まんが学特講:手塚にペンタッチは無かった

『まんが学特講 目からウロコの戦後まんが史』
(講師:みなもと太郎 受講生:大塚英志
表紙とパラっとめくった印象の十倍面白い内容。その他の「まんが学」よりずっと充実してるのに、なんか損してると思う。今、チラッと尼レビュを覗いたら「昔の漫画が好きなら」とか書かれていて、確かにそういう面もあるけれど、「セル画起源の手塚治虫にペンタッチは無かった」とか「今のまんが家は脳内で中割できないからコマ割ができなくて、アメコミになる」といった面白い話が展開されていて、たしかに「目からウロコ」。全部を通して読まないと面白さが伝わらない部分があるので、引用から伝わる面白さの十倍くらい現物は面白いと書いておこうw。
というわけで、順番を変えて、そこらへんのところからまず引用。

まんが学特講  目からウロコの戦後まんが史

まんが学特講 目からウロコの戦後まんが史

手塚治虫にペンタッチは無かった?
ペンタッチがあった時代の方が特殊だった

[CGで描く最近の若いまんが家はペンタッチという概念がない、と話を振られ]
でも考えてみれば、俺が子供の頃にはペンタッチは無かったんだよ。(略)
もともと日本のまんがは筆で描いたタッチのようなやつだったんだよ。(略)[アニメ映画を観てショックを受けて]以降の作家たちはセル画を真似るような結果になってしまったわけ。その伝統で手塚治虫トキワ荘の人たちにはペンタッチが無かったから、俺は何を使って描いてるのかわからなかった。(略)
[手塚や藤子が出していたのでは?と聞き手の大塚]
 とにかく子供まんがにペンタッチはないのです。(略)[ペンタッチが出てきたのは]貸本劇画だったんです。(略)
でも今度は真似したくもない絵。気色悪いのばっかりで。(略)でも、さいとう・たかおだけはかっこいいから真似したいと思う。描き方も完全にGペンで描いてるのがわかる。(略)
手塚治虫を筆頭とする人たちは、完成しすぎているがゆえに誰もペンタッチを見せてくれない。(略)
石森章太郎とか確かにペンタッチがわかる。それは「荒い手塚治虫」という感じで、劇画の「新しい、荒々しさ」とは違うよね。(略)
園田光慶の『アイアンマッスル』に影響を受けた若手たち、かざま鋭二、みね武、松森正ながやす巧たちがどんどんレベルアップを目指して走りはじめた時、「そこまでは行くまい」と動揺せずに決めてたさいとう・たかおはさすがだな、と思った。「背景も必要以上に細かく描く必要はない」ってね。あの頃はみんなが底なしに細かくなっていったからね。で、それを読んで次の世代が今、青年誌なんかで妙に線だけきれいだけど、キャラクターにイマイチ魅力が無い作品を描いたりするのよね。(略)これが実は『アイアンマッスル』から始まった「新しい劇画」の、三十年たって出てきた弊害
(略)
――手塚にはペンタッチは無かったっていうのは、つまり模倣したい線を生んだのは劇画だという意味だっていうことは何となくわかりました。
 俺らの時代はってことだけどね。ペンタッチに惹かれたのは、俺が十六、七歳くらいの時からだから。要するに、それ以前・それ以降、共にアニメに負けてるな。
――手塚さんの絵がセル画起源だとするとそうですね。セル画って鉛筆のけっこう味のある線をわざわざトレースして、それこそ「描き版」をして、着色していくわけですから。
 パソコン画面の線になって、ペンタッチの無いまんがの時代にまた突入した。むしろペンタッチがあった頃の方が特殊な時代だったのかもしれません。
(略)
――(略)模倣性があるというか、真似しやすさみたいなものがある線っていうものがある……。
 あるでしょうね。西谷祥子がデビューしたら肉迫する投稿作品がどーっと出た。西谷祥子にはそういう模倣しやすさがあったんだろうね。
――それは西谷さんを模倣したことで、少女まんが全体の絵のクオリティは一気に上がったということですか。
 上がったという言い方もできるし、全部が同じものになったという言い方もできる。(略)西谷祥子は「真似しないでちょうだい!」って叫び続けて、悪役にならなくちゃならなかったわけだ。それで二、三年経ったら今度は投稿作品が全部萩尾望都ふうになったわけです。(略)彼女たち二人の絵は真似たいと思ったら即真似られたんです。
――つまり「真似たい」と思うことと実際に「真似られる」ことの一致が大きかったわけですよね。「できそう」だけど「真似たくない」でも、「真似たい」けど「できない」タッチでもなくて。「真似たい」し「できる」タッチを作った人が結果として影響力がある。当たり前だけど。
 そうだね。で、さいとう・たかをも俺らにとってはそれだった。


