モータウン〜 その4 ファンク・ブラザーズ、HDH

前回の続き。

モータウン・ミュージック

モータウン・ミュージック

ファンク・ブラザーズ

デトロイトの黒人ミュージシャンの間ではモータウンのギャラの安さは常識となっていた(略)
[そこを狙い]ゴールデン・ワールドとリック=ティック・レコードが行動を起こした。(略)モータウンのケチさかげんをあげつらい、モータウンの才能あるミュージシャンたちに、自分のところのセッションに参加してくれれば組合規準で金を支払うと誘いをかけた。ミュージシャンはこの話に食いついた。ヴァン・ダイク、ジェマーソン、ベンジャミン、その他何人かが週末にこっそりと抜け出してはバイトに精をだした。(略)
エドウィン・スターの〈エージェント・ダブル・オー・ソウル〉(略)
〈ストップ・ハー・オン・サイト〉は、モータウン以外から発表された“モータウンサウンド”の中で最高のレコードという評価を得ている。
(略)
パーラメンツも、その頃は直立型のヴォーカル・グループで、リック=ティックから〈テスティファイ〉を発表し[ソウル・チャート3位](略)
ウィンゲイトは1965年にサン・レモ・ゴールデン・ストリングスという、モータウンが使ったデトロイト・シンフォニーの演奏家たちから或るグループを結成(略)〈ハングリー・フォー・ラヴ〉をポップ・チャートのトップ30に送りこんだこともあった。
 モータウンはゴールデン・ワールドが自分たちのミュージシャンを勝手に使っているのを知ると、すぐにミッキー・スティーヴンソンを差し向けて、プレイヤーたちに思い直させようとした。
(略)
 このアルバイトはゴールデン・ワールドだけでなく、モータウンサウンドを盗もうとデトロイトに潜入してくる他のプロデューサーたちにもひろがった。プレイヤーたちは60年代、バート・バカラックとハル・デヴィッドがデトロイトにやってきてディオンヌ・ワーウィックのレコーディングを行なったのを覚えていると言う。また彼らはセッションのためにニューヨークやシカゴヘ行ったこともあった。彼らが非公式に参加したレコードの中で最も有名なのは、1967年にジャッキー・ウィルソンが放った大ヒット〈ハイヤー・アンド・ハイヤー〉だろう。シカゴで録音されたこの曲には[ジェマーソン、ヴァン・ダイク、ジョニー・グリフィスが参加](略)
 ベリーのスタジオ・ミュージシャンにたいする扱いについて肯定的な評価をしていたヴァン・ダイクだが、彼自身もやはり失望を味わわずにはすまなかった。実のところ彼の場合にも、スタジオ・ミュージシャンからレコーディング・アーティストへの一線を越えようとしたとたん、トラブルが起きたのである。(略)
[スティーヴィーがハーモニカを担当した〈モンキー・トーク〉というラムゼイ・ルイス・スタイルのポップなジャズ・ナンバー]
ベリーも「こりゃ大当たり間違いなしだ」と喜んだ。しかし、問題が一つあった。ヴァン・ダイクがアーティストとしての契約をしないかぎり、モータウンはそのレコードをリリースできなかったのだ。「そこで私はアーティスト契約を結んだ」とヴァン・ダイクは語る。「だから私は当然〈モンキー・トーク〉を出すんだと思ってた。ところが彼らはとうとうそれを発表せずじまいだった」
(略)
[会社は]モータウンのヒット曲のリズム・トラックにオルガンをオーヴァーダビングしてみないかと持ちかけた。その結果できあがったのが《アール・ヴァン・ダイク・プレイズ・ザット・モータウンサウンド》というアルバムだったが、〈モンキー・トーク〉は含まれていなかった。人をだますようなこのやり方にヴァン・ダイクの気持ちは傷ついたが、彼にはモータウンの考えを読みとることができた。「〈モンキー・トーク〉は新曲だったし、ピアノとハーモニカが前面にフィーチャーされていたから、もしそれを発表すればモータウンとしては私をプッシュしなければならなくなる。そのためにはたぶん、私はスティーヴィーと一緒にツアーに出ることになるだろう。それは彼らの望むことじゃなかったんだ。私にはスタジオで働いていてほしかったわけさ」その後さらにジャズっぽいアルバムが二枚、彼を中心にして制作されたが、ヴァン・ダイクはスタジオに留まり、スタインウェイハモンドのB3オルガンを弾き、ジェマーソンやベンジャミンの不始末をかばってやるという仕事を続けたのだった。
(略)
[ジェマーソン談]
「そりゃもう、ベニーは俺の一番のお気に入りのドラマーだったよ。彼が死んだ時には、二週間、何も食べられなかった。すごいショックだったんだ。ドラムスとベースでさ、サウンドをタイトに引き締めていたのは俺たち二人だったからね。楽譜なんて必要なかった。私が弾きはじめる。彼が叩きはじめる。互いに顔を見合わせるだけで、三連符、四連符、ダブル・タイム、その他なんでも、どうすればいいかわかったんだ」
(略)
モータウンのレコードではピアノ、オルガン、ヴァイブなどのバランスが悪かったり、サックス・ソロがひどい音質だったりということが間々ある。ベニーのドラムスさえ、H‐D‐Hのミキシングではタンバリンとギターの音にかき消されてよく聞きとれないことがある。しかし、ベース・ラインだけは、けっしてそんなことはなかった。ベース・ラインがそれほどまでに存在感を保てた理由の一つとして、モータウンが業界でも最初に、ベースを直接ミキサー卓に接続して録音したスタジオの一つであったことがあげられる
(略)
 ジャズの出身ではあったが、ジェマーソンは自分が影響を受けたものについて、次のように語ったことがある。
 俺の中にはいつも東洋的な、というか精神的なものがあった。たとえば〈スタンディング・イン・ザ・シャドウズ・オヴ・ラヴ〉のベース・ラインにはアラビア風の雰囲気があるだろう。身近にはいつも東洋人がいたんだ、中国人とか日本人がね。それから、アフリカやキューバやインドの音階も勉強したことがある。そうしたものすべてをモータウンでの仕事に応用した。デトロイトの俺の家の近所には東洋から来た人たちがたくさん住んでいた。俺のプレイを気に入ってくれる東洋系の音楽家もいて、彼らとはずっとつきあってる。
 彼らの話し方、声の抑揚といったものを注意深く聞いた。すこしは意味だってわかるようになったんだ。彼らの歩き方を観察して、その動きからビートを感じとったりもする。テンプテーションズがやったヘヴィーでファンキーな曲があったんだけど……名前は忘れてしまったけど、いつも歩きまわっている、大きな太った女性がいた。彼女はじっとしていられない質でね。彼女の動きを見ていて、そのテンプテーションズの曲のベース・ラインを編み出したんだ。
(略)
[プロデューサーから渡されるのは、コード進行か、簡単なメロディーと歌詞だけ]
ジェマーソンはそれをもとにベース・ラインを組み立ててしまうのだった。「いつもメロディーを支えるようにと考えていた」と彼は言っている。「そうしなきゃならなかった。たいていはパターンの繰り返しなんだけど、その中にいろんなものを盛りこんでいった。パターンの繰り返しでもファンキーで気持ちのこもったものにしたいからね」

