デカルトの骨

デカルトの骨 死後の伝記

デカルトの骨 死後の伝記

スウェーデン女王クリスティナ22歳

1632年に父王が戦死し、僅か六歳で女王に即位する。(略)彼女の父グルタフ・アドルフ王が支配していた当時、この国はまだ中世だった。どこまでも広がる牧草地と、松と樺の森。その中に時折、ささやかな農村が散らばっている。王は神話の英雄であり、金髪のノルディック。そして剛勇無双の戦士。敵は彼を「北の獅子」と呼んだ。裁判は戸外で行なわれ、農民は税を物納していた(略)
[王が]銃弾を受けてニーダーザクセンの泥土に斃れる頃には、スウェーデン周辺諸国から一目置かれる存在となっていた。洗練された社会と経済、官僚制を持つ国家へ。幼いクリスティナが成人するまで、実権を握っていたのは宰相アクセル・オクセンシェルナだった。アレクサンドロス大王のように、彼女は若い頃から書物と戦術を教え込まれた。

幻滅、飼い殺し、死去

[素晴らしい知性の持ち主という噂の]女王との初めての希望に満ちた謁見(略)初めのうちこそクリスティナは彼の哲学に熱心だったが[すぐに彼女はギリシアの秘教的叡智に傾倒しデカルトを失望させる](略)
一方彼女の方もまたデカルトには失望したらしい。炎のような改革者と聞いていたのに、ただのよぼよぼの頑固爺ではなくて? あんな哲学、政治に役立つどころか、修身の一つにもならないわ。

 お互いの幻滅は冬の間、ずっと続いた。状況はデカルトにとって不利だった。彼は夜型で、夜更かしして仕事をするのが好きだった。一方彼女はいつも朝の四時に起床し、五時から哲学を講じるよう命ずるのだ。夜明け前の闇の中、シャニュの館から出た馬車は、ストックホルムの中枢である島の中心にある丘をがたがたと越え、港の上にそびえる堂々たる城に向かって上って行く。寒い。これまで体験したことの無いほどの寒さ。(略)
[案の定、彼は発病し死去]
 状況は芳しくなかった。この偉人をここまで連れてきたのはシャニュとクリスティナである。そして二人は彼を飼い殺しにした挙げ句、実際に殺してしまったのだ。(略)不本意なのは山々だが、責任は引き受けねばならぬ。彼は事実を公表した。デカルトの死の翌日から、彼の書簡はヨーロッパ中に出回った。

不老不死デカルト

 彼の死の報せはあっという間に広まり、そして奇妙なことに、人々はそれに当惑した。デカルトがいずれ病を根絶し、人間の寿命を劇的に延すという期待は根強く広まっていたのだ。一部の知識人は、そもそも彼が死ぬという可能性すら否定していた。「あり得ない」とフランスのクロード・ピコ神父は書いている。「デカルトは数世紀に亘って生きる技術を発見し、五百年は生きるだろうと信じていたのに」。不老不死研究の第一人者がこれほど早死にするとはどういうことなのか? ピコは言う、何かが「彼の機械を狂わせたのだ」。噂は何十年もの間、囁かれ続けた。つまり彼は毒殺されたのだと。

だが、どこに埋葬する?

クリスティナの心に迷いはなかった。盛大な儀式を執り行った後に、リッダーホルム教会に眠ってもらうのだ。スウェーデンの歴代の王が眠る古い墓所だ。彼女自身の父親もそこにいる。(略)
[だがシャニュはカトリックデカルトルター派の教会に葬るのは如何と反対]
[人気のない小さな墓場に]葬られているのはほとんどが身寄りのない子供である。おそらくシャニュはあれこれ調べた末に、まだ分別の付かない年齢の子供たちならカトリック教会の恩寵の内にあると考えられるので、彼らが埋葬されている墓場なら、たとえカトリックの聖別を受けていなくとも不浄とは言えない、と結論したのだろう。よし、神学的にはこれでいい。それにもっと都合の良いことに、場所も辺鄙だ。

デカルト主義者のサロン

 毎週行なわれる集会に参加していた人々の中には、17世紀で最も有名な人々もいる。フランス最高の劇作家モリエール社交界の花形マダム・ド・セヴィニエ、オランダの博識家クリスティアーン・ホイヘンスホイヘンスは振り子時計を発明し、新天体を発見し、計算法の発達に寄与した人物だ。彼らのお目当ては、当代随一のデカルト主義者として知られる物理学者ロオル。(略)
[ロオルの公開実験には]パフォーマンスの要素も含まれており、客の中には見世物目当てに来る者もいたことは間違いない。色とりどりの炎、泡、爆発――デカルト主義はスペクタクルとなった。そこでは物質を超えた世界、超自然の領域を垣間見ることができるという噂もあった。(略)だがロオルとその客のほとんどが追い求めていたのは別のものだった。自然には秩序がある。哲学の諸原理――デカルトの方法――という不可視の基盤から一段ずつ歩を進めて行くなら、やがては物質の蘊奥を極め、これを操作できるようになる。
(略)
 デカルト主義を取り巻く危険はますます増大していた。だが一部の――ロオルを含む――人々は依然として、彼らの主義は聖俗両権力に仕えることができるかどうかを議論し続けた。彼らによれば、この新哲学は信仰にとって脅威であるどころか、むしろそれを守るものである。デカルト自身もその立場を採っていた。権力者の中にも、この奇妙でよく解らない新たな道具が、実際には教会や国家にとって新たな武器になる、と言われてその気になる者も数多くいた。空気は好奇心と恐怖の間を行きつ戻りつしていた。つまり17世紀後半のデカルト主義者の状況は、ある意味で古代ローマカタコンベの中の初期キリスト教徒のそれによく似ていた。

崇拝者が墓を暴く

死から16年経った1666年、デカルトを崇拝する人々が教義布教のため墓を暴き遺骨を「聖遺物」として祖国フランスへ持ち帰る。

その哲学を合法化し、自分たち自身を守るため、デカルトの信奉者たちはデカルト自身の物理的身体の遺物を利用しようとしているのだ。(略)
彼らの目的は、教会と政府の人間を動かすことである。そのためには、公式の承認と崇拝を得られるような、有無を言わせぬ験力ある儀式を挙行せねばならぬ。そして遂に六月末のとある夕刻、見世物の準備は整った。太陽がゆっくり沈む頃、セーヌ河畔のダリベールの家の前の狭い通りは、大勢の人でごった返していた。聖職者、貴族、そしてデカルトの友人たちの姿もあった。だが同じく重要なのは、ごく普通のパリ市民が、それも最も貧しい階層の人々までが通りを埋め尽くしていたことだ。(略)
[棺が安置されていたサン・ポール教会で遺骨を受領しサント=ジュヌヴィエーヴ教会の地下埋葬室へ]
公爵、弁護士、数学者、廷臣、パリ高等法院やアカデミ・フランセーズのメンバー、宮廷お抱えの築城学者、宮廷侍医らが、哲学者の骨の帰国を祝う長い長い宴に参加した。その目的は一つ、この大義を推進すること、すなわち頑迷固陋にして旧態依然たる知識構造を完膚無きまでに破壊し、社会をデカルト主義に引きずり込むことだ。デカルト主義こそは理性の宗教である。最も真正にして確かな基盤とは人間の精神であり、その「良識」であるとする信仰だ。

フランス革命の動乱後、彼の頭蓋骨が消失していることが明らかに。その行方は……というのが肝心の本題なのだけど、そっちはスルー。