アニメの「アトム」は動いてない。まんがの『アトム』は動いてる

俺にとってはセルアニメの「アトム」は動いてなくて、紙まんがの『アトム』は動いてる(略)
この時の動きっぷりは、他のまんがには絶対無かった。それもマルチに動くわけだから。事態を見つめてる科学者たちのグループがこちらにいる、レーダーにはそれが映ってる、ハラハラドキドキして屋上でお祈りする。それが重層的に描かれている。この同時進行でずーっといくわけです。(略)読んでる時の気分ははんとにもう、映画一本だよね。この二コマだって、このクラゲみたいなやつが砕ける速度まで感じるわけ。チョン、と触るとほろほろーっと溶けるというか。
――それってつまりコマとコマの、アニメでいう中割りを、先生は脳の中で子供心にしてたってことですよね。それってすごい創造力ですよね。
 だから、みんな読者はそれをしたでしょうし。
――って、みんな、できたんですか、そういう中割り的な読み方?
(略)
――(略)たとえばトキワ荘の人たちが、『新寶島』を見て「動いてる」って言うじゃないですか。
 そうそう、俺が見たって動かないのよ、『新寶島』見たって。
――ぼくは同じように『アトム』を見ても動かないんですよ。
(略)
 要するに、まんがの『アトム』はそれほど動いて感じない、なおかつテレビの「アトム」が動くアトムだと思った人間が、その後まんが家を志してネームを切っていく時に、明らかに違いが出ると思うんです。(略)
それで今俺らが、『アフタヌーン』だの何だので、どうしても感情移入できないコマ割りがたくさんあるわけですよね。
――(略)何でぼくらの世代はこんなにコマ割るのが下手なんだろう(略)
絶対、手塚先生みたいに割れない。それはぼく個人の才能だとしてもぼくと同じ年の連中くらいを境に下に行くとどんどんコマの割り方って明らかに下手になってきます。
 あれは、俺らまでの世代がやっていったコマ割りに飽きてやってることなんだろうと思っていたんだけど、飽きたんじゃなくてできなくてなの?
――できなくなったんだと思いますけど。
(略)
じゃあ「アフタヌーン」とかで俺らがどうしてもコマ割りを見て作品に入っていけなくて、悩み続けてるのは、必ずしも俺らが古くなってるからではないということになるわけ?(略)
コマを割れる人たちっていうのは、コマ間の動きを脳内で動かしちゃってる人っていうことになる。
――(略)ぼくらがコマを割れなかった理由がすごくよくわかりました。しかも半端に動くアニメはあったから、動くものに対する飢餓感というのがなかったのかもしれない。テレビで「アトム」を見ても、「動いてるものってこんなものだろう」って……。(略)結局、「今回のアトムは顔の出来が悪いよね」とか……(笑)。
 はいはいはい!そっちの方にいっちゃうのね?
――そうです(笑)。さっきの話の方にいっちゃう、そうやって。それで、アニメーターごとのタッチを判別できるおたくができあがるんだと思います。
(略)
 ということは、俺が読むのとあなたが読むこれとでは、コマの感覚が違うということになるね。