録音技術

エンジニアのマイク・マクレインとローレンス・ホーンは、ブライアン・ホランドやその他何人かのプロデューサーと協力して実験と失敗をかさねながら、60年代中頃にはもともと3トラック用だった録音機を8トラック用に改造してしまった。コントロールルームのドアを入ったすぐ横の壁際にはアンペックスの8トラックが2台あった。マイクロフォンのケーブルはカンゾウの枝のような格好で天井からぶら下がっていた。メインとなる8トラックのミキサー卓の向こうのスタジオにはギタリストとベーシストのために置かれた椅子があった。ピアノはそのすぐ左にあり、ピアノのななめ向かいにドラムスがセッティングされていた。部屋の真ん中にはマイクロフォンがたれ下がり、すくなくとも最初の頃にはそこでシンガーたちがスタジオ・ライヴの形で歌を吹きこんだものだった。ベリーが隣接するビルを買収した時に、ピアノの後ろの壁の部分にサイドルームが作られた。ヴァイブやオルガン、パーカッション類がそこに置かれた。(略)
大きなアンプを置くスペースなどはなかったので、ギターやベースは直接ミキサー卓に接続され、部屋に一個だけあるスピーカーからその音が流された。ギタリストはセッションが始まる前に、ぜったいオーバーしてはならないプリセット・レベルにボリュームのつまみを合わせておくことが習慣になっていた。あまり何度もそのレベルをオーバーしてしまうギタリストは、モータウンでの仕事を失うことになった。こうした準備は必要上やむなく行なわれたわけだが、それがあの歯切れのよいモータウンサウンドの誕生に大きく貢献することになった。
(略)
モータウンは最初にリミッターを多用した会社の一つだった。若くて未熟なヴォーカリストがおおぜいいるモータウンでは、リミッターはなくてはならない安全装置だったのだ。反対に、ニューヨークのレコーディング業界ではリミッターは歓迎されなかった。シンガーの持つ“ダイナミック・レンジ”を台なしにしてしまうと考えられたのだ
(略)
また「驚くべき台数のイコライザー」を使っていたということだ。ある時など、8トラックのレコーディングに、16台のイコライザーが使用されたという。そのおかげで幅広い周波数帯域をレコーディングに活用することができた。ニューヨークで行なわれるセッションではふつう、一本のマイクにたいしては二つの周波数しか設定されていなかった。すなわち、ベースとトレブルだ。モータウンでは一本のマイクでベース、ミッド・レンジ、ロウアー・トレブル、ミドル・トレブル、そしてアッパー・トレブルが区別され、ミキシングの段階でさらにイコライザーが使用された。
(略)
[トランジスタ・ラジオ、カーラジオが普及]
ベリーとその仲間は賢明にも、モータウンの音楽はトランジスター・ラジオ向けに制作すべきだという結論に達する。
(略)
 品質管理のオフィスでは、モータウンのチーフ・エンジニア、マイク・マクレインがカー・ラジオにそっくりの、超小型でキンキンした音を出すよう設計されたラジオを作りあげていた。この装置を基準にして、モータウンのレコードの、あの高音を強調したサウンドが生み出されたのだ。
 同じく重要な役割を果たしたのは、レコーディングされた曲がどれだけの説得力を持っているかはマスター・テープではなくレコードのビニール盤の音で判断すべしというベリーの見解だった。(略)テープからプラスティックヘ音を移しかえる過程で何かが失われてしまうからだ。
(略)
[63年ディスクのカッティング・マシン導入]
ヒット狙いのシングルはこのマシンで直接レコード盤に移しかえられた。ベリーはモータウンがリリースする曲すべてについて、数えきれないほどの違ったミックス・ヴァージョンを作らせた。ギターの音を下げてベースを上げろ、歌詞の二番になったらヴォーカルを大きめにしろ、などなど。いろいろな指示が出るたびにテープがミックスし直され、それがディスクにカッティングされ、その音が検討された。ミックスが20種類というとさすがに多い方だったが、12種類などというのはざらだった。H‐D‐Hが制作した素晴らしい出来の曲でも5種類ですむなんてことはまずなかった。むしろ強力なレコードほど完璧なミキシングをめざして、多くの案が試作された。

