安井かずみがいた時代 島崎今日子

永山則夫関連の本(kingfish.hatenablog.com)を読んだばかりなので、対照的な人生……と、永山に感情移入。ゴージャスだった方が、最後は虚無というか……。安井が1939年、加藤が47年、永山が49年。
関係者にインタビュー形式なので、ちょっとずつ違った角度で語られることで深くわかる面もあるけど、ゴージャスライフの部分は段々「また自慢かよ!」という気分にもなるw。とうわけでゴージャス部分はごっそりカッツアイ。
関心の度合いが「加藤>安井」な人間としては、最初、二人の収入格差と言われてピンとこなかった。歌謡曲黄金時代のヒット作詞家の収入はカラオケブームもあって、加藤とは段違いだったらしい。あの加藤が、安井の友人サイドからはヒモ扱いだったとは。

安井かずみがいた時代 (集英社文庫)

安井かずみがいた時代 (集英社文庫)

ポピュラー・ソングとは

 安井より七つ年下で、1946生まれの戦後っ子、中尾ミエが語る。
 「あの時代のポップスは日本全国津々浦々、みんなが聴いていて、みんなが口ずさんでいました。今、時々『原語で歌ってほしい』と言われることもありますが、それで歌ったら、聴く人は懐かしくないと思うんですね。やっぱり、日本語で歌わないとダメ。それまで日本は演歌の時代が長かったでしょ。演歌というのは言葉の歌でしょ。でも、ポップスになってくると、あの頃はとくに、イエイエイエとか、ウォーウォーウォーとか、リズムに音を乗せるから、意味がわからない言葉もある。いまだに歌っていて、意味のわからない歌もあるけれど、だけど、それが逆に口ずさみやすいんだと思います。安井さんが出ていらしたのは、そういう風に日本の音楽が変わっていく時代。時代にマッチした人が、その時代の色の詞を作ってくれた。安井さんは、そうした存在でしたね」
 それまでになかった話し言葉に、洒落た日常の風景の描写――歌詞作りにおいて、安井に大きな影響を与えた曲がある。彼女より四歳年上のキング・オブ・ロックンロール、エルヴィス・プレスリーの『ハートブレイク・ホテル』であった。訳詞を始めてすぐの頃、彼女はこの曲を聴いて衝撃を受けたという。セクシーで情熱的なプレスリーの歌唱にもだが、ホテルをハートブレイクという心の状態につなげたタイトルが安井の心を突き刺したのだ。
「自由に、言葉たちに表現力を持たせる。/大胆に、言葉たちを組み合わせてゆく。/存分に、言葉たちに印象を与える……時には造語的になる場合もあるかもしれないが。/身辺に、転がっている、そこらの言葉たちに、新しい、そして思いがけないイメージを与えるのは作詞家の最も楽しい作業である。/それらのヒント、きっかけは、『ハートブレイク・ホテル』だったのだ。(中略)その後、四千曲余りの作詞をしてきているが、常に詞案、着想に窮さずに来られているのは、ポピュラー・ソングとは文字どおり、ポピュラーな人間(私を含めて)たちの、ポピュラーな日常の中で捉えるテーマを追ってきたからだろう」(『安井かずみの旅の手帖』PHP研究所刊)