――そうかもしれません。後に行けば行くほどすごく極端に言えばおそらく一つのコマを一枚絵で見ちゃうんだと思います。(略)ぼくから五つ六つ下の子とやっていると、彼らは一つのコマの中のレイアウトをものすごく気にするんです。ネームって結局コマ割りじゃないですか? でもコマの連続より、コマの中でのレイアウトをむしろ気にする印象がある。
 次のコマに行けなくなるんだよね?
――そう、だから結局、見開きの止めゴマとか大ゴマがどのまんが家でも多くなってくと思うんですよ。(略)
今のまんが家なら、『アトム』の一ページと同じ台詞の量で、おそらく三、四ページにしちゃうでしょう。それは一点一点を一枚絵として完成していく、一枚絵をコラージュしていくみたいな感じで。
 でもそうしたら結局、アメコミと同じような、動きのないものになっていくわけじゃない。
――そう、だからアメコミが……。
 あっ、受け入れられるようになったわけか!!
(略)
――彼らはきっとぼくやみなもと先生が何故、アメコミを「読めない」のかわからないでしょうね。
 ……退化じゃないのか、それは?
――えーと、はっきり言って、退化だと思います。しかも、その退化について「今の若い者は」ってぼくは思ってましたけど、自分たちがその張本人の世代だったというのが、今すごくショックです(笑)。
(略)
 俺は宮崎駿のまんが版の『風の谷のナウシカ』は実はものすごく読みづらい。
――ぼくもあれはすごく読みづらい。安彦良和なんか特にそうですけど、アニメーターの描くまんがだとぼく、逆に中割りが見えちゃうんですよ。『アリオン』が徳間書店で始まって、ぼくずっと安彦さんの担当してたんだけど、コマ割りが絵コンテ状態なんですごく中割りが見えちゃう。安彦良和に怒られると思って黙ってたけど、何か、変、それってつまらないっていうか読みにくいんだけどと感じた記憶があります。
 そうです、そうです、その通りです。とにかくまんが版の『ナウシカ』は、ほんとに読んでてモタつくんです。
――宮崎さんもまんがのコマとコマのつなぎとかができない。アニメーターだからといってコマを接着できるわけじゃないですよね。
 (略)手塚治虫は、ページ数が少なかったから、必要最小限度を描いていったのが良かったの。
(略)
[読みにくいコマ割りになったのはいつから?]
やっぱりアニメ絵の人たちが入ってきてからだな。アニメ絵で最初にヒットしたのは……萩原一至[『BASTARD!!』]かな?(略)
あのへんから、妙にストーリーに入り込めなくなったな。年とったせいかな、というのもあるわけよ、自分の中で。
(略)
――(略)今のまんが家って、ネームで悩まないですよ、びっくりするけど。(略)原作がついていてもいなくても、わりとコンテはスッと出てくる感じがある。(略)もっぱら作画の方に比重がいっていてネームに比重がない
(略)
 俺らはネームの方に時間がかかるね。絵を描くより。
(略)
――萩尾望都も、ネームができちゃえばあとは手作業で楽なものみたいなことはどっかで書いていたし。
(略)
 だからスクリーントーン多用アメコミふう作品ができあがるわけか……
(略)[昔の]まんが家が悩むって言ったら、ストーリーであって絵じゃないもん。(略)[今は]絵描きになってるわけだ。
――ええ、角川とかマニア系の雑誌はその傾向、強いんじゃないかな。だから人気があるまんが家はみんなイラストレーターになっちゃうし。

