守主義](略)
ネオコン初期の理論家たちは、ニューヨークを拠点とするユダヤ系の知識人たちであり、もともとはトロツキストであった人が多い。(略)
 ゴールドウォーターはリバタリアンの思想をもち、伝統主義的勢力の支持も得た、いわば保守派の「希望の星」とでも呼ぶべき候補者であった。(略)[中道派のアイゼンハワーニクソンとは違って]明確な保守派であった。[だが選挙で大敗](略)
このことは保守派陣営にとって大きな挫折であり、この経験を通じて、保守派は自らの陣営の立て直しについて、根源的な反省を余儀なくされたのである。
 ちなみに、のちにネオコンと呼ばれる人々(この時点ではまだ「ネオコン」という言葉はなく、彼らは自らを「リベラル反共主義」と称した)は、この選挙ではゴールドウォーターではなく、ジョンソンを支持している。言い換えれば、ネオコン勢力はこのときはまだ、保守派の連合の一翼を形成してはいなかったことになる。
 その後、彼らはジョンソン大統領の「偉大な社会」計画への幻滅、さらにはカウンターカルチャー運動やベトナム反戦運動への反発から、民主党から共和党支持へと政治的立場を転換していく。その意味では、ネオコンがゴールドウォーターの支持勢力と合流したとき、はじめてレーガン大統領の当選へと至るアメリカの「保守革命」が実現したといえるだろう。
(略)
もともと彼らは合理主義的な社会改革に対し、一定の共感を示していた人々である。その意味で、福祉国家社会保障政策について、リベラル派と極端に異なる見解をもっているわけではない。彼らの反発はむしろ、カウンターカルチャーベトナム反戦運動など、リベラル派の「左傾化」に向けられたものと思われる。
 そもそも初期のネオコンに近い立場にあった社会学者のダニエル・ベルが1960年に「イデオロギーの終焉」を説いたように、このグループには、もはやイデオロギー対立の時代は終わり、今後は専門家集団による合理的な社会運営を目指すべきである、とする発想が根強く見られる。さまざまなシンクタンクと連携し、政策提言にも積極的なことと合わせ、ネオコンには社会改革への志向があることは否定できない。
(略)
 問題は、そのような保守革命が何をもたらしたのかである。間違いないのは、アメリカ政治の分断化である。伝統的にアメリカは、強固な社会主義保守主義の存在しない、いわば自由主義を中核とする中道主義が優位する政治文化として捉えられてきた。すべてのイデオロギー的対立は自由主義の内部で展開され、ヨーロッパなどと比べても政治的に分断の少ない社会として理解されるのが一般的であった。

日本の保守主義

丸山眞男福田恆存

丸山眞男は「近代主義的知識人」とされ、日本の過去や伝統をもっぱら克服すべき対象として捉えた理論家として語られることが多い。しかし(略)彼の議論を細かく検討するならば、むしろ保守主義、あるいは「健全な保守主義」とでも呼ぶべきものの欠如を嘆くかのような発言が目立つ。(略)
丸山の見るところ、日本では、知的にも政治的にも保守主義が明確に定着することはなかった。すなわち、現行の政治体制を自覚的に保守しようとする勢力はついに現れなかったのである。代わりに目立ったのは、漠然と進歩を信じるか、さもなければ、ズルズルと現状維持を好む態度であった
(略)
明確な保守主義が存在せず、何となくの進歩志向となし崩しの現状維持が横行するとき、すべてはズルズルベッタリとなり、思想的な緊張関係は不在となる。
(略)
[福田恆存は]革新主義に対し、反発を覚える自己を認識したものが保守派となる。すなわち、保守は必ず革新に遅れて登場する(略)
保守派はイデオロギーを必要としない。自らの生活感情に根ざして必要な改革を行えばいいのであり、むしろ「保守主義」なる大義名分をかざして自らを正当化しようとすれば「反動」となってしまう。(略)
ヨーロッパに特徴的なのは統一性であり、キリスト教を中核にその一貫性は近代にまで統く。これに対し、日本における過去を振り返れば、端的にそこには歴史性が欠けていた。日本の近代で否定すべき神はなく、明治維新天皇制が持ち出されたのも、ある意味でその空虚さを埋めるものでしかなかったと福田はいう。
 福田にいわせれば、進歩主義自己欺瞞は、そのような断絶を正面から認めなかったことにある。「戦前から戦後への転換には連続はない。連続がない以上、それは進歩ではない。進歩主義の立場からは、それを革命と呼びたいであらう。が、事実は征服があつただけだ。征服を革命とすりかへ、そこに進歩を認めたことに、進歩主義の独りよがりと甘さがある」。(略)
[征服による切断を乗り越え、連続を見出し、懸け橋を造るべきだった]戦後の進歩主義はそのような仕事を引き受けるどころか、むしろ反動的であるとして退けてしまったのである。(略)
このような福田の議論には、実は丸山の保守主義論と通じるものがある。
(略)
バーク的な保守主義があくまで具体的な制度を通じて自由を保持しようとしたとすれば、日本では、自由への主張が具体的な制度や機構と関連づけて論じられず、結果として立憲主義とも結びつかなかったというのが、丸山の診断である。
 制度が制度として確立せず、つねに状況化する。このような事態は、戦後においてさらに悪化したと丸山は指摘する。