H‐D‐H

駆け出しの頃の三人にたいして、ミュージシャンたちはいくらか軽蔑感を抱いていた。(略)
[ある日、ブライアン・ホランドからいくつかのコードを試してくれと指示された]
ジェマーンンは 〈スリー・ブラインド・マイス〉のメロディーを弾いてブライアンをからかい、他のプレイヤーを喜ばせたというのだ。ジョニー・グリフィスは当時、「彼らは自分たちが何をやっているのかもわかっていなかった」と言い、ヴァン・ダイクもそれにうなずいて、「そうそう。五つぐらいのコードと、それにフィーリングだけを持ってやってくるわけだよ。形あるものに仕上げてない彼らを、私たちはよく笑ったものさ」と語る。
(略)
[ヴァン・ダイク談]
ラモンはいつもピアノに向かって、変わりばえのしない、つまらない作品を作ってた。彼の歌う曲と同じように、ラモンを見ているとジェイムズ・ブラウンを思い出したもんだ。彼は一つのリズム・トラックから十曲は作ることができた。どれも同じような曲だったからね。ところが私が何かフレーズを弾くと彼は「いやいや、そのフレーズは前の曲で使ったじゃないか。別のを弾いてくれよ」って言うんだ。よくそういうことがあった。どっちみち曲に違いがあるわけじゃないのにね。彼はこう言うんだ。「僕の曲全部に、おんなじくだらないフレーズばっかり弾かないでくれ。もうきみを使わないよ」だから私も言い返した。「だってあんたのくだらない曲は全部おんなじに聞こえるぜ」って。
(略)
[それについては]
エディー・ホランドも認めているが、それが自分や自分の相棒たちについての話だということは否定している。彼は次のように記憶している。
 彼らはブライアンをコケにしようとしたけど、ブライアンは彼らの出すコードを全部言い当てたんだ。ブライアンがコードをちゃんと知っていて、どれがほしいか、どの音がちゃんと出ていないかも指示できるとわかると、ミュージシャンたちはすぐ態度を改めた。彼らがそういうふうに態度を一変させるのを何度も見たし、ブライアンについてのそんな話は何かの間違いだろう。
(略)
プロセスでまっすぐにした髪の毛をバッチリとセットし、おしゃれなニットを着て、気障ったらしいパイプをくわえた三人の若僧が、レコードを買う大衆の好みをしっかりとつかんでいることはまもなくあきらかとなる。彼らはマイルスやモンクのことなど知らなかったかもしれないし、楽器の名人というわけでもなかったが、メロディー作りについては天賦の才能を持っていたし、ストーリー性のある歌詞作りにもずば抜けたセンスを備え、さらに“ひっかけ”と呼ばれる、くりかえし登場する歌や楽器のフレーズを生み出すことにも長けていた。
(略)
 ラモン・ドジャーの話では、H‐D‐Hはすこしずつ手を加えながら、一日に二、三曲の歌を完成させていったという。「曲の断片のようなものがいっぱいあったからね。フックの部分だけとか、歌詞の切れっぱしとか。だから一日の終わりには何かしら曲ができあがっていたよ。だからこそ私たちはあれほどの短期間に成功することができたんだと思うよ」エディーは歌詞を書き、ブライアンは作曲をした。そしてラモンは、ホランド兄弟のそれぞれと共同で、両方をすこしずつ担当した。
(略)
 H‐D‐Hの考えからすれば、概略だけのコード譜を見てバカにしたり文句を言ったりするミュージシャンは、音楽の本質をわかっていない、ということになる。ブライアンはこう語っている。
 コードなんていうのはパズルみたいにあてはめていけばいいんだ。肝心なのはいつだってメロディーさ。メロディーを生かすためにはコードをあちこち変更したりもするよ。曲の盛り上がりを考えて変えることもあるし。とにかくメロディー第一。メロディーがあって初めてコードもつけられるんだ。コードは砂糖の衣のようにメロディーを包んで華やかにしたり、ちょっぴりドラマティックにしたりする手助けをしてくれればいいんだ。ドレスアップのね。それが枠組みになる必要はないんだよ。