安井かずみと6歳下の村井邦彦

[楽譜を買いに行った音楽出版社で]訳詞をしているのを見かけ、「そこの所、こんな言葉はどうかしら?」と口を挟み、その場で訳詞をすることになったのである。そこにいた男たちの中に(略)漣健児がいた。
 このとき安井が訳したのが、坂本九が歌った、エルヴィス・プレスリーの『GIブルース』。生まれて初めてのアルバイトで、しかも21歳という若さで訳詞家(略)
 漣健児が訳詞家・安井かずみの才能の発見者だとすれば、作詞家・安井かずみを見出したのは演出家の林叡作であった。(略)NHKの『きょうのうた』のディレクターであり、安井の訳詞のセンスに目を留めて「オリジナルを書いてみませんか。あなたなら、何か変わった面白いものを作れますよ」と、提案したのである。1964年に中尾ミエが『きょうのうた』で歌った『おんなのこだもん』が安井の作詞家としてのデビュー作だった。(略)訳詞家から作詞家へ転身することで、安井の収入は急カーブを描いて上昇していった
(略)
[オーナーの息子・川添象郎が友人だったので『キャンティ』に出入りしていた村井]
僕なんか子供に見えたんでしょうね。挨拶はするけれど、じっくり付き合うといった感じではなかったです。ところが、安井さんは僕の友だちの新田ジョージの奥さんになったんです。(略)
 慶応大学四年生の時、村井は新田ジョージの父親が経営する赤坂の小さなデパートの一角を借りて『ドレミ商会』というレコード店を始めた。(略)
 「ジャズやクラシックばかりで歌謡曲というのは聴いたことがなかった。ところが、『ブルー・シャトウ』や『帰って来たヨッパライ』があまりにも売れるので家に持って帰って研究したら、洋楽的な要素がすごく入っているんですね。こういうものだったら僕もできると思って書き始めました」
 村井が最初に書いたヴィッキーの『待ちくたびれた日曜日』がヒットし、二曲目に書いたのがザ・タイガースと人気を二分していたザ・テンプターズの『エメラルドの伝説』(略)
それから安井かずみさんと仕事するようになるんですね。(略)
二人のはじめての共作は、1969年のトワ・エ・モワが歌った『美しい誤解』。以降『ラヴ・ラヴ・ラヴ』『経験』『私生活』とたて続けにヒット
(略)
 「僕は作曲の仕事でパリに行って、版権ビジネスというものをフランス人に教えてもらうわけです。その時に買い付けたのが『マイ・ウェイ』。1969年のことでした。翌年には米国最大手の音楽出版社であるスクリーン・ジェムズ・コロンビアの日本の代理店になって、それから何年間もパリやニューヨーク、ロサンゼルスやロンドンをぐるぐる歩いて世界中の音楽シーンを見ているうちに、アトランティック・レコードやA&M、アイランド・レコードなど独立系のレコード会社の創業者と友だちになり、感化されるわけです。(略)
欧米のインディーズ系のレコード会社をやっている人は、元ミュージシャンやレコードコレクター、レコード会社の宣伝マンなど、全員が音楽が好きで始めた人だった。だから、僕も日本でレコード会社をやろうと考えたわけです」
[1977年アルファレコード設立]

フェリスで同級生だった藤村志保の追悼コメント

「アカ抜けていて、とてもおませな人だった。お洒落で、同じ制服でも、彼女はリボンの結び方とかが少し違ったりして独特の感じがあった」

稲葉賀恵(BIGI設立)談

 『ベビードール』は、『キャンティ』のオーナー川添浩史の夫人、川添梶子がプロデュースする日本最初のブティックで、ヨーロッパからの輸入雑貨から梶子デザインのオートクチュールまでを扱っていた。
 「素敵なものがいっぱい置いてあった。その頃、ビキニが欲しくて欲しくて。でも売ってないから、あそこでサイズを測って作ってもらいました。アクセサリーも、半貴石を使った派手なイタリアのものとかがあって。梶子さんはみんなからタンタンと呼ばれていて、本当に魅力的な人でした。私、最初に会った時、この人、何者かと思ったもの。長い黒髪、お能の小面のような顔をして、ターコイズ色のサブリナパンツに金色のハイヒールはいて、ポンチョみたいなものを着ていた。かと思うと、別の日は下品すれすれのゾロッとした着物を着ていたり、ピシッとしたスーツを着ていたり、もう素敵で素敵で。お話ししてみるとざあます言葉の中に、『ぶっとんだ』という言葉が混じるの。私もZUZUも、まだ『よろしゅうございますか』なんて口をきいていた頃だから、意味がわからなかった。

