立川流騒動記、三遊協会

立川流騒動記

立川流騒動記

 

 なぜ円生は脱退という強硬手段に出たのか

犬猿の仲の副会長・正蔵を次の会長にしたくなくて、道連れにして会長を辞任し、院政を敷く気分で小さんに会長職を譲った。「自分のやりたいようにやんなさいよ」という円生の言葉を腹芸ゼロの小さんは額面通りにとり、円生に断りなく真打大量生産、しかも正蔵を相談役に。香盤で正蔵が円生の一枚上だったが、円生襲名の際に正蔵に「形だけでもいいから上にしてくれと」頼み、人のいい正蔵は承諾。

正蔵は本来自分の方が上だと思っているから、円生に対して遠慮しないでずけずけと物を言う。円生はたとえ譲ってもらったとしても香盤上では自分が上であり、芸の上でも逆転したという自負があるのでこれが面白くないという図式で、いつの間にか2人は犬猿の仲になってしまったというのである。つまり円生の落語協会脱退の真の原因は、正蔵がバックの小さんと、正蔵嫌いの円生の代理戦争だったという訳なのだ。

円楽の誘いに乗じて「第二落語協会」設立を目論んだ

談志がなぜ離脱したか

三語楼さんはなんと、円生と敵対する落語協会の会長、柳家小さんの長男なのである。これを見ても談志は新しい協会を落語協会に敵対する団体として創ろうとしたのではないことが解る。談志はあくまで落語協会の第二団体、あるいは友好団体として新協会を創ろうと考えていたのだ。
[芸術協会と10日交替しているが、落語協会を二つにして10日ずつ取れば、ひと月のうち落語協会20日取れる]
(略)
 そろそろ新協会のメンバーが固まって、後は設立に向けて細かい詰めをしようと円生宅に談志、円楽、志ん朝と主だったメンバーが集まったときに、談志が円生に、
 「師匠、ところで次の会長は俺ですね?」
 と聞いた。新協会という発想そのものが自分のものであるし、メンバーもほとんど自分の息の掛かった者を集めている。円生はお神輿で、実質は自分の協会だと思っている談志は当然のように次の会長は俺だと思っていた。
 ところが円生はこの時、
 「いや、次の会長は志ん朝さんでげす」
 と答えたのである。
(略)
 「志ん朝に抜かれた時は、俺は一晩中押し入れの中で泣いたもんだ」
 と語ったのを聞いたことがあるし、落語協会にいた頃談志は、
 「いいか、抜いた奴は忘れるだろうが、抜かれた奴は一生覚えてるもんだ。だから俺は自分の弟子は絶対に順番に真打にする」
 と常に弟子に言っていたものだ。
(略)
 もちろん円楽は円生より政治が判るから、
 「俺は次の会長は談志さんでいいよ」
 と言ったのだが、談志に、
 「次の会長を俺に譲れ」
 と言われた志ん朝は、
 「私は嫌だ、次の会長は譲れない」
 と頑なに拒否したのである。(略)
この一言で談志は三遊協会から降りる決心をして、この瞬間に三遊協会は挫折する事が決定したと言えよう。この席を蹴って帰る時、談志は、
 「俺がいなくてこのメンバーで三月もったらお慰みだ」
 と捨てゼリフを吐いたそうだ

 実際に[当初の]そのメンバーを見て寄席、少なくとも上野鈴本は興行してもいいと言っていたのである。円生も弟子に、「上野はやってもいいと言っている」とはっきり語ったと弟子も言っているし、談志も、「鈴本はやりたがってるし、新宿もやってもいいと言っている」と私は直に聞いた。まんざらこれはハッタリではあるまい。(略)
席亭会議で三遊協会が拒否された理由も、寄席が旧来の落語協会に肩入れしたとか秩序を守ろうとした訳ではなく、末広亭の席亭、北村銀太郎氏の発言でも、
 「あのメンバーでは興行は無理だ。円生、円楽、志ん朝、円鏡はいいが、彼等が休んだら代わりの者がいない」
 という層の薄さに対する営業上の危惧が主因だったのである。それだけ談志が抜けた代償は大きかったのである。