[ここから、最初に戻る。]
パロディのきっかけ

[みなもとが最初に読んだ高野よしてる]少女まんがのギャグのお涙ものを描いていたと思ったら、『13号発進せよ』も描けるし『木刀くん』も描ける。だからまんが家というのは何でも描いて当たり前だと子供心に思い込んでたわけですね。その後も昭和三十年代終わりまではトキワ荘の人たちも少年まんが・少女まんがを両方描いていた。その頃までは「児童まんが」というジャンルでひとくくりにできるくらい画風の幅はせまかったんです。そこに貸本屋の劇画がどっと出てきて、日本のまんがはさまざまな画風が乱立するようになる。
 ところが劇画が出てきて以後、まんが家入門の本すら「劇画はこういう顔にこういう背景をいれましょう。ギャグまんがは背景をあまり描き込んではいけません。単純にしましょう」なんて言うようになる。一生懸命型にはめようとするわけです。
(略)
[それでは]ロクなもんにならんわけでしょう。「それならもういっぺんぐちゃぐちゃにしちまえ」というのがこっちの[『ホモホモ7』]意図でしたね。
(略)
[絵の苦手な友人の漫画を手伝っていて、単調な会話のシーンがあり]
こんなページ読者に面白くないから、この二人を一コマ目はさいとう・たかをの絵にして、次は西谷祥子にして、次は秋竜山の絵にして、次はモンキー・パンチの絵にして……ってやってみた。それで描き終えてじっと見てみたら「あれ?こんな発想で何か描けるんじゃないかな……」と。それがスタート。『ホモホモ7』の糸口が見えてきた。
(略)
[冒頭に「昭和初期」と出る任侠映画をパロって]
[天皇Xデーを意味する]「昭和末期」はもちろんダメ。(略)これも単行本にする時に戻した。「マガジン」では「いつの頃かわからない頃」となっています。(略)戦前に講釈師が「頃は昭和の中の頃」と言って不敬罪(略)だから当然引っかかるかもしれないという危惧はあったけど、「わからねえだろ」と思ってやったら案の定引っかかった。

手塚が新しいわけではなかった

[1941〜46年まんがが戦争で消え]その間隙を縫って手塚治虫少年が戦後いきなりバーンとデビューする。(略)でも昭和30年くらいまでは手塚治虫よりちょっと年上のまんが家たちも手塚と同じようなまんがは描けたんですよ。(略)
[戦前のは]ギャグも乱暴だし、やることも乱暴。敵兵の首をパンパン刎ねて喜んで。(略)あの首がパンパン飛ぶのは歌舞伎ですよ。(略)弁慶が捕り手たちの首をポーンと全部刎ねる。あれと同じ感性でやっていた。そういうギャグを描くと戦後は「戦犯だ」ということになったから、ものすごくおとなしいギャグしかないんだよね、昭和20年代のギャグまんがは。だからこの人たちが戦前そんな派手というかノーテンキな戦争まんがを描いていたことは知らないわけです。(略)だから俺が子供の頃は「昔のまんが家はおとなしいまんがばかり描いているんだな」と思っていました。それに較べて手塚治虫第三次世界大戦の話から始めたりするからね。
(略)
 俺はたまたま貸本屋平田弘史さいとう・たかをを読みふけっていたけど、まんが雑誌は彼らを排除し続けていた時代があったわけです。あの時は秋田書店のまんが入門書ですら、もうとにかく劇画はブルーカラーが読者だということで書かれている。(略)「劇画の読者は中卒みたいなやつしかいないぞ」と。(略)そう露骨でなくても。「そのような人たちに読まれているようです」という書き方で。明らかに劇画は差別されて、それに対する怒りもこちらにはあったわけ。