『雪が降る』日本語盤レコーディング

[夫の新田とニューヨークで決裂、親友ナベプロ渡邊美佐のいるパリへ]
傷心の彼女を慰めるため、アダモは自身の世界的なヒット曲をもう一度安井の訳した日本語で歌った。

『危険なふたり』

 安井は、『危険なふたり』というタイトルが浮かんだのは仕事帰り、沢田研二を助手席に乗せて車を飛ばしていた時だったと、週刊誌で打ち明けている。
[加瀬邦彦談]
 「あの詞は、ZUZUが自分をテーマに書いたような気がするんだよね。♪年上の女 美しすぎる♪なんて、図々しいよな。♪それでも愛している♪なんて、これは絶対自分がそうされたい願望だよね。レコーディングの時に、ジュリーにそう言うと、彼は『そうですかね』と笑っていた。ZUZUはずっとジュリーに片思いしていたからね。恋人にはなれないとわかっていて、一緒にご飯食べたり、買い物できたらそれでいいと思ってたんじゃない? 僕とのジュリーの仕事も心から楽しんでやっていたよ」

大宅映子

[安井の後半生、加藤との再婚以降の大切な友人]
若き日の武勇伝は聞いています。大麻所持で捕まった時のこと。留置場で出された食事を一切摂らなかったので、心配した刑事に『どんなものなら食べてもらえるのでしょうか』と聞かれ、『キャッフェ・オ・レとクロワッサーン』と答えると、刑事は『キャ、キャって、それは何ですか』と言ったとか。鼻にぬけるフランス語の発音が何度聞いてもおかしかった。
(略)
ZUZUは結構辛辣で、団地で主婦がマイクを向けられて『税金が重くて生活が苦しい』なんて言うのを聞くと、『嘘つけ、税金を払ってないくせに』なんて言っていた。彼女には努力して作詞家になったという自負があったのでしょう。

子供

加藤タキが42歳で産んだ息子はその頃はまだ小さくて、大人たちの集まるパーティには不釣り合いな存在であった。が、ずっと“おりこう”にしていた彼を、安井は「あなたはいい子だ。どうしたらこんな子に育つの?」と褒めて、贔屓にするようになった。
 子どもを持たない安井は、何度かタキに「子どもがあってよかったね」と言ったことがある。タキは、社会活動家で政治家だった加藤シヅエが48歳で産んだ娘で、自身も高齢出産の体験者。安井は、そのことをよく夫の前で話題にした。
 「かずみさんが子どもをほしがっているんだと感じました。でも、その話題になると和彦さんはスッと席を立ったり、話題を変えたりしたので、私は同じ女として、かずみさん、淋しいだろうなと思ったものでした。

[安井の妹・オースタン順子談]
[クリスマスには両家揃ってパーティ]
加藤さんのお母様は孫を欲しがっていましたね。私にいつも『順子さんは子供を産んでちゃんと育てて、えらいわね』とおっしゃるんです。姉は『うるさく子供のことを言われて困っている』と、こぼしていました」

カパルアでの散骨式

[レイは寄せる波と共に何度も戻ってきた] 
「まるでかずみさんが『行きたくない、行きたくない』と言っているみたいに思えました。……実は女性陣の何人かは和彦さんの様子がおかしいと気づいていました。彼が散骨式を終えた翌日すぐ、イタリアの友人とラナイ島に行くと言って借りている車を置いたまま旅立った、ああ、誰か女の人がいるんだなって、ね。葬式の時、参列していた女性は全員、和彦さんの『僕は、ZUZUとイエス・キリストと三位一体でこれから生涯生きていきます』という挨拶に、自分も夫にそう言われたいと感激したわけです。だから、その時、なーんだ男は、と落胆しました。だけど、かずみさんはやっぱり幸せだったと思います。ああいう台詞も、和彦さんの本心から出たもので、真実だったのですから」
 安井の一周忌を待たず中丸三千繪と結婚した加藤は、以降、安井と結婚していた時代に親しかった友人たちとの関係を絶ってしまう。安井が愛したヴィラも売却して、タキや黒川とも会うことはなくなった。だが、加藤と中丸との結婚生活は長くは続かなかった。離婚後の加藤と何度か六本本ヒルズのエレベーターで出くわしたことのある黒川が、旧友を思いやる。
 「いつも違う女の人を連れていたのにどこか淋し気でした。『また飯食おうよ』と誘ったら、彼は『僕のことみんな批難しているから受け入れてもらえない。昔の世界には戻れない』と言うんです。ZUZUの莫大な遺産を相続しただろうなんて彼に面と向かって言う人もいたから、それも重かったと思います。決してZUZUから自由にはなれない。女性陣は彼の早い結婚を批難したけれど、和彦ちゃんは仕事をやめてまでZUZUを看護し、尽くしたんだから、僕は、ああ、よかったねと思った。彼には喪失感を埋めてくれる人が必要だったんですよ。でも、やっぱり、最後は、尊敬して愛したZUZUのところに行ったんだと思いますね」

