負けない力 橋本治

本が書けるくらい元気になっているのでしょうか、ということでそれ以上は望まないというか。
全然関係ないけど、往年のビートたけしにシビレた劇団ひとりがオモクリで「たけしさんの面白トーク……のはず……」と固まった笑顔に……的な。昔を知らない若い奴に、たけしってどこが……、とかは言われたくないと握りしめた拳は汗ぐっちょりみたいな。

負けない力

負けない力

  • 作者:橋本 治
  • 発売日: 2015/07/09
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

第一章 知性はもう負けている

レクター博士のように(略)「頭がいいだけのへんな人」(略)には、自分の「異様な欲望」をコントロールする能力がありません。だから、「異常な犯罪者」になったとしても、頭だけは無駄にいいので、「自分のやったことの正当性」などを平気で口にします。そのようにキャラが造形されるのです。
 人間が社会生活を営む上で必要なのは、自分の欲望をコントロールすることです。実際にそういうコントロールが出来ているかどうかは別として、重要なのはその「必要」を理解して、自分自身が生きる上での前提にしておくことです。それこそが「知性がある」です。
(略)
 「頭はいいけど知性がない人」と言われて、どんな人を思い浮かべますか? 私は「品がなくてがさつな人」を思い浮かべて、「勉強は出来ても知性がない人」と言われると、「つまりはバカなんじゃないの?」と思ってしまいます。

第二章 知性はもっと負けている

[男尊女卑の風潮がまだあり]「理屈を言う女は可愛くない」と思われ、その結果、「インテリ女は女らしくないブスだ」ということになっていました。「知的な美人」というものが必要とされるのは、こうした女性の閉塞状況があったればこそです。(略)
「おしゃれというものは、男の好みに合わせて、自分をバカに見せるものだ」ということが、一部の知的女性には信じ込まれていました。(略)
 そういうものだから、「これは、自分をバカに見せる意識の低い今まで通りのものとは違う、自分をグレードアップして知的であるように見せる、新しいファッションでメイクなのですよ」という「知的な美人のファッションスタイル」が登場するのですが、今となってはなんともめんどくさい「経過」で「手続き」です。
(略)
「知的な女のファッション」が登場した後では、「私はみんなとは違う方向に行く」という流れも生まれます。
(略)
私がここで語ろうとしているのは、「初めは重要な意味を持っていたはずの知性が、やがてはなんの意味もないものに変わってしまう、そのプロセス」です。(略)
 それは、「誰かが“私は当たり前の中に埋没したくない”と言い出して、それが当たり前になると、誰もが“自分”をアピールするような個性的なファッションになり、その結果“みんな同じよう”になる」です。そういう展開を「大衆化」と言って、「大衆化」はとんでもない変化を生みます。
 たとえば、「ボディコン」はバブルの時代を代表するファッションで、「ボディコン女」というとどうしても「バカの代名詞」のようになっていましたが、これが実は「自己主張をする知的なファッション」なのです。
 ボディコン以前のキャリアウーマンファッションは、「男に媚びないファッション」で、すれすれのところで「男を拒絶するファッション」になってしまいます。だから、「男を拒絶してなにが嬉しいんだろう」という考え方も一方に生まれて、「男を拒絶しない、女の体のボディラインをありのままに強調した服」も生まれます。「ボディコンシャス」は「体のあり方に意識的」で、これを略して「ボディコン」です。外国語が使い勝手をよくするために短略化されると、その分「バカ度」も増すものですが、以上のような背景を持つのですから、「ボディコン」は思想的な服なのです。
 左翼思想が生まれて勢いを持つと、それに対抗するために右翼思想が生まれるように、キャリアウーマンファッションが生まれてボディコンも生まれたのです。だからボディコンを着ると、「私はある思想的確信に従ってこれを選び取った――ゆえに私がバカであるはずがない」ということになって、高飛車になってしまうのです。それが「知的」の効果です。
 ボディコンはキャリアウーマンファッションの対極にあるようなものですが、「私はえらいのよ」感が充満していることはどちらも同じです。(略)
ファッションの流行の中に、「私はそれを選んだからえらい」という思想的な要素が入り込んで来るからです。
(略)
高級ブランドを普通の人間が求める理由は、「私は高級ブランドを知っている。知っているから、私はそれを選べる」という知的優越感によるものなのです。その後に「そして買える」というものが来ます。
 ボディコンもキャリアウーマンファッションもブランド物も、すべては「思想的なファッション」で、その背後には、それを選ぶ人達の「私は自己を主張したい」という気持があります。めんどくさい言い方をすれば、それは「私が私であることの自己証明」です。
 この自己証明は「自分の外部にあるものを選び取ることによって可能になる」というもので、最早「自分」というものは「自分の内部にあるもの」ではなくて、「自分の外部にあるものを選び取ることによって表明されるもの」です。だから、この自己証明は金がかかります。
 いつの間にか人は「思想的な存在」になって、「私が私であることを表明したい」という自負心は、社会が豊かになるにつれて当たり前に広がって行き、そこに不景気がやって来たってそう簡単には収まりません。収まらないのは、定着してしまった「私は私でありたい」という欲望がとても強いものだからです。
 社会が豊かになって行くにつれて、「ファッションはその人の信念の表れ」というものになって行きますが、その先駆けとなったのがキャリアウーマンファッションです。その辺りから「ファッションが分からないのはダサイバカ」ということになるのですが
(略)
 「私はおしゃれをしています」と思っている人間は、それだけで「私はえらい。世のあり方が分かっている、知的な人間だ」と思いがちになってしまいます。これは、「自己主張の強い人間は、自分に知性があると思いがち」という法則の変化形です。「そんなへんな法則は知らない」と思われるかもしれませんが、今私が作ったばかりの「法則」なので、ご存知なくても不思議ではありません。
 自己主張の強い人は、「私は正しい」と信じています。そして、自己主張が強くなればなるほど「私は正しい!」の度合いも強くなって、「こんなに強く“正しい”と信じ込めるのだから、私は頭がいいのだ」と思い込めるのです。

