未完の明治維新 坂野潤治

未完の明治維新 (ちくま新書)

未完の明治維新 (ちくま新書)

  • 作者:坂野 潤治
  • 発売日: 2007/03/01
  • メディア: ペーパーバック

幕末の議会&憲法

 もっとも議会論そのものに限っていえば、大久保忠寛の公議会論の二年も前に、幕府の蕃書調所の役人であった加藤弘之によって、はるかに抱括的で筋の通ったものが刊行されていた。文久元年(1861)の『隣草』がそれである。加藤はその中で(略)イギリスのような立憲君主制アメリカのような「万民同権」の共和制とを評価し、日本の場合には前者のイギリス型立憲君生制を採用すべきである、と説いた。

 幕末憲法論というべきものとしては、先に見た『隣草』を書いた加藤弘之の同僚だった津田真道が、1867年旧暦九月に著した『日本国総制度』が有名である。幕府からオランダに派遣されて、ライデン大学憲法学をじっくりと学んできた津田だけに、行政権、統帥権、上院と下院の構成と権限を条文化したもので、憲法草案の名に値するものである。
(略)
[ライデン大学教授フィッセリングの憲法講義を]津田がみずからノートを取り、翻訳して刊行した『奏西国法論』は、体裁においても内容においても、そのまま日本憲法の下敷きにできる水準のものであった。
 その内容は、約二十年後の1889年に発布された大日本帝国憲法よりも、はるかに議会主義的なものであった。
(略)
 一読して明らかなのは、議会の地位の高さである。(略)議員を選ぶものは国民であり、議員は「国君」ではなく「国民」の「臣」なのである。
 これだけの憲法論が、幕府からオランダに派遣された幕臣の手で翻訳され、幕府の機関から刊行されていたことは驚きである。しかし、この憲法論は、「薩土盟約」や「大政奉還」の二院制論にはまったく反映されていない。

大政奉還」と「王政復古」

大政奉還で彼が朝廷に返上したのは「将軍」であって、「将軍職」ではなかったのである。慶喜自身は征夷大将軍を罷めても、「将軍職」自体は残っており、「諸侯の公議」次第では、彼が改めて「将軍職」につく可能性もあったのである。(略)「幕府」が「廃絶」されるまでので一ヶ月半の間は、「将軍職」は空位だったのである。
 「将軍職」が空位であったということは、「政権」が存在しなかったということである。この意味では、この通達文で、慶喜が二度にわたって「政権」という言葉を使っていることは注目に値する。そして、新たにできる「政権」は、大政奉還の大前提であった「諸侯の公議」で決定されるべきで、慶喜自身も「断然その席に臨」むつもりだったのである。(略)
[「王政復古の大号令」に]「幕府」の「廃絶」と並記されている「摂関」の「廃絶」の意味である。(略)その意味するものは、単なる政治路線の問題を超えるものであった。「幕府」を「総裁、議定、参与」に換えるだけではなく、天皇自らも象徴的存在から政治的君主に生まれ代わるという意味が、「摂関」の「廃絶」には込められていたのである。
(略)
 こうして、「藩主議会」を開いて再度「政府」に返り咲きたい徳川慶喜と、「藩主議会」抜きで、朝廷の権威と自分たちの武力とで新政府をまず作ってしまいたい薩長両藩とは、互いに武力衝突の覚悟を固めていった。
(略)
[「大政奉還」と「王政復古」]を同じ政治改革の第一段階と第二段階とみなしていたのは、徳川慶喜だけではなかった。土佐藩前藩主の山内容堂、越前藩前藩主の松平慶永などは、この観点から大政奉還を支持し、王政復古に同意したのである。
 彼らは、王政復古当日の夜開かれた小御所会議で、新体制が徳川慶喜を排除して創設されたことを、激しく批判した。