玉村豊男・抄恵子夫妻

[トランプでも奇抜な手を目指さず、堅い手で勝つ安井]
『それで楽しい?』とからかうと、『もちろん、ゲームはこういうふうにするんだ』って真面目な顔で言ってましたね」
 そうした安井の性向は、テニス選手の好みにも表れていた。(略)
安井のご贔屓は、強いのに「機械」と呼ばれて人気がなかったイワン・レンドルだった,
 「僕らが『マッケンロー、カッコいいね』と言ってると、『レンドルはどうして人気がないの』と怒っていた」
「“レンドルの母”って、私たちは彼女を呼んでいたわよね。よく、こんなつまんないテニスをする選手が好きね、って。でも、わかるの、あの端正なフォーム。かずみさんの好きなタイプよね。女性プレイヤーではパワーテニスのマルチナ・ナブラチロワと、良妻の鑑のようなクリス・エバートが好きだった。どちらも正統派ですものね」
 「そう、強いものは正しく尊敬されるべきだというのがZUZUだった。彼女は正しいのが好きなんだね」

 安井が亡くなってからの加藤は仕事も手につかず、半ば抜け殼のようであったという。そんな彼を案じた玉村夫妻は、その年の五月に、「気分転換しないか」と加藤を自分たちの農園に誘った。エルメスの長靴を持ってやってきた加藤は「できたら、僕、自殺したい」と口にした(略)
抄恵子が「大丈夫、大丈夫」と元気づけると、「うん、ZUZUもよく『大丈夫』と言っていた」と呟いた。
 「きっと加藤さんはかずみさんに大丈夫と言われて頑張ってきたんだなあと、私、思いました。(略)
 いかに加藤が安井に忠実であったか。この時期、豊男と抄恵子は、ずっと朝食の時はコーヒーを飲んでいた加藤が、実は紅茶が好きだと知って驚いた。
 「結婚して17年も、相手に合わせてたんですね。それが加藤さんのスタイルなんだと、僕らは感心しました」
(略)
加藤さんが滞在していた我が家の離れの電話がやけに高くつくと思ったら、ヨーロッパにいる中丸さんに電話してたんですね。(略)
[安井の生前から]付き合っていたのではと疑った友達は多かったけれど、僕らはそれは絶対にないと思っています。亡くなる時まで、彼はZUZU一筋でしたから」
 「あの夏に中丸さんのことがすごく好きだと、私たちには白状したわね。『僕は絶対強い女性じゃないとダメなんだ。何かを持っている人じゃないと好きになれない』と言っていたし」(略)
安井の服や靴も、安井と二人で集めた食器もすべて処分した。中丸のツアーについて回り、彼女のステージ時間に合わせパスタを作っていると嬉しそうに話した。そうした彼の行状は、当然、安井を愛した人たちの怒りを買った。
(略)
豊男も抄恵子も加藤の死を知った瞬間に、安井のところに行ったんだなと感じた。豊男が語る。
 「加藤さんは相手の女性に合わせて自分を染めることが方針なんだけれど、ZUZUとの17年間で完全に加藤和彦ができあがってしまった。あの時間が最高の時代だったんでしょう。ZUZUとの暮らしで学んだことなど、彼女がある意味、彼の大切な部分を作っているところがありました。凄い吸引力でお互いを結びつけていたんでしょうね。二人は最高のパートナーで、完全に一体になって存在してしまったので、彼はそこから抜けることはできなかった。

次回に続く。