誰も信じない星新一

下ネタ好きというのも意外だが、父の会社のゴタゴタからきた人間不信が衝撃(元来の性質、家庭環境も関係してるようだが)

 どうしてあの人はこうなのかしら――。
 香代子は、新一のショートショートを読み返すたびにそう思う。人がみんないなくなる。世界は滅んでしまう。静寂が訪れる。すると、機械がカタコトと動き出す。そんな物語ばかり。悲観的で、絶望的で、厭世的で、せつなくて、かなしくて。
(略)
 人を信用しない人だった。編集者ばかりではない。秘書はいない。税理土もいない。育児に追われて家政婦を雇いたいと相談したときも、他人を家にあげることを嫌い、強く反対された。
(略)
親戚でも遠い関係となると警戒した。家で会社や親のことをほとんど話さなかったのも、妻に言えばその母親に伝わり、そこからまた誰かに伝わると思ったからなのだろう。
 信じられるのは自分ひとり、だった。

星新一 一〇〇一話をつくった人

星新一 一〇〇一話をつくった人

モルヒネで財をなした父・星一後藤新平の資金源とみなされ政敵の圧力で破産。

 大正に入ると、後藤新平の口添えもあり、台湾総督府専売局から粗製モルヒネの払い下げを受け、初めてモルヒネ国産化に成功。独占的に製造することが可能となった。(略)
星一は「英国モルヒネを駆逐する。中国市場から阿片に関する限り」との勢いで、ポンド六百円のモルヒネを中国に送り込んだという。革命動乱の最中だったが「星印モルヒネ」は飛ぶように売れ、製造が追いつかないほどだった。ちなみに当時の天津、奉天総領事はのちの総理大臣、吉田茂である。
 モルヒネに続き、コカイン、キニーネと国産アルカロイドの生産に着手してからは、アメリカとイギリスに代理店をもち、南米ペルーにコカ薬草園をつくるために三千平方キロメートルの土地を購入するなど、世界的な製薬会社として躍進しようとしていた。

 星一の台湾キナ樹視察に随行していた台湾総督府専売局阿片課の荒川禎三は、星一の次のような言葉を耳にしている。実際、語尾に「ネ」をつける特徴ある語りロだったらしい。
 人生は面白いネ、今度は借金王から規那王になるネ。台湾の中央山脈は全部規那林にしてしもうからネ。高砂属十五万人に職を与えるネ。理蕃事業と星の規那事業は併進するネ。きっとなるネ。大なる失敗は大なる幸福の前提だネ。星は三千六百五十万円の借金があるがネ。その借金を五年で皆済するネ。東京に戻って直ぐアメリカに行くネ。星を救済するシンジケート団をつくるネ、少し忙しくなってくるネ。人間は常に永遠のことを考えておかねばいかんネ。

不屈の男・星一

 満州ハルビンにエ場ができた昭和十八年春、星製薬は、軍の命令で東洋一といわれたキニーネ製造装置を強制的に供出させられた。(略)
 阿片事件で失墜した星一が復活を賭けた台湾のキナ事業が、国策の名のもとに一瞬にして奪われたことは会社にとって甚大な被害となったが、星一は、「これからは台湾ではなく満州だ」と即刻方針を切り替え
(略)
災いも一瞬にして好機とみなす持ち前の楽天主義は、満州を新天地とみなした。満州の工場を「人民救済のためのエ場だ」と呼び、胃腸薬や食用酒、代用食品の生産を目指した。ひとつの選択肢がつぶされても次を探し、即座に行動する。大言壮語といわれようが、山師と嘲弄されようが、それが星一のやり方であった。

全国特約店三万店舗のホシチェーン

問屋を通さずに品物を直接販売店に卸すことで利益率を高く商品を頒布するという流通革命、さらには、無月謝、寄宿舎代も無料で薬局の子弟を教育する画期的な教育システム、女性が働きやすいように、会社に託児所や幼稚園を設けるといった福利厚生。