(略)
デヴィッド・モースは次のように書いている。「彼らはなんのためらいもなく、古い曲をスペア・パーツとして利用し、歌を組み立ててしまう。歌詞の一節、テーマとなるアイデア、音楽的なスタイル、バックの演奏、サックスのソロでさえ、組み替えられ、レコードからレコードヘと使い回しされる。彼らの曲はすべて、いわばコラージュなのだ」
(略)
[元モータウン・エンジニア談]
 彼ら〔H‐D‐H〕のやり方を教えようか。彼らはまず演奏だけのトラックを録音する。その時点では、誰に歌わせるかなんとなく考えはあるけど、はっきりとは決まっていないんだ。基本的な楽器、つまりリズム・セクション、ホーン、ストリングスなどが録音できると、ブライアンかラモンのどちらかがこれを編集して、レコードになるよう音楽的にまとまったものにする。でエディーがそれに歌詞をつけていく。この作業を四回か五回、完璧な形になるまでくりかえすんだ。それから彼らはその曲をいろんなアーティストに歌わせてみて、一番できのいいアーティストに与えるわけさ。
(略)
 60年代中頃を通じてH‐D‐Hの作曲やアレンジはどんどん野心的になっていった。(略)
ジョニー・グリフィスは、〈リーチ・アウト・アイル・ビー・ゼア〉〈スタンディング・イン・ザ・シャドウズ・オヴ・ラヴ〉〈バーナデット〉〈セヴン・ルームズ・オヴ・グルーム〉――すべて1966年末から67年中頃にかけてリリースされた曲だ――のように、ドラマティックなブレークやぐっと気分をもりあげる楽器のフレーズ、それに意外なリズム・チェンジがふんだんに使われた曲をさして、H‐D‐Hの“クラシック時代”と評する。ブライアン・ホランドはクラシックを聴きこんでいたし、“テンションと解放”の力学が曲の構成上いかに重要かもちゃんと勉強していた。サウンドが複雑になっていくにつれて、ブライアンがレコーディングに費やす時間も長くなっていった。たとえば〈リーチ・アウト〉は、録音に二時間近くをかけた。1966年頃のモータウンの常識からすれば、これはもうマラソン・セッションと言ってよかった。
 H‐D‐Hはまた、モータウンのセッションに画期的なスタジオ・テクニックをいくつかとりいれた。何回か、ジェイムズ・ジェマーソンの弾くエレクトリック・ベースに、クラレンス・イザベルのアコースティック・ベースが重ねて録音された(ジェマーソンは後日このことを否定している)。一方が躍動感のある派手なベース・ラインを、そしてもう一方が“ストレートな”ベース・ラインを演奏することによって、ダイナミックなリズム・トラックをより強烈なものにしたわけだ。シンセサイザーの前身ともいえる電子機器、オシレーターも、“耳当たりをよくする”機械としてH‐D‐Hによって多用された――シュープリームスの〈ザ・ハプニング〉〈イン・アンド・アウト・オヴ・ラヴ〉がそうだが、〈リフレクションズ〉の一風変わったイントロも忘れることはできない。すべて1967年の作品である。
(略)
H‐D‐Hはその才能で数々の賞、尊敬、そして金を手にした。彼らは幸福なはずだった。しかし表面下ではぎこちない空気が渦巻いていた。彼らが生み出した利益(略)彼らがモータウンの音楽に与えたアイデンティティー、これらすべてを考えれば、彼らはもっと大きな見返りを期待してもいいのではないか――次次とヒット曲を送り出しながら、エディーはこうした気持ちを抱き、ラモンや弟のブライアンと話し合うようになっていた。

次回に続く。