談志と志ん朝

 志ん朝、円蔵一門が協会に復帰してしばらく経った上野鈴本の楽屋で、一席終わって帰ろうとした談志を、これから出番の志ん朝師がアンダーシャツにステテコという姿で追い駆けて来て高座の裏の通路で言い合いになったことがあった。(略)
「兄さん、あれほど3人(談志、円楽、志ん朝)で一緒にやろうと言ったじゃないか!」
 と、涙を流しながら詰め寄った形相は、普段の明るい温厚な志ん朝からはとても想像もつかない鬼気迫るものがあった。もちろんここで謝ったり弁解したりする談志ではない。
 「何言ってんだ、強次(志ん朝師の本名)、お前が譲らねえからいけねえんだろう。自分から播いた種だ、俺あ知らねえよ」
 「そんな事言ったって……」
(略)
[それでも完全決別、犬猿の仲にはならず]
やはり何のかんの言っても落語という共通部分でこの両者は認め合っていたのだろう。(略)
 志ん朝師が亡くなる少し前に、談志が、
 「お前、早く志ん生になっちまえ」
 と言ったら志ん朝が、
 「なってもいいけど、志ん生を襲名したら兄さん口上に並んでくれる?」
 「いいよ、口上でも何でもやってやろうじゃねえか」
 という約束までしていたのである。

  • 学生時代の志の輔は「談志は落語家とは認めない」と広言する志ん朝崇拝者だった
  • 談志はシャイで相手の目を見て喋るのが苦手なのでサングラス
  • 談志の稽古

普通の師匠の稽古は高座そのままにちゃんと一席演ってくれるのだが、談志は噺の途中で、
 「枕はこの小噺とこの小噺があるが好きな方をやれ」
 「ここの所のくすぐりは自分で考えろ」
 「ここは三木助さんはこうやった。志ん生師匠はこう演じた」
 と、やたらブツブツ切るのである。ある程度の芸のある者にとっては合理的な稽古だろうが、初心者には噺の流れがブツ切れになって覚えにくい。

稽古も厳しいが、寄席の高座のチェックも厳しい。(略)普通は談志くらいの幹部になると前座や若手の落語なんか聴かなくなるものだが、談志は結構若手の芸をチェックしていた。売れっ子でこんなに若手の噺を聴いているのは談志と三平師くらいのものだった。私が深夜のマイナーな番組に出た翌日に、寄席で三平師に、
 「談ちゃん、あの番組のネタ面白かったネ」
 といきなり言われて驚いたことがあった。
 当時、深夜にやっていた『落語in六本木』に春風亭昇太が出て、噺の中で、
 「談志師匠なんか大麻やってるんですから……」
 とやったら、その夜のうちに昇太さんの家に談志から電話が掛かって来た。これは小言を喰らうなと恐る恐る電話に出ると、
 「馬鹿野郎、俺のやったのは大麻じゃなくてシャブだ!」
 と訂正されたという
(略)
それもただ聴いているのではなくてメモ用紙片手に聴いていて、ちょっと変な所があると顔を顰めて何かメモに書き込むのである。そのメモも1枚じゃ足りなくて2枚3枚になったりするとこっちは落語どころじゃない。もちろん高座から降りると楽屋でメモを見ながら小言の嵐である。
(略)
最後に、
 「なんでお前は高座であんなにオドオドしながら喋るんだ?」
 って、そりゃあんたがいるからじゃ!

前座としてどっぷり寄席の楽屋に漬けておくと、どんなど素人でも糠味噌の古漬けのように一人前の落語家臭くなっていくから不思議である。だから寄席での前座修業をしていない立川流立川談春の『赤めだか』や立川キウイの『万年前座』といった本に書いてあるのは、いわゆる前座の修業ではなくて、単なる談志による弟子の虐待の記録に過ぎないのである。

小さんも談志も「一門を離れる」「旅に出る」と表現し喧嘩別れではなかったが、談志が悪口を言っていると吹き込まれた小さんが「恩情で破門にしないでおいたのに」と激怒、改めて破門に。

[破門された談生は恩情のある馬風を頼った]
談志の弟子でいた頃は、「あんな訛る人は落語家と認めない」と談生さんは馬風師の事を馬鹿にしていたのだ。ただ馬風師自体はルールに従って談志に電話で談生さんを弟子にする事を報告したのであるが、その時に売り言葉に買い言葉で最後に口喧嘩になってしまい、三遊協会の時は師匠の小さんに背いてまで談志に付いて行くと言った馬風師と談志の関係が完全に壊れてしまったのである。
 実は談志の協会脱退に一番心を痛めていたのが馬風師だった。協会脱退後も談志一門の復帰工作を図ったり、世話になってる談志の弟子が挨拶に行くと、
 「もう少し我慢しろ、必ず協会に戻れるようにしてやるからな」
 と声を掛けてくれたものである。それがあの談生(馬風門下になって鈴々舎馬桜と改名)さんのおかげで、我々談志一門と落語協会を繋ぐ命綱がぷっつりと切れてしまったのである。

  • 年表から

1962年26歳 キャバレーに多数出演、二つ目で八千万円貯める。
1975年39歳 練馬の家を買う資金を派閥領袖大平に借りるも利子を取られ怒る。「利子を取らんと談志君に失礼と思った」
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