保守主義とは何か - 反フランス革命から現代日本まで

「保守」とは何か

はじめに

(略)「保守」とは何かとなると、実はかなり怪しい。(略)[結局のところ]「自分はリベラル(あるいは「左翼」)ではない」という、消極的な意味合いしかもたないのかもしれない。(略)
保守主義の思想は、楽天的な進歩主義を批判するものとして生まれ、発展していった。
 近代とはいわば、このような進歩主義保守主義との対抗関係を軸に展開した時代ともいえる。そして、その場合に重要なのは、この対抗関係のなかでイニシアティブを握ったのが、つねに進歩主義であったということである。進歩主義があってこそ保守主義もまた意味をもつのであって、その逆ではない。進歩主義が有力であればあるほど、それを批判する保守主義もまた存在意義をもったのである。
 ところが今日、「進歩」の理念は、急速に失われつつある。
(略)
 結果として、「進歩」の理念に基づく進歩主義の旗色は悪く、逆説的に保守主義もまた、その位置づけが揺らいでいる。進歩主義というライバルを失った結果、保守主義もまた迷走を始めているのである。(略)

政治家バークの信念

しばしば指摘される、フランス革命の批判者であり、啓蒙思想に敵対した人物バークというイメージは、やや一面的であろう。(略)
ルソーの政治的影響を批判しつつ、その才能に早くから注目したのもバークである。
(略)
バークは政治の要諦は民衆を力で押さえ込むことではなく、その性情をよく理解することにあると説いた。
 民衆はもちろん無謬の存在ではない。彼らはしばしば判断を誤る。しかしながら、「彼らとその支配者との間のどのような抗争でも、少なくとも半分は民衆の側の言い分にも理がある」(『現代の不満の原因』)ことは疑えないとバークは主張した。
 悪政かどうかを判断するに際して、人々が感覚的に間違えることはほとんどないとバークはいう。人々が「この政治はおかしい」と肌で感じるとき、その感覚は正しいことがほとんどなのである。だとすれば、民衆が権力による圧迫を感じ、自らの利害が十分に反映されていないと声をあげるとき、その訴えをけっして軽視してはならない。政治は必ず公共の原理と国民の基盤の上に立っていなければならないというのが、政治家バークの信念であった。

保守主義」という言葉

 ちなみに「保守主義」という言葉が使われるようになったのは、19世紀初頭のことである。逆にいえば、バークの時代にこの言葉は存在しない。
 1818年、フランスでルネ・シャトーブリアンが『保守主義者』という雑誌を創刊し、1830年代には英国でトーリが保守党と呼ばれるようになっている。キーワードは「保守する(conserve)」であった。元来、一般的に物を保存することを指したこの言葉が、政治的イデオロギーを示す用語へと転換する上で大きな役割をはたしたのは、いうまでもなくバークの『省察』である。
 しかし、このことを確認した上で、ただちに浮かぶのは、「それ以前には保守主義は存在しなかったのか」という疑問であろう。(略)
 この点について、明確な答えを示したのは、20世紀のハンガリー知識社会学カール・マンハイムである。マンハイムによれば、保守主義は、単に旧来のものを墨守し、変化を嫌うという意味での保守感情や伝統主義とは、はっきりと区別される。そのような志向は、いつの時代にも、どの社会にも見られるものであった。
 これに対し保守主義は、フランス革命とその後のダイナミックな変化に、自覚的に対応するものにほかならない。いまや保守すべき何かが危機にさらされている以上、これを積極的に選び直し、保守しなければならない。このような高度な自覚こそが、保守主義を生み出したのだとマンハイムは論じた(『保守主義的思考』)。
 このようなマンハイムの説明が正しいとすれば、バークはフランス革命のなかに、かつて存在しなかったような新たな脅威を見出したことになる。それはいったい何であったのだろうか。

フランス革命名誉革命

 バークにとって、「保守する」とは、古いものをそのまま維持することではない。「何らか変更の手段を持たない国家には、自らを保守する手段がありません。そうした手段を欠いては、その国家が最も大切に維持したいと欲している憲法上の部分を喪失する危険すら冒すことになり兼ねません」。(略)
ここから、保守するためには変わらねばならないという、逆説にも聞こえる保守主義の信条が生まれていった。名誉革命とは、その意味で、保守と修正の二原理が力強く働いた事例であった。革命はあくまで、王国の古来の原理を回復するという視点からなされたのである。
 これに対し、フランス革命は王国の過去の原理の回復どころか、むしろ歴史の明確な断絶としてなされた点にバークは注目する。これに加え、フランス革命は、何らの歴史的根拠ももたない抽象的な原理に自らの立脚点を置こうとした。
(略)
バークは下院が民意によって支えられていることを強調している。その意味で、彼は単純に民主主義に敵対する思想家ではなかった。とはいえ、バークは、国王の地位を人民の選択に基礎づけることを認めなかった。国王は、あくまで王国の時間を超えた連続性を体現するものであり(略)
 その時々の民意の選択という不安定な基礎の上に、王国を立脚させるわけにはいかない。 (略)
バークは人権という理念自体を否定するわけではない。ただ、それが歴史的に形成され、もはや人々の第二の「自然」ともなった社会のなかで機能することを求めたのである。