平田弘史の迫力はギャグの才能による

 次のコマヘの移り方はちばてつや水野英子から、ストーリーはあすなひろし、テンポの持って行き方はさいとう・たかを平田弘史から学んだ。(略)
 とにかく平田弘史のコマ割り、ページめくりの迫力の凄みに匹敵するのは、映画の黒澤明以外にはいない。それほどのド迫力を描き続けられた人ですね。(略)平田弘史の評価は今に至るまで結局みんなわかっていないんだけど、何故彼がそういう凄まじい迫力を出せたかというと、あの人にはギャグの才能があったからなんです。平田弘史のギャグまんがというものがあるのですが、それが全然誰も気がつかない。(略)
あの凄まじい剣豪まんがの中で、平然とギャグがバンバン出てくるんです。(略)
[グロテスクで凄まじいから笑うという意味ではなく]意識的にちゃんとギャグが入っているんです。(略)
今のアニメの中でもシリアスな場面で平然とギャグをやるのは、そりゃ途上において『ホモホモ7』があったかもしれないけど、じゃあみなもと太郎がどこからそれを仕入れてきたかというと、絵はギャグの赤塚不二夫であっても、テンポのおかしさと不思議さは平田弘史であり、さいとう・たかをであり、ありかわ・栄一なんです。要するに貸本劇画の凄い人たちですよ。
(略)
[『巨人の星』の]「ガーン」は貸本ではずっと当たり前のようにあった。それもおそらくいちばん最初にやったのは平田弘史ではないかな。(略)
ページをめくっていくことに対していちばん才能があった。そういう意味ではさいとう・たかをよりも確かにあったね。さいとう・たかをは見せ場を見開きの左ページに持ってきても平気だったけど、平田弘史はそれをしなかった。ページをめくって脅かすということをきちんと知っていた。で、あの「バーン」とかも入れたし、最後にはビックリマークをスミで一ページ、バーンと入れるとか、そういうことを発明もした。それは武満徹の音楽の雰囲気を出したくてやったことなんですが。

真似した方が先に売れちゃう悲劇

聖悠紀はめっちゃ新しかった。並大抵じゃないですよ。だって『超人ロック』は、あの第一作「ニンバスと負の世界」が出てから「少年キング」の「炎の虎」になるまで十年以上開いていますから。で、その間に萩尾望都竹宮恵子が見に来る。
――はい。高校生の頃、「作画グループ」の本部に行った時、肉筆回覧誌に載ってた『ロック』に二十四年組の人の手書きで熱狂的なコメントがあったのを覚えています。
 それで『地球へ…』ができてくるわけだから。『地球へ…』が人気をとっている時に聖悠紀は仕事無いんだから。『超人ロック』が世に出てないんだから。これは日本のSFまんが史上とんでもなく悲しい話だ。
――聖さんのあの絵柄はどこから出てきたんですか?少女まんがとSFが渾然とした。あの絵って
松本零士あすなひろし西谷祥子。本人がちゃんと言っています。(略)
女の子の顔は、最初は全部西谷祥子なんです。(略)帽子がヤマトにも出てくるあの帽子。あれがやたらデカイのは松本零士。で、流れの美しさはあすなひろし。その三人からスタートしたのは全部わかっていることです。
(略)
[あすなひろしさんと西谷祥子矢代まさこがいなかったら、二十四年組は]
違うものになっているでしょう。ようするに二十四年組の最初の里中満智子以上のものにはならない。あの素朴な田舎っぽさね。あれです。
(略)
 萩尾望都はデビュー前に矢代まさこの模写をずいぶんしてたそうです。(略)
雑誌に出る以前の貸本時代の矢代まさこを、二十四年組は全部吸収してしまったわけです。でも世代が同じだったという恐ろしさがありますよね。(略)[昭和二十二年生まれの矢代]は十四、五歳くらいでもう単行本をバンバン描いている。
(略)
 矢代まさこという天才が十四、五歳の頃からびっしり描き溜めたものを、たった二歳くらいしか歳の違わないのが、まだ十二、三、四歳でそれを読んでビックリしていたわけです。
(略)
 矢代まさこにしてみれば、貸本世界で七、八、九年やってきて、やっと雑誌に出てきてみれば、自分のまんがで育った人たちが、自分よりも都会的な線で出てきている。それに対してどうしていいかおおいに悩むんです。
(略)
 矢代まさこは天才過ぎたから、十三、四歳でいきなり描き出して、それまでの少女まんがには絶対無かった、水野英子とも違うもの、ちばてつや路線とも違うもの、もっと何か不思議な、樹村みのりに近いのに、それでいてもっとストーリー性があるんです。

次回に続く。