大蔵官僚

王政復古後の大蔵官僚の誕生が、横井小楠の「富国論」や佐久間象山の「強兵論」に待ったをかけた。(略)
[岩倉使節団として渡欧した]伊藤の留守中の大蔵省を担ったのは、伊藤があれほどに期待していた大隈重信ではなく、伊藤が同輩視していた井上馨大蔵大輔と、おそらくは伊藤の眼中にもなかった渋沢栄一大蔵大丞であった。しかし、この両人も、伊藤外遊中の大蔵官僚として、陸軍省、文部省、司法省の近代化改革の前に立ちふさがったのである。(略)大隈は参議に昇進すると、一転して大蔵省を攻撃する側にまわった。
(略)
明治六年(1873)五月の井上と渋沢の大蔵省退任は、「緊縮=健全財政」の敗北を意味するものであった。両者は辞職に当たって政府に提出した建議書を二、三の国内新聞と横浜の英字新聞に発表した。廃藩置県後の中央官省の「開化ラッシュ」と政府財政の危機的状況[一億二千万円の国債負担と毎年一千万円の歳入不足]が、国内外に知れわたってしまったのである。

台湾出兵征韓論

 約三十年も前に毛利敏彦氏が、西郷隆盛征韓論者ではなく平和主義者であったと唱えた時、歴史学者の多くは黙殺した。(略)
 その当時、西郷隆盛桐野利秋が率いる薩摩軍団の目標は、台湾出兵による日中戦争にあると考えていた筆者は、征韓論に関する限り、毛利氏の主張を基本的に支持した。台湾問題を機に中国と一戦しようとする桐野や、樺太問題でロシアに強硬態度を執れと西郷に迫る開拓使長官(北海道)の黒田清隆を抑えるために、西郷は朝鮮問罪使節となろうとしたのである。武力を背景としながらも、西郷が使節全権となってやろうとしていたことは朝鮮への開国要求であって、それが「征韓論」のように響いたのは、自己の配下の対外強硬論者に対する説得のポーズだったのである。
(略)
 当時、大久保利通が、台湾出兵の処理のために北京で中国政府と交沙中であった。しかし海軍次官は、この交渉はまとまらないで、日中戦争になると考えていたのである。しかも、日中が本気で一戦となれば、日本の陸海軍の最高司令官は西郷隆盛以外になく(略)
 また台湾出兵の結果、日中間が戦争寸前に至ったとすれば、台湾出兵は「征韓論」よりもはるかに重大な事件であったはずである。

民撰議院派と憲法制定派の妥協

藩主を集めた上院と、藩士の代表を集めた下院の二院制構想(略)では、「憲法」というものはほとんど論じられることはなかった。考えてみれば、これはある意味では当然のことであった。上院に集まる各藩主は領地内の租税と軍隊を握っており、下院に集まる藩士代表は、各藩における藩主のブレイン的存在であった。
 財権と兵権を握った藩主を集めた議会に、政府は何を諮問したらいいのであろうか。憲法というものは、行政府と立法府の権限を明確にするために必要なのであるが(略)
[明治6年帰国した木戸孝允は行政府と立法府を区別するところから議論を始めた]
[進歩的な民撰議院派は幕末議会論の系譜を引き、保守的なのが「憲法派」]
(略)
憲法制定に際しての政府側の最大の関心は、議会の権限を制限することにあり(略)
 時間の点でも憲法制定派は、議会派より保守的である。(略)
 政府の兵権と財権が議会に侵されないような憲法を、国民が納得するような形で制定するには、欧米諸国の諸憲法を本気で比較検討した振りをしなければならない。さらにその上で、国内の各機関でも慎重審議した振りもしなければならない。憲法制定には時間がかかり、それゆえに議会開設にはもっと時間がかかるのである。
(略)
明治七年といえば、政府内外の薩摩派が台湾出兵日中戦争に発展させようと努めていたときである。これに対し「民撰議院派」は明らかに旧土佐藩中心の運動であり、「憲法論」の提唱者は、旧長州藩の最有力の指導者であった。
(略)
台湾出兵だけならばともかく、それが日中戦争にまで発展したら、当分の間「民撰議院」や「憲法制定」どころではなくなるからである。
(略)
木戸派が議会開設を容認する代わりに、板垣派は政府権限を強く規定した憲法の制定を認めるというのが、両派が見出した妥協点だったのである。