ハイエク保守主義者か

ハイエクは自らを自由主義者であると称しており、保守主義者であることを明確に否定している。(略)
要するに、保守主義はブレーキをかけるだけであって、未来に向けてのアクセルに欠けているというのである。
(略)
 ハイエクが否定するのは、変化を拒絶し、階層秩序に固執する保守主義であったといわねばならない。もし保守主義がそのようなものではなく、個人の自由と、それに基づく変化を許容するならば、ハイエクにとって保守主義を拒絶する理由はなくなる。例えば、このエッセイ[「なぜわたくしは保守主義者ではないのか」]のなかで、ハイエクはしばしばバークの名をあげ、彼への共感を隠さない。
(略)
ハイエクを20世紀の思想的文脈で捉え直すとき、彼を位置づけるべきはまず、1944年という時点における全体主義との対決であろう。
 たしかに1974年にノーベル経済学賞を受賞し、79年には英国のサッチャー首相就任にあたってその著作が言及されたこともあって、ハイエクは20世紀最後の四半世紀に再び「時の人」となった。その際には、もっぱら、福祉国家を批判し、市場メカニズムを強調する現代新自由主義の先駆者の一人とされることが多い。
 にもかかわらず、ハイエクを「市場の思想家」という現代的な枠組みでのみ理解することには問題がある。(略)
彼は教条的なレッセフェール(自由放任主義)に批判的であるし、貧困者の救済など、政府が一定の社会保障機能をはたすことも否定していない。その意味で、ひたすら市場の意義を強調し、政府の役割を否定した新自由主義者という像はハイエクにふさわしくない。そもそも彼の議論は必ずしも「大きな政府」か「小さな政府」か、という軸ではなされていない。のちに検討するように、「自生的秩序」や「法の支配」こそが、彼がもっとも重視した価値であった。
(略)
ハイエクが問題視したのは社会正義の実現という社会主義の理念ではなかった。この理念について、ハイエクは必ずしも否定していない。むしろ彼が批判したのは、社会主義がこの理念を実現するために採用した方法[「集産主義」]であった。(略)
どれだけ善意であるとしても、社会全体を統制する計画を立てることは、多様性と選択の自由を否定し、諸個人に一つの目的を強いることにつながるのである。その意味で、あらゆる集産主義の背景にあるのは、単一の価値体系が存在するという理想主義であり、人々の必要に順位をつけられるという幻想であるとハイエクは論じた。
 ここからも明らかなように、ハイエクの力点は、価格メカニズムがつねに正しいという主張ではなかった。むしろ、特定の個人や組織に社会全体の情報をすべて把握できるのかという懐疑こそが、ハイエクを突き動かしたのである。
(略)
 ここにハイエク保守主義が明らかになるだろう。彼が問題にしたのは、自分はすべてを把握しているという人間の傲慢さであった。彼はフェビアン協会を主導したウェッブ夫妻など、社会主義に共感を示す当時の英国知識人にその種の傲慢さを見出した。抽象的な理念に基づく社会の改造に異を唱えたバークと同様に、ハイエクもまた、単一の価値に基づく計画の押しつけを批判したのである。
(略)
制度や慣習はつねに歴史のなかでふるいにかけられ、そこで生き残ってきたものである。ハイエクの考える「進化」とは、制度や慣習といった「ルール」の進化であった。このようなハイエクの秩序像が、きわめて保守主義と親和性の高いものであったことはいうまでもない。
(略)
ハイエクの思想の本質は人間の知の有限性やローカル性を重視する懐疑主義であり、多様性や選択の自由を重視する自由主義である。その政治的主張の中心は、憲法によって政府による恣意的な立法を抑制しようとする立憲主義にあった。このようなハイエクの思想に、バーク以来の英国保守主義の現代的展開を見てとることができるはずである。