保守本流

若き日の津田梅子に「アメリカを知る最良の書」としてアレクシ・ド・トクヴィルの『アメリカのデモクラシー』を薦めたというエピソードからも推し量れるように、伊藤博文の欧米理解はけっして侮れないものであった。
 また後年、伊藤は好んでバークの「代議士は国民全体の利害の奉仕者」という言葉に言及したという。議員は個別的利害の代弁者ではなく、国民全体の利害を代表しなければならない。元老の筆頭でありながら自ら政党の創設に乗り出し、立憲政友会の初代総裁になった伊藤は、間違いなくバークの思想のよき理解者であった。
(略)
[政府転覆の陰謀事件に巻き込まれて投獄され]長い獄中期間を通じて学問の習得につとめた陸奥宗光は、荻生徂徠の著作と同時にベンサムを読み込んだという。ベンサムを通じて英国の功利主義を学んだ陸奥は、社会の発展の鍵は個人にあり、政府はこれを妨げてはならないという自由主義の思想を自らのものにする。陸奥は出獄後、さらに欧米諸国で政治学を学び続ける。(略)
 そのような陸奥を起用したのが伊藤である。(略)
興味深いのは、伊藤にせよ、陸奥にせよ、最終的にはドイツ型の行政権主導型の憲法体制を選択するものの、思想的には英国型の自由主義や議会政治に親近感を抱いていたことである。(略)
 本書の視点からすれば、このような伊藤から陸奥へ、そして原へと継承される路線こそが、近代日本における保守主義の本流である。この路線は、明治憲法を前提としつつ、そこに内包された自由の論理を漸進的に発展させ、事実上、その後の立憲政治や政党政治を準備することになった。(略)
この流れは原敬による政友会内閣で一つのピークを迎え、その後は西園寺公望牧野伸顕らによって維持され、やがていわゆる「重臣リベラリズム」(天皇側近における一定のリベラルな思想傾向)を形成する。(略)
大久保利通の次男である牧野は、父大久保とともに伊藤を高く評価し、英国流の立憲政治を目指すと同時に、外交的にも親英米主義を志向した。このような牧野の政治的価値観は、ある意味で、女婿である吉田茂を通じて戦後保守主義へとつながることになる。
(略)
戦前の丸山自身は重臣リベラリズムと近いところにいた。丸山の父であるジャーナリストの丸山幹治は、明治から昭和にかけて日本の論壇を主導した長谷川如是閑につながるリベラリストであったが、宮中の牧野とも親しく交わっていたという。
 その意味で重臣リベラリズムに親近感をもっていた丸山であるが、戦後はむしろ彼らに対する激しい失望と怒りを抱き、そこから断絶をはかることをリベラリズムにとってのリトマス試験紙であると考えるようになった。重臣リベラリズム超国家主義を前にしてあまりに無力であったことを、丸山は問題視したのである。
 丸山の見るところ、重臣リベラリズムの弱点は立憲主義の発想の弱さと、制度的思考の稀薄さにあった。それゆえに最終的に重臣リベラリズムは無限の状況適応主義となり、保守主義として十分に機能することがなかったのである。
(略)
戦後日本の保守主義は、自らの政治体制を価値的なコミットメントなしにとりあえず保守するという「状況主義的保守」か、さもなければ「押しつけ憲法」として現行秩序の正統性を否認するという「保守ならざる保守」という、不毛な両極に分解することになった。そこに欠けたのが、現行の政治秩序の正統性を深く信じるがゆえに、その漸進的改革を試みるという本来の保守主義であることについては、ここまでも繰り返し指摘してきた通りである。(略)
明治憲法体制に内在する自由の論理を発展させることで民主化の要求に漸進的に応えてきたのが、日本の保守主義の真の「本流」であるともいえる。そうだとすれば、戦後憲法の定着のなかに、このような漸進的発展の延長を見ることこそが、そのような「本流」を継承することになるのではなかろうか。このような歴史的視座に立つとき、日本の保守主義は新たなる可能性を見出すように思われてならない。

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