近代日本の国家構想 坂野潤治

近代日本の国家構想―1871‐1936 (岩波現代文庫)

近代日本の国家構想―1871‐1936 (岩波現代文庫)

「新攘夷派」の「革命目的」

各人が信じる「革命目的」の優先順位の問題でもあった。それ故に、「強兵」をめざす者と、「富国」をめざす者と、「公議輿論」を重視する者との間の対立は、深刻をきわめたのである。この意味で、1873年から77年にかけて、明治政府は重大な危機に直面していたと言えよう。
  「危機」の発端は、明治政府が第一の「強兵」の課題を、徴兵制の施行によって行おうとしたことにあった。(略)1873年5月から7月にかけて関西以西で頻発した徴兵反対一揆は、この海外派兵を恐れる農民によって起こされたものであった。(略)
 武士の特権を奪って国民皆兵を行おうとして、当の国民の反対に遭遇したのである。当然のことながら士族が自信を回復した。(略)
 出征するわけではなく、ただ徴兵されて入営するだけで一家親族みな涙しているような連中が実戦の役に立つか、と言っているのである。「愛国」が士族の専売特許でしかなかったところに、明治維新の一つの特徴が存在したのである。(略)
戊辰戦争幕府軍を倒した薩摩などの将兵の中には、かつての欧米に対する「攘夷」を、東アジアの盟主になることで代替しようとする「新攘夷」論者とでもいうべき者が多かった。(略)
台湾出兵論者が西郷にその断行を求めるに際して、「討幕の根元、御一新の基」を持ち出し、それを断行しないのならば「全物好の討幕」になってしまうと論じて、西郷を「閉口」させているのである。(略)
日清戦争が「新攘夷派」の窮極の目標であり、しかもそれは冷静着実な侵略論であるよりも、「新攘夷派」の「革命目的」であったと言ってよいであろう。

「富国派」、台湾出兵、立憲制移行

 「富国派」が「強兵派」に対して及び腰であった理由は、先にも示唆した彼らの専制体質にあったと思われる。(略)彼らが重視したのは、「民業」であり「物産」であり、「輸出入の統計」であり、一言でいえば経済的な「実力」であった。それだけに彼らには、軍部や旧軍人たちに別の「実力」をもって圧力をかけられると、それを抑えるだけの権力基盤が弱かったのである。彼らが、台湾出兵に際しても、日清交渉や江華島事件に際しても、軍部や旧軍人の希望を一部容れながら大事に至らないようにする「綱渡り」外交に頼ったのは、このためであったように思われる。
 これに反し、「公議輿論派」は真向から軍部や旧軍人の対外冒険政策に反対した。「公議輿論派」の長州と土佐の政治家たちは、74年中に鹿児島の旧軍人と中央軍部の鹿児島出身者とによってなされた一連の軍事的冒険政策に危機感を強めていたのである。一方では、台湾出兵は、日本全国から言えばその一部にすぎない鹿児島勢力によって強行されたという点で、明治国家の正統性にかかわる問題であった。
(略)
 台湾出兵という対外冒険政策の再来を抑えるための、長州派と民権派の妥協にもとづく立憲制移行という井上構想は、1875年4月にその一部が実現した。元老院の設置、地方官会議の再開、大審院の設置、および「漸次二国家立憲ノ政体ヲ立」るという4月14日の詔勅がそれである。天皇の名によって、近い将来立憲制に移行することが公約されたのである。
(略)
 76年2月末に日朝修好条規が締結されたとき、明治政府は初めて軍部と旧軍人と不平士族が結合するという悪夢から解放された。(略)対外戦争の火種は無くなった。正規軍が鹿児島や全国の不平士族と結んで政府に背く正当性が無くなったのである。(略)
 「新攘夷派」を正規軍から切り難し、「民主化派」を木戸孝允から切り難すことに成功した「上からの工業化派」は、強行突破を決意した。対外危機という旗印を失った「新攘夷派」を追いつめて展望のない反乱に追いやり、それを鎮圧した上で「開発独裁」体制を固める決心をしたのである。(略)西郷の反乱を「新攘夷派」一掃の好機として歓迎し、その鎮圧に自信を持っていた