オークショット「人類の会話」

統治とは、何かより良い社会を追い求めるものではない。統治の本質はむしろ、多様な企てや利害をもって生きる人々の衝突を回避することにある。それぞれの個人が自らの幸福を追求しつつ、相互に折り合っていくには「精緻な儀式」が必要である。そのような「精緻な儀式」として、法令制度を提供することが統治の役割なのである。
 そうだとすれば、統治者のつとめは、人々の情念に火をつけることではない。むしろ、あまりに情熱的になっている人々に、この世界には自分とは異なる他者が暮らしていることを思い起こさせることが肝心である。大切なのは、情熱に節度をもたせることにほかならない。その意味で、他の活動については革新的であるが、統治については保守的ということは、何ら矛盾ではないとオークショットは主張した。
(略)
統一体が特定の共通目的による結合であるとすれば、社交体は実体的目的から独立した、形式的な行為規範による結合である。両者は中世以来の起源をもつモデルであり、教会参事会やギルド、大学などが統一体であるとすれば、友人や隣人関係が社交体にあたる。前者ではすべての成員が共通目的によって動員されるとすれば、後者では成員は自由に自らの目的を選択することができる。
 オークショットの見るところ、近代の政治的言説はあまりに統一体のイメージで語られてきた。すなわち、自律的な個人の衝突を行為規範によって調整する「統治」ではなく、支配下にある人々を統一体の目的のために利用する「指導」の技法こそが、中心的な主題とされてきたのである。しかしながら、このことは偏見であり、人々は共通目的がなければ結合できないわけではない。ここまで見てきた「会話」のヴィジョンが、この社交体と密接に結びついていることは明らかであろう。

アメリ保守主義の「創始者

まず言及すべきは、リチャード・ウィーヴァーの『理念は実現する』(1948年)とラッセル・カークの『保守主義の精神』(1953年)であろう。(略)
第二次世界大戦による破壊に衝撃を受けたウィーヴァーは、『理念は実現する』の冒頭で、現代文明の精神的病理の原因を、中世スコラ哲学におけるウィリアム・オッカム唯名論に見出している。(略)[それは神の絶対性を認めず、人間中心主義で]近代の思考はやがてニヒリズムに行き着き、道徳的秩序の崩壊をもたらしたとウィーヴァーは論じた。
 人間は本来、不完全なものである。だからこそ、人間にとって、精神の「重し」となる伝統が不可欠であると説くウィーヴァーの主張は、人間の理性や合理性についての楽観に満ちた時代の風潮のなかで、明らかに異端的であった。
(略)
現代アメリカの保守主義の精神的背景には、もう一つ指摘すべき要因がある。いわゆる「反知性主義」である。(略)
ハーヴァード大学に象徴されるエリート大学を卒業し、アメリカの政治や経済、文化や社会を主導する人々に対する草の根の不信感を示すものであるからだ。「エリートのいうことがすべて正しいわけではない」。ある意味で健全な反骨的精神がそこに込められていることを無視するわけにはいかない。(略)
アメリカ社会を支えているのは、一握りのエリートではない。地位も学歴もないけれど、生活に根ざした健全な判断力をもつ普通の人々こそが、アメリカ社会の根底にある。
(略)
現代アメリカの保守主義を準備したのは、新大陸アメリカに生まれ育った独特な「伝統主義」であった。それは政府の力に頼ることなく、自分と自分の家族のみで孤独に生きる人々の信念であり、固有の独立精神に基礎を置くものであった。と同時に、この独立精神を支えたのは強い宗教心であり、その場合の宗教とは、近代化と世俗化に適応したキリスト教ではなく、あくまで『聖書』と独特な回心体験に基礎をおくキリスト教であった。(略)
[このような「伝統主義」は20世紀中盤まで社会の前面にでなかったが、進歩的知識人への]信頼が翳りを見せ、むしろ不信感こそが募る時代状況のなか、伏流としてあった「伝統主義」は独特な「反知性主義」として、さらには「保守主義の精神」として顕在化するに至ったのである。(略)
現代アメリカの保守主義が、単なる精神的態度やメンタリティに終わることかく、一つの「革命」へと結晶化するにあたっては、「伝統主義」に加え、もう一つの要素が付け加わる必要があった。それが「リバタリアニズム」である。
(略)
 伝統的に社会主義など左派的立場と結びついて用いられてきた「リバタリアン」という言葉は、「大きな政府」に対する不信感を紐帯に、伝統主義と合流していく。政府に対する不信感と強固な個人主義が結合し、独特な「保守主義」が生まれることになったのである。(略)
フランク・メイヤーは、伝統主義とリバタリアニズムの合流を指して、「融合主義」と呼んだ。

次回に続く。

 

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