 話はようやくこの章の初めに戻りましたが、私が言いたいのは「アイドル文化はこうして定着した」ではなくて、「みんなが知的になると知性なんかどうでもよくなる」ということです。(略)
「知的になる」というのはそうそうむずかしいことではなく、「自分は知的である」と思い込めば「知的」になれてしまうようなものでもあるのです。つまり「知的とバカはほぼ同じ」で、「自己主張が強くなれば、“目分は頭がよくて知性がある”と思い込める」です。
 悪い言い方をすれば、「みんながちょっとばかりえらそうになって、“目分はもう頭がいいから知性なんていらない”と思うようになった」です。そうだと思えば、矛盾なんかどこにもありません。

第三章 「知性」がえらそうだった時代

「教養」というのは「学んで身につけるもの」ですから、その知識が「身に沁みるかどうか」なんてことを考えずに、黙っておとなしくこれを引き受けなければなりません。その点で、「教養ある人」は真面目な人です。
 真面目な人は、知識を身につけることに疑問なんかを持ちません。そんなものを持ってしまうと、黙っておとなしく呑み込めるはずのものが呑み込めなくなります。だから、「教養ある人」はあまり疑問を持ちませんし、「分からない」という考え方もあまりしません。「なんでも分かるから“分からない”ということがない」のではなくて、「“分からない”と認めることが自分の敗北につながる」と思っているから、「分からない」ということを認めないのです。

 「どこがどう分からないのはよく分からないけど、なんかよく分からない」と思ったら、「自分はなにに引っかかってるのか?」を考えればよいのです。「なにが分からないのか」はモヤモヤとしていることなので、すぐには正体を現しません。だからまず「なにか引っかかるものがある」と考えるのです。
(略)
 「分からなきゃいけないこと」と思い込んで理解するのと、「なにかが分かんないんだけど」と思って考え直すのでは、自分へのプレッシャー度が違います。「分からなきゃいけない」と思って理解しようとすると、分からないのは「自分の責任」です。でも、「なんかへんだな?」で考え直すのは、「自分のせい」ではなくて「相手のせい」です。「あいつがわけの分かんないことを言うから、こっちはわけが分かんないんだ」と思って相手の言うことをフォローするのは、相手のボロを探すことなので、探究心は働きやすいのです。
 だから、会議の席にいる一番エライ人は、いたってあっさりと「なんだかよく分からんな」と言ってしまいます。エラクなった人は、「分からないのは自分の責任」なんていう考え方をしなくなるからです。

第四章 「教養主義的な考え方」から脱するために

 「他人の考え方」というのは、覚えるものではなくて、学ぶものです。「そういう考え方もあるんだ」と思って参考にして、自分の硬直してしまった「それまでの考え方」を修正して、自分の「考える範囲」を広げるためにあるのが「他人の考え方を学ぶ」で、つまりは、自分を成長させることなのです。
 「他人の考え方を覚える」だけだと、その成長に必要な変化が起こりません。前に私は「知識を身につけるのではなく、知識が身に沁みることが必要だ」と言いましたが、教養主義というのは、身に沁みなければなんの意味もない「他人の考え方」でさえも、「覚えていればなんとかなる知識の一種」として処理してしまうのです。
 「他人の考え方を知る」というのは、大袈裟に言えば、それだけで「自分の考え方」を揺るがせてしまいます。それで人は、あまり「他人の考え方」を知りたいとは思いません。「うっかりそんなことをして、へんに自分の考え方が揺さぶられるのはいやだ」と思っているのが普通で、そういう人達が知りたいのは、「自分の考え方を肯定してくれる、自分と同じような他人の考え方」だけです。(略)
 でも教養主義者は、「他人の考え方に揺さぶられる」ということを恐れません。恐れる前に、「なにを言っているのかよく分からない他人の考え方」なんかは拒絶してしまいます。そして、知っておくとトクになりそうな、「知識としてまとめられた他人の考え方」だけをマスターするのです。「その考え方ならもう知っている」と言うためだけに。それなら、「他人の考え方」を恐れる必要なんかありません。
「他人の考え方」を知識として取り入れられる教養主義者は、「他人の考え方に侵されない強固な自分」を持っていることになります。でもその一方で、「自分の考え方」が時代遅れになりそうになると、「別の考え方」と入れ換えてしまうのも、同じ教養主義者です。
 「自分の考え方」を持っている人なら、そう簡単に「考え方の入れ換え」なんかは出来ません。でも、いくつもの「他人の考え方」を「知識」として持とうとする教養主義者には、それが出来るのです。どうしてそんなことが出来るのかというと、話は簡単です。「自分の考え方」を平気で入れ換えてしまえる教養主義者には、「自分のオリジナルな考え方」が稀薄だからです。