井上と大隈

井上馨が上からの立憲制移行によって現政権の権力の削減をめざすとき、その対象は二つあった。その第一は、中央の政権を独占する大久保、大隈、黒田、松方などの薩派グループであり、実業界では五代がこれにつらなっていた。もう一つは、同じく薩派勢力といっても、鹿児島に陣取ってほとんど独立王国の観を呈していた島津久光グループと西郷隆盛グループであった。(略)
この二つの「薩摩」との闘いが、井上の立場をいつも不徹底にさせていた。75年の大阪会議で元老院と地方官会議の設置を大久保に認めさせ、「中央権之ヲ殺」ぐのに成功したと思ったのも束の間、江華島事件の勃発で憤るもう一つの「薩摩」を抑えるために、大久保らの窮地を救わなければならなかった。(略)
 西南戦争の勃発が、この問題を一挙に解決してくれた。政府軍が反乱軍を徹底的に叩けば叩くほど、一方の薩摩は壊滅し、他方の薩摩の政府内での発言力も低下するからである。
(略)
[庇護者大久保が暗殺された大隈、懐刀の五代の懸念通り]
伊藤と井上は攻勢に転じた。80年2月末の内閣・諸省分離がそれである。大隈を大蔵省から切り離すことを主目的としたといわれるこの制度改革において、薩派の中心黒田清隆は参議兼開拓長官に居据わり、大隈のライバル井上馨も、参議と外務卿の兼任を認められたのに、大隈だけは会計部担当参議に祭り上げられ、大蔵省の実権を奪われたのである。

憲法義解』、穂積八束「大権政治」論

憲法起草に際しての中心的な外国人顧問であったヘルマン・ロエスラーは井上毅とは反対に、天皇の諸特権を憲法正文に列記することを主張していた。ロエスラーが挙げるいくつかの理由の中でもっとも注目すべきは、将来における政党内閣の成立に対する備えとして、天皇の特権を憲法正文に掲げておく必要を説いている点である。(略)
 二人の論争は、憲法正文ではロエスラーが勝ち、そのかわり伊藤博文名で刊行された権威ある註解書の中には井上の意見が採り入れられた。(略)
将来の政党内閣に対する防波堤でもあった天皇特権の正文化が、『義解』では、それらは「元首」たる天皇統治権を例示する以上の意味を持たなくなっているのである。
 このことと関連して、天皇の特権条項に関する『義解』の説明が、議会の介入を阻むことを目的として、国務大臣の輔弼権の方は逆に天皇に対する大臣の発言力が強くなっている点を挙げておきたい。(略)
[ロエスラーの意図は]『義解』によって骨抜きにされてしまったのである。
(略)
 官制・統帥・編制・外交などの天皇大権は議会だけではなく内閣にも決定権のない天皇親裁事項であるという穂積八束の議論は、かつてのロエスラーの見解を受けついだものであり、政党内閣が仮に成立したとしても政党や衆議院の国政に対する影響力を半減できるものであった。(略)穂積の「大権政治」論は、政党の政権進出を前にして、軍部、枢密院、官僚層を握る山県系官僚にとっては、大変に都合のいい憲法解釈だったのである。

天皇親政論と内政官僚

しかし、この穂積憲法学が大蔵、内務、逓信、農商務などの内政官僚の利益をも代弁していたわけではない。先に見たように、内務官僚の都筑馨六が天皇親政を強調したのは、議会および議会に妥協的な内閣から官僚の政策立案・遂行権を守るためであった。官僚の立場に立って議会と対決してくれる一致団結した「超然内閣」の存在を、都筑は否定するどころか、むしろ強く求めていたのである。しかるに、穂積は軍部と枢密院の利益を守るために、「内閣」の存在そのものを否定してしまった。また穂積は、国防・外交・官制が天皇自身の大権であることを論証するために、釣合い上からか、立法と予算は議会の同意を必要とする、「大権必須」でも「大権可能」でもない、第三のカテゴリーであるとした。一方で強力な「超然内閣」を否定され、他方で議会の立法権と予算審議権を認められては、天皇大権事項に列記されていない内政諸事業を積極的に推進したい官僚たちにとっては、全く得るところがない。天皇親政論が内政官僚ではなく軍部と枢密院の利益しか代表しないことが明らかになったとき、内政官僚たちは政党との妥協の道を求めていった。穂積が『憲法提要』を刊行した1910年頃から、大蔵、内務、逓信、農商務などの高級官僚たちは、山県有朋から離れて、山県の下で政治家として頭角をあらわしてきた桂太郎を戴いた政党の結成をめざしていたのである。

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