病弱な幼少時代

 「頭がとっても大きくて三角むすびを逆さにしたみたいな、かわいい方。どこか女性的でおとなしくて、フットベースボールをやっていても、ふにゃふにゃとしか蹴れなくてね。リレーではもたもた走っていましたけれど、おつむはよかった」
(略)
うさぎとカメの物語の途中で突然、「カメが勝ったのは流線形だったからでしょう」と新説を披露して教室をざわめかせたこともあった。

農村へ勤労奉仕にでかけた親一(本名)

田淵は村の人たちに、親一を星製薬の御曹司だと紹介した。全国津々浦々にホシチェーンが展開され、ホシ胃腸薬の赤いブリキの看板が至るところに掲げられていた時代である。抜群の知名度があったため、農民たちは驚いた。帝大生、しかも、背が高く色の白い紅顔の美男子だ。まるで、天子様が下りてきたみたいな騒ぎだったという。

[友人談]谷崎潤一郎の娘とも見合い

をしたようです。(略)銀座の天國の上の座敷でやったようです。次に会ったときに顚末を聞くとだめだったと。なんだ、不器量なのかって訊ねたら、いや、器量はいいんだけど、金遣いが荒いと。なんでも給料が五万円の時代なのに週一回上京してきては三越で毎月十万円買い物をする。十万円買い物に使われたら暮らしちゃいけないといってましたね。

UFO研究会の例会で柴野拓美がSF同人誌を提案すると親一が真っ先に参加。

 日本空飛ぶ円盤研究会(以下、円盤研究会)の設立準備が始まったのは、(略)昭和三十年七月である。顧問には荒井の友人で作家の北村小松徳川夢声ら七名の著名人が就任し、荒正人新田次郎、畑中武雄が特別会員として名を連ねた。(略)若き作曲家として勢いのあった黛敏郎芥川賞を受賞したばかりの石原慎太郎ら著名人たちが続々と入会した。会費だけ払って実際には顔を出さない会員もいる中で、熱心に円盤観測会などのイベントにも顔を出していたのが会員番号12番の三島由紀夫だった。

星新一」という筆名による初めての原稿

 「宇宙塵」創刊号のために書いた文章も小説ではない。愛読していた「リーダーズダイジェスト」の記事や科学書のトピックスを紹介しながら、地球環境や人類の進化についてあれこれと思考をめぐらせた「ある考え方」と題する約四千字の随筆だった。

ある新聞社が最も簡単に皿を洗う法という懸賞募集をした時一等になったのはなんと「皿をゼラチン質でつくって食後のお菓子として食べてしまうこと」であった。(略)ビルの残骸から糞尿、原子炉のガスに至るまで、ゴミの増加が大きな問題となる日も近い気がする。(略)
 文明の遺跡とはピラミッドや土器のかけらといった形で残らなければいけないという考えはどうかと思う。むしろ文明の高い場合には遺蹟が残らないと考えた方が正しいかも知れない。
 最も素晴らしい道具とは使ったあと、放っておくと消えてしまうものかも知れない。

「セキストラ」に衝撃を受けた矢野徹は作家の道を断念

こうして、親一が何も知らないところで、参謀総長江戸川乱歩と仕掛け人・矢野徹による「作家・星新一」売り出し戦略がスタートする。
[そのとき、親一は取締役を辞任し会見]
私には経営的手腕もないし、再建する意欲もない。同族会社そのものなので、私がその権利を全て放棄すれば、(略)社員たちの退職金とすべての借金は賄えると思う。

天才の努力

新一の場合、この前後からつとめて行っていたのは、読んでおもしろいと思った小説や映画、新聞の小さなコラム、小話を徹底的に暗記することだった。それを「宇宙塵」の集まりで披露する。周囲をあっと驚かせたり、嘆息させたりすることが自分自身への刺激となった。
(略)
 だれに教わったわけでもないが、新一はこれまでとは違う人間関係に自分の身を置いて初めて、こうした練習を積み重ねた。

明日につづく。